説教・祈祷の音声は左のスタートボタンを押してください。
音量も調整できます。           

  ↑スタートボタン

印刷用PDF

主日礼拝説教
  「もう乗り換えない!」

日本基督教団藤沢教会 2010年9月5日

1これらの出来事の後のことである。イズレエルの人ナボトは、イズレエルにぶどう畑を持っていた。畑はサマリアの王アハブの宮殿のそばにあった。2アハブはナボトに話を持ちかけた。「お前のぶどう畑を譲ってくれ。わたしの宮殿のすぐ隣にあるので、それをわたしの菜園にしたい。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい。」3ナボトはアハブに、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と言った。4アハブは、イズレエルの人ナボトが、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることはできない」と言ったその言葉に機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰って行った。寝台に横たわった彼は顔を背け、食事も取らなかった。 5妻のイゼベルが来て、「どうしてそんなに御機嫌が悪く、食事もなさらないのですか」と尋ねると、6彼は妻に語った。「イズレエルの人ナボトに、彼のぶどう畑をわたしに銀で買い取らせるか、あるいは望むなら代わりの畑と取り替えさせるか、いずれにしても譲ってくれと申し入れたが、畑は譲れないと言うのだ。」7妻のイゼベルは王に言った。「今イスラエルを支配しているのはあなたです。起きて食事をし、元気を出してください。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう。」
8イゼベルはアハブの名で手紙を書き、アハブの印を押して封をし、その手紙をナボトのいる町に住む長老と貴族に送った。9その手紙にはこう書かれていた。「断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせよ。10ならず者を二人彼に向かって座らせ、ナボトが神と王とを呪った、と証言させよ。こうしてナボトを引き出し、石で打ち殺せ。」11その町の人々、その町に住む長老と貴族たちはイゼベルが命じたとおり、すなわち彼女が手紙で彼らに書き送ったとおりに行った。12彼らは断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせた。13ならず者も二人来てナボトに向かって座った。ならず者たちは民の前でナボトに対して証言し、「ナボトは神と王とを呪った」と言った。人々は彼を町の外に引き出し、石で打ち殺した。14彼らはイゼベルに使いを送って、ナボトが石で打ち殺されたと伝えた。15イゼベルはナボトが石で打ち殺されたと聞くと、アハブに言った。「イズレエルの人ナボトが、銀と引き換えにあなたに譲るのを拒んだあのぶどう畑を、直ちに自分のものにしてください。ナボトはもう生きていません。死んだのです。」16アハブはナボトが死んだと聞くと、直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って行った。        (列王記上 21章1〜16節)



 1人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、2ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。3わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。4キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。5わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。
 6キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。7ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。8しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。9わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
 10こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。 
         (ガラテヤの信徒への手紙 1章1〜10節)



《乗り換えキャンペーン》

 9月最初の日曜日の今日は、《振起日》と呼ばれることのある日曜日です。もともとはアメリカで行われていた《ラリー・デイRally Day》という行事を、日本でも取り入れて始められました。アメリカでは、この季節が学校などの新年度の始まりですから、そのときに、皆があらためて集結して心を合わせ、信仰を確かめて、祈りをもって新しい歩みを始める決意をします。日本では、夏の暑い休みの季節に弛緩した信仰を、もう一度振り起こす日、という意味合いが強くなりました。夏休みの間に欠席しがちだった教会学校の子どもたちを呼び戻す機会として、《振起日》の行事を行ったりしてきたのです。いずれにしても、大切なことは、《振起日》から始まる新しい季節の歩みを、原点に立ち帰って、しっかりとキリストという立つべき土台の上に立って、始めていく、ということでしょう。

 教会の秋の行事が計画されています。一つひとつ、準備が進められています。それぞれ知恵を出し合って、備えてくださっています。これからクリスマスまで休む間もなく教会の行事が続くのです。行事をこなすことに追われてしまうかもしれません。けれども、大切なことは、わたしたちが一つひとつの行事の中で、常に、原点に立ち返ることです。キリストという土台の上に立っているか。キリストのなさる御業に倣い従うものになっているか。そのことを確かめることを疎かにしては、わたしたちが教会であることが、分からなくなってしまう。

 わたしたち一人ひとりもまた、この季節の歩みの中で、同じことを確かめながら歩みたいと思います。信仰の原点に立ち返りながら、しっかりとキリストという土台の上に、自分の歩み、人生を、築き上げていく。そのように歩んでいくことを、この慌ただしくも忙しくなる季節の初めに、あらためて確かめたいのです。

 教会によっては、秋は「伝道」の季節です。わたしたちの教会は、しばらく、この季節には特別な「伝道」集会はおこなっていません。けれども、だからといって、わたしたちがこの季節に「伝道」をしていないわけでもありません。わたしたちの取り組む行事の一つひとつ、わたしたち一人ひとりの日々の歩み、それらのすべてが、いわば「伝道」の営みに他ならないのです。わたしたちが、行事や日々の営みの一つひとつに、しっかりと信仰の原点に立ち返りながら取り組むとき、そこにキリストという土台をしっかりと据えながら歩むとき、そこには、おのずと、わたしたちが周囲の人たちに伝えるべきことが現れてくるはずです。

 ある人たちは、「キリストの香りを醸し出す」という言い方をします。わたしは、それは「何となく良い香り」という程度のものではないと思います。「そこにキリストのお姿が立ち現れてくる」というほどはっきりしたものなのではないでしょうか。先週の御言葉で、パウロは、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(Tコリ12:27)と言っていました。わたしたち一人ひとりが、キリストに結びついて、キリストという土台に立って、また教会に結びついて、何かに取り組むならば、そこに「キリストの御体」が立ち現れてくる。その「キリストの体」の確かな部分になるためにこそ、わたしたちは、先週もまた、主の教えを聞き、パウロの愛の教えに耳を傾けたのです。

