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〔平和月間〕主日礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年8月15日 1 聞け、主の言われることを。立って、告発せよ、山々の前で。 8月15日の今日は「終戦記念日」、この国の公式の呼び方では「戦没者を追悼し平和を祈念する日」です。この礼拝の終わり頃には、政府が主催する「全国戦没者追悼式」が行われます。戦後65年。すでに、わたしも含めて多くの者は、あの戦争を直接には体験していない世代です。それでも、この日を迎えることは、この国に生きる者にとって、重い過去の現実に目を向けさせられることです。今日は、戦後世代の姉妹の証しを聞きました。それはそれで大切なことですが、わたしたちはなお、戦争体験者の話を聞き続けることが必要なのかもしれません。わたしの母方の祖父は、従軍記者としてフィリピンに行き、そこで戦病死しました。遺骨は帰ってきませんでした。紙切れ一枚の通知です。空っぽの骨壺が、20年ほど前に亡くなった祖母の骨壺と共に墓に収められています。その祖母は、クリスチャンでしたが、戦没者追悼式に参列し、夫が祀られている靖国神社に詣でていました。どういう気持ちで参列し、詣でていたのか。残念ながら、わたしは、生前の祖母から、そのことについて話を聞く機会はなかったのです。 今日の新約聖書の御言葉は、先主日に続いてエフェソの信徒への手紙から与えられました。この手紙で、使徒パウロは、主イエス・キリストの実現してくださった「平和」を力強く宣言しています。今日の招詞も、その平和宣言の一つです。 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(エフェ2:14〜16) 平和とは何でしょうか。戦争が終わることでしょうか。戦争を起こさないことでしょうか。それも、平和でしょう。けれども、パウロは言うのです。平和とはキリストです。平和とは、キリストによって敵意という隔ての壁が取り壊されることです。平和とは、敵意によって隔てられていた者たちが、キリストにあって一人の新しい人に造り上げられることです。キリストという新しい人の一つの体にされて、何よりも神と和解させていただくことです。 皆さんは、今日、戦没者追悼式に行かれるのでなく、礼拝においでになられました。平和集会に行かれるのではなく、礼拝においでになられました。どうしてでしょうか。わたしたちの平和は、神と和解させていただくことから始まるからでしょう。神と和解させていただいている。わたしたちは、礼拝にあずかるときに、そのことを確かめさせていただいているのです。神が、こんなわたしたちを愛して、赦してくださっているから、わたしたちは、礼拝にお招きいただいているのでしょう。あずからせていただいているのでしょう。 この和解から始めなさい、神との和解から始めなさい。神と和解させていただいた者として、キリストという新しい人の一つの体に造り上げていただく者として、平和への歩みを始めなさい。そう、わたしたちは、パウロに教えられています。いいえ、主イエス・キリストにお教えいただいているのです。 古い人を脱ぎ捨てる 愛する皆さん。わたしたちは皆、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着けるために、神に招かれ、教会へと招かれ、洗礼の恵みのうちに招かれ、信仰生活に招かれました。それが、神の御心です。ご計画です。 どうしたって、わたしたちは、自分が古い人のままでいてよいとは、思っていないわけです。古い人。過去の自分です。たった今まで身に着けて歩いてきていた過去の自分。神の前に立たされてみると、あまり立派とは言えない今までの自分の姿に、気づかされます。人様の前ではどうにか格好をつけていたかもしれないけれども、すべてをお見通しの神の目にさらされると、やはり、言い訳のできない過去があるでしょう。平和を実現することとは反対の行動をしてきた過去があるでしょう。行動すべきときに行動しなかったり、関わるべきときに無関心を通したりした過去があるでしょう。 もっとも、そうは言っても、わたしたちは、案外、そういう自分に愛着があるものかもしれません。お気に入りの服を、わたしたちは、なかなか捨てられないものです。いや、お気に入りというわけでなくても、「これ」という新しいものが見つからないと、どうしても、今までどおりのもので済ませようとしてしまう。それどころか、「これ」と思い切って新調しても、何か自分に合わないような気がして、タンスにしまい込んでしまい、また古いものを引っ張り出してきてしまったりすることさえある。 わたしたちは、自分では、自分のことを、それほどひどいとは思っていないかもしれません。