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〔平和月間〕主日礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年8月22日 1 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に ぶどう畑を持っていた。2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り 良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。3
さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。4 わたしがぶどう畑のためになすべきことで 何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。5
さあ、お前たちに告げよう わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ 石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ6 わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず 耕されることもなく 茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。7 イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑 主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに 見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに 見よ、叫喚(ツェアカ)。 (イザヤ書5章1〜7節) その参加者の一人である彼女が講演から聞き取った一つのこと、「神が私たちに仕えてくださる愛」という事実は、大変大きな気づきであると思います。私たちは、神の「広い愛」をいただいております。平和な中に生きていますと、広く、平等に愛する「博愛」に、優しく包まれているように感じます。しかし、神の愛は「博愛」という言葉を超えるものです。それは、広いというだけではない、長く、高く、また深い愛であるのです(エフェソ3:18)。 アフリカの伝統的な刺繍を縫う仕事をするシスターの伝統的な祈りの一つに、このような美しい言葉があるそうです。 「神よ、あなたは針、私は糸です。私を通して、キリストをおり なしてください。」 私たちは、一目一目を、時には、これでよいのかと思いながら進みます。しかし、その裏側には、すでに美しい幾何学模様が計画されているのです。神のご計画の広さ、長さ、高さ、深さ、その全体像は、被造物である私たち人間には、計り知れないものであります。しかし、私たちが、まったく何も知らされずに、この人生を歩むのかと言われれば、そうではないのです。私たちは、神のみ心が現わされる人生として、自らの過去や将来を見つめることができます。 神のご計画は、私たちのこの現実のどこに表わされているでしょうか? 私たちは、自らの歩みに現わされる、神の愛の広さ、長さ、高さ、深さを、どのように知ることができるでしょうか? この問いは、本日、この礼拝に集められた私たち一人一人に向けられた幸いな問いであると思うのです。 本日、共に朗読を聞きました使徒書は、使徒言行録13章です。シリア州のアンテキオキアの教会で、パウロとバルナバが選び出され、二人は共に伝道旅行に出発しました。キプロス島を横断し、ペルゲという町を通り、ピシディア州の方のアンティオキアに到着しました。二人はそこで、安息日に会堂に入り、会堂長の配慮を受けてメッセージを語りました。パウロは、旧約聖書から説き起こして、旧約の預言が主イエスにおいて成就したことを語りました。パウロの説教を聞いた人々は、非常に感銘を受けて、次の礼拝でも同じ説教が聞きたいと望みました。説教は、人々に驚きをもたらすものでした。次の安息日には、人が人を呼び、私たちの「一人が一人を」じゃないですけれど、ほとんど町中の人が集まったと言います。 一方、ユダヤ人の指導者たちにとって、パウロの語るメシア観、イエス・キリストの十字架と復活の信仰は、決して受け入れられるものではありませんでした。ユダヤ人は、「ひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」(45節)とあります。このユダヤ人の攻撃は、パウロの説教が異端であるという、教理の違いに関する批判というよりは、パウロの説教を聞きに集まっている大勢の群衆を見た時の、人々の嫉妬心であったと伝えています。大勢の人の注目がパウロとバルナバの下に集まっているのを見て、ユダヤ人は、「ねたみ」でいっぱいになったと言うのです。パウロの説教は、ユダヤ人には拒絶され、多くの異邦人に受け入れられました。このことをパウロは、ローマの信徒への手紙9〜11章にかけて、さらに体系的に語っています。「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです」(ロマ11:11)。この「ねたみ」は、神の深いご計画に基づくものであると言うのです。 「ねたみ」とは、私たち人間にとって、最も経験のある感情の一つであると思います。「チェッ」と言ってしまうような小さなものから、相手を殺めるに至るまで、人間はさまざまな「ねたみ」を持ちます。私たち、被造物である人間の原点を描いている創世記の中には、この人間の「ねたみ」が渦巻く物語が率直に語られています。アダムとエバの息子たち、カインとアベルの物語を思い起こします。カインは、神が自らのささげものに目が留められず、弟アベルのささげものに目を留められたとき、「激しく怒って顔を伏せ」ました(創4:5)。また、アブラハムの子、イサクの息子たち、エサウとヤコブの物語を思い起こします。