 そういうことで、わたしたちの迎える行事の季節は、間違いなく伝道の季節です。行事を通して、わたしたちの周囲の人たちは、キリストに触れられるはずです。もちろん、今わたしたちがひとつに集っている礼拝においでいただくのが、一番良いのです。ここでこそ、わたしたちは皆、キリストに触れていただき、キリストに触れさせていただいています。けれども、礼拝でなくても、わたしたちの取り組む行事、営みのすべてが、キリストに触れていただく機会です。

 おかしな言い方かも知れませんが、わたしたちの取り組む行事は、周囲の人たちをキリストのもとへと導くための「乗り換えキャンペーン」のようなものです。人はだれでも、この世で生きていくかぎりは、何らかの宗教や哲学、知恵や知識などを自分の拠り所として、人生を歩んでいるはずです。自分自身が自分の拠り所だ、という人もいるかも知れません。けれども、わたしたちは、そういうものを拠り所とする人生の歩み方をやめて、キリストに乗り換えたのです。キリストを拠り所とする生き方こそ、ほかのどんな生き方よりも、確かなもので、わたしたちの人生に根源的な力を与えてくれるからです。ですから、わたしたちは、すべての人が、人生の土台を「キリスト」に乗り換えてくださることを願っている。それが、きっと、一番確かな生き方になると信じているからです。「キリスト」こそ、人生の確かな土台。確かな目標が与えられるのです。

《自由切符》は難しい?

 洗礼を受けた者は皆、人生の土台を「キリスト」に乗り換える決心をして洗礼を受け、キリストに結びつかせていただきました。まだ洗礼を受けていらっしゃらない皆さんにも、ぜひ、人生の土台を「キリスト」に乗り換える決心をしていただきたい。本当は、もうすでに、キリストという土台の上までいらっしゃっているのです。神が御手を伸ばしてくださって、教会へとお招きくださっているのが、何よりも証拠です。「キリストの体」と呼ばれる教会の営みの内にすでに導き入れられている皆さんは、その気になれば、ご自分が「キリスト」という土台の上にすでに立っていることを、お認めいただけるでしょう。そうしたら、洗礼を受けて「キリスト」への乗り換えを公にすることは、遠いことではありません。

 もっとも、あるとき洗礼を受けて「キリスト」に乗り換えたからといって、それで、わたしたちの人生の土台は揺るがないものになる、とは言えないかも知れません。「キリスト」に乗り換えたのと逆に、また別のものに乗り換えようとしてしまうところが、わたしたちには、だれにでもあるようなのです。

 ガラテヤの信徒への手紙の中で、パウロが必死になって言っていました。

 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。

 パウロは、あり得ないことが起こっていると、あきれ果てているのですが、実際には、ここでほかの福音に乗り換えようとしていると言われているようなことは、しばしば起こることなのです。というのも、パウロが言うように、わたしたちは、キリストに結ばれることによって自由を得させていただいているからです。

 「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。」(5:13a)

 自由を得させていただく。そうすると、わたしたちは、うっかりすると、何をするのも自由、という考え方になってしまう。キリストを信じるのも自由、でも、他のものもありがたがって、自分に都合の良いように使い分けるのも自由。わたしたちは、案外、無意識のうちに、自由というものを、そういうものとして用いていたりするのです。それは、しかし、パウロが、「ほかの福音に乗り変えようとしている」と言っていることに他ならないでしょう。

 鉄道の切符に「自由切符」という乗り降り自由のフリーパスがあります。自在に使いこなす人もいますが、わたしなどは、せっかく買っても、うまく使いこなせません。せっかくだからと一駅ごとに降りてみたりして、結局、目的地に着くのがひどく遅くなってしまったりする。「自由」を使いこなせないのです。

 キリストは、わたしたちを招いてくださって、神の御前に本当に自由な者として生きる道を拓いてくださっているのです。わたしたちは、洗礼を受けてキリストに乗り換えたとき、自由への扉を開いていただいたのです。けれども、「自由」が、わたしたちの目標ではありません。「自由」は、キリストがお与えくださる、わたしたちの人生の土台です。「キリストの自由」という土台によって、わたしたちが、何者にも縛られずに自由にキリストに従い、自由にキリストに倣い、自由なキリストの御姿に似た者へと成長させていただく。それが、目標です。

 だから、パウロは言います。「ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(5:13b)

《イエスの焼き印》は自由のしるし

 旧約聖書・列王記上の御言葉の物語。イスラエルの王アハブは、ナボトのぶどう畑を欲します。王の権力と富を用いて、力ずくで手に入れる自由もありましたが、彼は、そうしようとはしませんでした。それをしたのは、王妃イゼベルでした。この後、預言者エリヤが彼の前に現れて、その罪を厳しく指摘すると、アハブ王は、ひどく畏れて、灰をかぶって神の御前に悔い改めたといいます。

 この世の権力や富が与えてくれる自由も、信仰によって与えられる自由も、わたしたちの判断を誤らせることがあります。だからこそ、わたしたちは、キリストから離れないようにいたしましょう。

 パウロは言っています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(3:26)。キリストに結ばれた神の子です。何者にも縛られません。ただ、キリストだけが神の子としての自由の何たるかを、お教えくださるでしょう。「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」(6:17)。イエス・ブランド。このブランドが、真の自由のしるしです。これを掲げて良いのです。この自由が、本当の意味で誇り高いものとされますように。

祈り
主よ。恵みへと招かれ、真の自由を得させていただきました。キリストのしるしを身に帯びます。キリストに似た自由な神の子とならせてください。アーメン