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聖霊降臨節第17主日礼拝説教
  「貧しさと豊かさの間で」

日本基督教団藤沢教会 2010年9月12日

1 七年目ごとに負債を免除しなさい。2 負債免除のしかたは次のとおりである。だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞である隣人から取り立ててはならない。主が負債の免除の布告をされたからである。3 外国人からは取り立ててもよいが、同胞である場合は負債を免除しなければならない。4 あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなるが、5 そのために、あなたはあなたの神、主の御声に必ず聞き従い、今日あなたに命じるこの戒めをすべて忠実に守りなさい。6 あなたに告げたとおり、あなたの神、主はあなたを祝福されるから、多くの国民に貸すようになるが、借りることはないであろう。多くの国民を支配するようになるが、支配されることはないであろう。7 あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、8 彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。9 「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。10 彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。11 この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。
                   申命記 15章1〜11節



6 つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。7 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。8 神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。9 「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。10 種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。11 あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。12 なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。13 この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。14 更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。15 言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。
            コリントの信徒へ手紙二 9章6〜15節



  本日、朗読を聞きました申命記は、旧約聖書最大の出来事<出エジプト>を導いたモーセの告別説教と言われています。<出エジプト>から始まる神の民イスラエルの旅は、荒野を行く長い道のりでした。そしていよいよ約束の地の入り口に来た時、モーセは、長い旅路を顧みて、神との間に結ばれた契約の恵みを確かめる長い説教を語るのです。モーセの死後、この説教はイスラエルの民の間で繰り返し聞かれました。「あなたの神、主があなたがたを祝福してくださる」という祝福の説教です。聖書の小見出しによればしかし、本日の箇所は「負債の免除」について語っているとあります。7年毎に重荷を取り除く「赦し」です。聖書にはこのような、貧しい者を保護するための戒めが一貫して語られています。

  旧約聖書の時代、貧しい者を保護する倫理はイスラエルに特有のものというわけではなかったようです。異教の周辺世界にも、イスラエルの人々が長い間奴隷生活を営んだあのエジプトにさえも、古代から貧しい者への倫理、共生のためのある理想が存在しました。にもかかわらず、社会には例外なく貧しい者がおり、貧富の差はなくなりません。なぜなら、貧しいものを保護する倫理が、一方で、貧富の差を生みだす仕組みとなって働いているからだと言います。貧しい者を守るための憐れみを掲げ人々が事足りることで、社会構造を覆すような芽は予め摘んでしまう、こうした微妙なやり方でもって貧富の差を保存する仕組みです。こういった理想と現実の乖離は、社会構造が真に変わらなければ、たとえ有り余るほど豊かになったとしても、解決されないのだと言います。古代から現代へと目を移しますと、私たちは高度に発達した社会の恩恵を受けています。しかしながら、高度に医療が発達しても癒されない病、高度に生産が発達しても解決されない飢餓の問題は残されています。理想と現実のギャップを見ないわけにはいきません。明らかに不正な政治が行われている社会、あるいはそうでなくても、私たち人間の営みは、どこか歪んでいて欠けていて、全体が満たされていないのです。
 
  神の民イスラエルは、父祖アブラハム以来の神の祝福を受け継ぐ者でありながら、しかし現実は、富者の前の貧者であり、抑圧者に搾り取られる被抑圧者でありました。その苦しめられたイスラエルの声を聞き、主は大きな御業を始められます。その御業は、エジプトという不正社会を急変させる「大改革」…ではなく、エジプト社会そのものから人々を逃れさせる「大脱走」の計画でした。イスラエルは、この導きによって、人を人としない社会を捨てたのです。エジプトの非人間化された社会から逃れ出て行った人々を一つにまとめたものとは、何をおいても新しい暮らしの理想を共有することだった、とある神学者(N.F.ローフィンク)は述べています。驚くべき仕方で救い出されたイスラエルの民は、真の神を神とし、真に隣人を隣人として愛する新しい社会を形成するのだと、大きな希望を持ってその信仰を告白します。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導きだし、この所に導き入れて乳と蜜の流れる土地を与えられました。」(申26:5〜9)人々は神への深い信頼の言葉を言い表し、礼拝をささげます。

  「主は…必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなる」出エジプトの出来事を背に、人々は新しい兄弟姉妹の社会に生きるヴィジョンを得ます。しかし社会は、手放しに根拠無くそうなるのではなく、一人ひとりが共に生きることに真に心を砕く必要があります。「そのために、あなたはあなたの神、主の御声に必ず聞き従い、今日あなたに命じるこの戒めをすべて忠実に守りなさい」(申15:4)とあります。しかしながら、私たちは御言葉の現実をありありと見せつけられます。「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう」(申15:11)。イスラエルは、解放から得た自由の下、なおも貧困の問題に頭を抱え、社会倫理について論じ合わねばなりませんでした。全くの困窮世界ではない、豊かさと貧しさの間で右往左往している人間の姿がここに表れています。