エサウは、弟ヤコブにだまされて長子の祝福を取られてしまったとき、それを「根に持って、ヤコブを憎むようになった」と言います(創27:41)。「そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる」と、心の中で言ったとあります。ヤコブの息子たちもまた、激しい「ねたみ」の中にありました。兄たちは、弟のヨセフが特別にかわいがられて、裾の長い晴れ着を着せられているのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかったと言います。これらの創世記の物語の中では、兄たちは「ねたみ」に燃え、殺意を抱き始めるのです。兄たちの競争心は、たしかに恐ろしく愚かなものに見えます。しかしながら、一方で、このような兄たちの心の動きに共感するという人も少なくないのではないでしょうか。 主イエスがお語りくださった「放蕩息子のたとえ」というお話があります(ルカ15:11~32)。このたとえもまた、私たちが暗に注目すべき存在を示しています。「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言い、その財産をもって放蕩の限りを尽くします。やがて無一文になり、ボロボロになって帰って来た息子を、父が最上級の抱擁と接吻で迎える物語です。最高のホームカミングを果たした息子の物語なのですが、この息子は一人っ子ではありません。兄がおり、兄は、堅実で家業を手伝い、父親に背くことがなかったと言います。その兄は、身勝手に浪費した弟が帰って来た時、素直に喜べません。父の喜びともてなしぶりに、「ねたみ」を抱くのです。父の愛情が、自分ではない、弟に向けられていることに、我慢できません。最も親しいはずの兄弟であったとしても、です。否、最も親しい関係であるがゆえに、兄弟と比べることに躍起になるということもあるかもしれません。 私たちの教会の交わりは、しばしば「兄弟姉妹」と呼ばれます。名前も、多くの場合、敬意と親しみをこめて「姉」や「兄」という敬称で呼び合います。しかしながら、「兄弟姉妹」が、「ねたみ」という大きな苦悩を経験しなければならないことがあります。しかし、創世記のあの兄たちの「ねたみ」がそうであるように、私たちの「ねたみ」は、対人(対弟)の関係の中だけで起こることではありません。その根はもっと深いところにあります。「父」の愛が、自分ではない、弟の方に向いているということに耐えられない。「ねたみ」の根本は、「父」との関係の方にあります。それゆえに、「父」との関係が不確かなまま、弟に感情をぶつけても、本当の解決にはならないのです。私たちにとって本当に大切なことは、兄弟と比べてどうかということではありません。私たちの内の「ねたみ」を本当に解消するものは、天の「父」がこの私を愛してくださるという事実であります。 本日は、もう一つのことに触れたいと思います。それは、天の「父」がこの私を愛してくださるという事実と共に、私たちが「父」を愛するか、という問いです。「ねたみ」(ゼーロス)、「ねたむ」(ゼーロオー)という聖書の言葉は、熱心になる、熱望するという意味があります。現在、私たちが用いている新共同訳の聖書では神の「熱情」と訳されている言葉が、前の翻訳では「ねたみ」と訳されていたことは、よく知られていることです。神もまた、「ねたみ」を抱かれます。それは、神の、内なる煮えたぎるような思いを表わします。深い、深い、神の苦しみを思わせるような言葉です。それは、単に自分が愛されないことに対する怒りではありません。自分の愛する者の愛情が、他の者に向けられている苦悩です。深い愛ゆえに、深い苦悩が起こるのです。 本日朗読を聞きましたイザヤ書のぶどう畑の歌には、イスラエルへの神の思いが歌われています。手間をかけ、愛を注いで待ったのに、なったのは酸っぱいぶどうの実であったという、神の嘆きが吐露されています。約束の民イスラエルが、唯一の神主を忘れ、神でないものを神として生きている、その背きに、神は深く心を痛められ、裁きを実行されます。イスラエル周辺の諸外国、つまり異邦人を巻き込んで行動を起こされるのです。そうしてイスラエルは、一つの滅びを経験しなければなりませんでした。神こそが、「ねたむ」ほどの深い思い、その熱情をもって私たちを探し求め、その熱情が、私たちの生き方に変化をもたらすのです。 神の救いの歴史を知るユダヤの人々に、パウロは、預言者イザヤの言葉を用いて語りました。パウロが解き明かす神の壮大なご計画は、ユダヤ人には受け入れがたいものでした。ユダヤ人の心はますます頑なになり、異邦人が信仰を継ぐ者とされるのです。本日の物語には、受容と拒絶、相反する2つの反応が現れ出ています。結論は、人々がバラバラに分裂して終わった、ということでしょうか。そうではありません。私たちは、いつも目の前の出来事やその結果に、一喜一憂してしまいます。しかし、私たちには、その出来事の背後にある深い意味が問われているのです。パウロとバルナバは、勇気を持って福音を語ったことで、同胞からの激しい拒絶に遭いながらも、そこに異邦人への伝道が前進したことを確信しました。「こうして、主の言葉はその地方全体に広まった」(49節)と言われています。パウロの教えが前進したのではなく、バルナバの説教が成功したのでもない、「主の言葉」御自らが、その地方全体に広まったとあります。主の福音御自らが、ご計画を前進させるのです。パウロやバルナバは、ユダヤ人に迫害され、その地を去らねばなりませんでしたが、パウロはその出来事の中にも神のご計画と、そこに秘められた力を信じました。「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです」(ロマ11:11)この確信に立ち、パウロとバルナバの一行は、逆境の中で諦めではなく、なお「喜びと聖霊に満たされていた」とあります。神のご計画にまっすぐに目を向けて、足の塵を払い落とし、次なる伝道地へと出かけて行きます。神のご計画は生きており、動いています。私たちはそのご計画の完成を待ち望み、共に進みゆく群れです。私たちは、順境において委ねられた業に励み、逆境の中にも、神の御計画を信じ、その前進のために献げる歩みが導かれるよう祈り求めましょう。 |