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〔平和月間〕主日礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年8月29日 1 まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。 今日は、年に二度計画している「防災デー」の日です。以前から、この時期に一斉避難訓練を行って防災への取り組みを実践してきましたが、数年前から、もっと具体的に、しかもこの地域にある教会としての責任を自覚しながら取り組むようになりました。神は、わたしたちの教会を、この地域にお建てくださいました。この地域の中で、神の御手の器として働きに仕えるためです。そうであれば、教会は、ただわたしたちのためだけのものではありません。この地域社会のすべての人たちのためのものでもあるのです。この地域で関わり合うすべての人が、この教会を通して、神の御手の働きのうちに招かれています。 少しずつですが、教会で災害時のための非常食や防災用品を備蓄する取り組みを始めています。その取り組みを、今、地元町内会が一緒に考えてくださっています。災害時には、教会がこの地域の防災拠点として施設を提供することも考えて、町内会の皆さんにもお伝えしています。そのときに、いったい何ができるのだろうかと、疑問に思われる方もあるかも知れません。けれども、阪神大震災以来、大きな災害が起こったときには、ことごとく、教会が復興のために重要な役割を担ってきたことを、わたしたちは知っています。そのときには、「できるだろうか」などと逡巡している暇はないのです。ましてや、役員会や教会総会を開いている間はありません。わたしたちは、そのときには、待ったなしに、地域の人たちと一緒に取り組まなければならないでしょう。そうであれば、わたしたちは、今から、地域の人たちと共に歩むことを、よく学んでおいたほうがよいに決まっています。内向きの発想ではなく、教会の外のすぐそばにいる地域の人たちと共にあることに、もっと積極的に目を向け、その歩み方に習熟していけば、いざというときに、わたしたちは、よい働きをすることができるでしょう。神がお求めの働きを、よりよく担わせていただくことができるに違いありません。 「藤沢教会は地域社会のために幼稚園を経営しているのだから、それで十分ではないか」と言われる方があるかも知れません。「幼稚園以外の取り組みを進める余力など無いのではないか」と心配される方もあるかも知れません。けれども、大切なことは、世間的な意味で事業を成功させることではないでしょう。もちろん、わたしたちは、神から託された働きを担わせていただいているのですから、いい加減にしてはいけません。そうだとしても、大切なことは、神が託してくださった働きを、御心にふさわしく誠実に担っていくことです。その働きが、何よりもキリストのお教えくださる「愛」をおこなう機会になることです。 たとえ、どんな立派なことをおこなっても、愛がなければ、騒がしいどら、やかましいシンバル。愛がなければ、無に等しい。愛がなければ、何の益もない。パウロが、こんなに明確に語っていることです。もちろん、主イエスがお教えくださったことです。わたしたちは、本当にこのことを心に憶えたい。何よりも、わたしたちの行動基準にしたい。その働きは、愛をおこなう機会になっているか。その判断は、愛に根ざしているか。わたしたちに、他の基準はありません。 「愛」はある! 主イエスは、どんなにか、わたしたちの愛し合うことができるようになることを願ってくださっていたことでしょうか。互いに愛し合う関係、互いを人として本当に大切にする関係が造られることを、主イエスは、わたしたちのために願ってくださった。パウロは、本当に深く、そのことを受けとめていたと思います。 主イエスは、最後の晩に弟子たちの足を洗われて、その席で言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハ13:34)。主イエスは、わたしたちに、愛するとはどういうことなのか、愛し合うとはどうすることなのか、身をもって示してくださった。そして、わたしたちもそれに倣うようにと、招いてくださっている。ですから、パウロがここで「愛とは…」と言っていることは、何よりも主イエスが身をもって示してくださったことでしょう。愛するとはどうすることなのか。愛し合うにはどうすればよいのか。 互いに対して忍耐強く待つのです。情け深く親切。ねたむ思いを抱かない。相手と比較して自慢したり、高ぶって「上から目線」で接しない。神の前に平等な兄弟姉妹だとしても、相手に対して失礼な態度はとらず、むしろ礼儀を守る。自分のためという思いは捨てる。不満があっても苛立たない。攻撃してくるようなことがあっても、恨みを抱かない。互いの間では、どんなことであっても正しくないことは喜ばず、真実なことをこそ喜ぶ。