まだまだ大丈夫、と思っている。でも、それは、本人がそう思っているだけで、神の目から見たら、後生大事に守ってきた古い自分は、どこもかしこも、もう綻びだらけで、とても使い物にならなくなっている。騙し騙し使っているけれども、ひどく破れる寸前になっている。 神は、だれよりもそのことをご存じでいらっしゃるから、わたしたち皆が、古い自分を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着けることができるように、お招きくださったのです。新しい人。主イエス・キリストのことです。イエス・キリストという新しい人を、わたしたち皆が、身に着けることができるように。しかも、今まで、どんな自分を身に着けていたかは、一切関係ありません。紳士服屋の古いスーツ下取りキャンペーンよりもずっと気前よく、神は、わたしたちの身に着けていた古い人を、その脱ぎ捨てたものを、引き受けてくださって、その代わりに新しい人、主イエス・キリストを身に着けるようにと、お与えくださっている。 すでに洗礼を受けられた皆さんは、よくご存じのことです。洗礼を受けたとき、わたしたちは皆、古い自分の脱ぎ捨てて、主イエス・キリストという真新しい人を着させていただいたのです。そのキリストが、わたしたちを内から外から、日々新しく造りかえてくださる。もちろん、すぐに完全に、というわけにはいきません。わたしたちの古い自分の抵抗があるからです。でも、確実に、キリストは、わたしたちを新しく造りかえてくださる。洗礼を受けたとき、わたしたちは皆、そのことに信頼して、だからこそ、キリスト者と呼ばれることを良しとしました。 新しい人を身に着けたら 心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。 神が願ってくださっていることは、わたしたちの生活が新しくなることです。わたしたちの日々の生活習慣が、本当に平和を実現するのにふさわしく新しくされることです。わたしたちが、神との間の平和を得て、自分自身の心の平和を実現し、すべての隣人との平和を実現する、そのための新しい生き方の道筋を、はっきりととらえて、歩んで行くようになることです。 わたしたちも、そのことを願います。そして、願うからこそ、パウロの勧めにも、真剣に取り組みたいのです。 偽りを捨てて、隣人に対して真実を語りなさい(25節)。 怒ることがあっても、罪を犯してはいけない。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけない。悪魔にすきを与えることになるから (26〜27節)。 盗んではいけない。自分で働いて収入を得て、人々に分け与えなさい(28節)。 悪い言葉を一切口にしないように。聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を必要に応じて語りなさい (29節)。 まだまだ続きますが、今は、この勧めの教えの一つひとつを取り上げることはいたしません。わたしたち、それぞれに、この教えを聞いて、関連する主イエスの教えを思い起こしながら、毎日の生活の中で、取り組みたいと思います。そのかわりに、今は、一つの言葉に耳を傾けたいと思います。 神の聖霊を悲しませてはいけません。(30節) 神を悲しませてはいけない。キリストを悲しませてはいけない。そう言い換えてもよさそうです。でも、パウロは、神の聖霊を悲しませてはいけない、と言いました。パウロは、恐らくそれによって、洗礼の事実を言おうとしているのです。 あなたは、かつて洗礼を授けられた。洗礼の恵みにあずかった。そうであれば、その事実を忘れてはいけない。その事実から離れてはいけない。洗礼のしるしを通して、あなたがたしかにキリストと結ばれて、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着せられて、神にかたどって造られた人、神に似た人、キリストに似た人へと日々新たに造り直されていく、その約束を神からいただいた。その洗礼の事実、その洗礼を信じた事実から離れてはいけない。それを忘れ、そこから離れることは、神を悲しませ、キリストを悲しませ、聖霊を悲しませ、教会を悲しませること。 神は、どれだけ、悲しみの涙を流してくださったのでしょうか。どれだけ、わたしたちの信仰の先輩たちが、同じ涙を流してこられたのでしょうか。わたしたちは、その涙に応えるものでありたいのです。本当に新しい人を身に着けて、神の子と呼ばれるにふさわしい新しい生活へと、導かれたいのです。 祈り 主よ。御子に結ばれて、平和を実現する新しい人を着させていただきました。生活のすべてを新しくしてください。主の器として用いてください。アーメン |