互いの間に困難があっても、忍んで受けとめる。信用できないと思える相手でも、それでも信じて、期待して、その関係に踏みとどまる。そうすることが、愛するということ、愛し合うということ。 本当に、主イエスは、そのように弟子たちに接してくださった。いや、すべての人にそのように接してくださったのでしょう。今も、わたしたちは、主イエスというお方と出会わせていただいて、そういうお姿に触れさせていただきます。 ただ、わたしたちは、そういうお姿を知れば知るほど、主イエスの招きに応えることを躊躇してしまうかもしれません。主イエスは、「あなたがたも、わたしがそうしたように、互いに愛し合いなさい」とお招きになる。けれども、「自分は、とても主イエスのように人を愛することはできない」と、思ってしまう。 ある方が、「わたしたちに愛があれば、このように振る舞えるのでしょうね」とおっしゃいました。わたしたちは、どうも根本的に愛が欠けていて、互いに愛し合うこと、互いを人として本当に大切にする関係を造っていくことが、うまくできないのです。生まれながら、愛が欠けている。愛する能力が足りない。 けれども、皆さん、わたしは断言しますが、それは過去のことです。皆さんが、教会に招かれるようになる前のこと、キリストと結ばれるようになる前のことです。皆さんは、教会に招かれて、ここにいらっしゃる。多くの方は、ここでキリストと結ばれることを信じて、洗礼の恵みにあずかられた。すでに洗礼を受けた者も、まだ洗礼を受けていない皆さんも、すでに今、キリストの教会の営みの中に、共に歩んでいらっしゃる。それは、皆さんが、キリストの体の一部とされている、ということです。すでに洗礼を受けた皆さんは、そのキリストの体の紛れもない一部分となっている。まだ洗礼を受けていない皆さんは、言ってみれば、コンタクトレンズや眼鏡のように、体の一部として必要な役割を担っているけれども、何かの拍子に離れてしまう可能性を残している。ですから、本当は、皆が、洗礼を受けて、本当にキリストの体の紛れもない一部分となっていただきたい。 いずれにしても、皆さんは、キリストの体の一部分となっている。そうだとすれば、皆さんは、一部分となる前は、もしかすると愛の欠けた、愛する能力の足りない人間だったかも知れないけれども、今は、そうではない。主イエスの愛を共に持たせていただいている。主イエスの愛する能力を、自分も使わせていただくことができるようにされている。ここにいる皆さんには、「愛がある」のです。皆さんが、たとえ自分の愛を信じられなくても、皆さんの中には、すでにキリストの愛がある。皆さんには、どうしても、そのことを信じていただきたい。 「愛」の道から行こう! パウロが教えているのは、最高の道です。だれも到達できないような理想の人間像ではない。高い能力を求めることでもない。実行不可能な自己犠牲を要求するのでもない。そのとおりに従えば、だれもが間違いなく進んで行くことのできる道。主イエスが拓いてくださった最高に素晴らしく確かな道。人間として本当に成熟していくための生き方、振る舞い方。それを、教えてくれています。 わたしたちは、もう、「自分には愛が足りない」などと嘆いて見せたり、「愛が欠けているから」などと言い訳をしたりすることは、おしまいにしましょう。そんなことを嘆いたり、言い訳したりしている暇があったら、わたしたちは、パウロの教えてくれた道、主イエスの道を、幾度でも練習するのです。わたしたちは、書道でも華道でも茶道でも、師匠のお手本を何度でも真似て練習することで、習熟して行き、自分のものにするのです。「主イエスの愛の道」も同じです。 相手を忍耐強く待つ。情け深く親切にする。ねたむ心を捨てる。自慢する思いや高ぶる態度をやめる。礼を尽くす。自分の利益ではなく、相手の利益を求める。いらだつ思いを鎮め、恨む思いも神に預ける。正しくないことは喜ばず、真実をこそ喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 与えられた15の課題に、今日から取り組みましょう。「主イエスの愛の道」を修めていくための修道課題です。教会という「道場」で繰り返し練習して、また日々の生活の中で、練習の成果を実践してみましょう。師匠を超えることは、もちろんできなくても、師匠を目標にして修練していくことは、師匠の喜んでくださることに違いありません。主イエスは、わたしたちに、この道を進むことを、願ってくださっています。この道を修めていくことを、期待してくださっています。忍耐して待っていてくださる主にお応えしたくありませんか。お応えしたいならば、嘆くことも、言い訳することもきっぱりやめて、ただ、この道を進むために与えられた課題に、一つひとつ誠実に取り組もうではありませんか。 祈り 主よ。愛の道を拓いてくださり、その道に招いてくださいました。この道にこそ習熟し、すべての託された働きを御心に適うものとならせてください。アーメン |