  本日の使徒書は、使徒パウロがコリント教会の人たちへ宛てた手紙の一節です。すでに9時からの礼拝で、子どもたちと共にこの御言葉のメッセージに耳を傾けました。今年度から私たちの教会は、教会学校の礼拝も「主日礼拝」も同じ御言葉を聞く歩みが導かれております。教会学校では特に、主日毎の御言葉の中から暗唱聖句に取り組んでいるのですが、この暗唱聖句のためのカードをイラストレーターの方にお願いをしてお作りいただいています。本日の聖句カードをすでに、御覧になった方もあると思いますが、「種まく人」のイラストが描かれています。喜んで与える人をイメージしてくださったのだそうです。「喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(7節)が暗唱聖句なのです。「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(6節)の言葉から繋がっています。イラストを御覧になっていなくても「種まく人」と言いますと、多くの方は、19世紀のフランス人画家J.F.ミレーの作品を思い出されるのではないでしょうか。聖句カードも、ミレーの絵を前提としているそうです。ミレーは、苦難といった深刻なテーマは好まれない、貴族的な洒落た絵を描く画家たちがもてはやされた時代に、貧しさの中に素朴に生きる人々の精神性を描きました。農家の夫婦が、遠くの教会から聞こえてくる鐘の音に、手を止めて、畑の中で頭を垂れている、自分たちの貧しい生活を忘れて祈りに没頭している「晩鐘」は、ミレーの最も有名な作品の一つです。読書家でもあったミレーは、小説の中に見つけた次の詩を特別に愛したと言います。「なんじの額に汗して、なんじの生計を立てよ。ながい労苦の後に、死はまさになんじを招くであろう」(G.サンド『魔の沼』)。これは創世記3章19節の御言葉からインスピレーションを得て書かれた一節でありますが、ある人々はここに生きることの辛さを聞き取ります。しかしミレーは、そこに大地と人間の闘争と調和を見出します。人間の労苦と素朴な生の中に真の生きる喜びを追究する、ミレーの「種まく人」は、大地を踏みしめ、ひたすらに種を蒔きます。私たち一人ひとりに踏みしめる大地があるということ、従事すべき労苦があるということは人生の豊かさなのです。私たちは乏しさの中から仕方なしに蒔くのではない、豊かさの中で蒔くのです。聖書は、私たちの豊かさを告げす。豊かさと貧しさの間で右往左往する私たちが、富める者であることを告げるのです。

  「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分」にしてくださる、「あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできに」なる(8節)と言われます。「満ちあふれる」(ペリッセウオー)という語が繰り返されています。この語は、特にパウロがよく用いる言葉で、有り余る、何かを過剰に持っているといった意味合いの言葉です。他の用例を見てみますと、4つの福音書が一致して伝える主イエスによる5千人の給食の場面に見つけることができます。主イエスは、ご自分の後を必死に追ってくる群衆を深く憐れまれ、病んでいる者を癒されました。気づけば日が暮れ始めている。こんな寂しいところでは、食事が調達できなくなってしまう。焦り始めた弟子たちが、主イエスに群衆を解散させてほしいと願い出ました。ところが主イエスは、意外なことをおっしゃいます。「あなたがたが、彼らに食べ物を与えなさい」(マタ14:16)。「ここにはパン5つと、魚2匹しかありません!」怪訝な顔をする弟子たちを見つめて、主は、その食べ物を持ってくるように、人々を座らせるようにとお命じになります。5つのパン、2匹の魚を取り、天に向かって讃美の祈りを唱えてそれを祝福されます。そして改めて弟子たちを通して、おびただしい人々に与え「すべての人が食べて満腹した」という奇跡です。自分はこの箇所がとても大好きなのだとお話しくださった方があります。日本全体が貧しかった時代、いつもお腹が空いていた、だから主イエスの奇跡はすばらしと思った、という素朴な感動があるのだそうです。この物語で興味深いのは、最後に「残ったパンの屑を集めると、12の籠いっぱいになった」(マタ14:20)とあることです。パンが、たちまちすべての人のお腹を満たしたことも然ることながら、なぜ更に「残った」というのでしょうか。もったいないような気になります。もちろん、それを残飯として処分したのではなくて皆で籠に集めるのですが。籠に残されたパンは、主の食卓のパンに与るべき多くの人がまだ「残されている」ということが暗示されていると言います。この「残った」(ペリッセウオー)という語が、本日の「満ちあふれる」という語と同じ語です。「満ちあふれる」のは、言うまでもなく「十分以上」であるからです。

  日毎の糧(Daily Bread)、それによって生き、それによって養われる命のパンを、私たちは今豊かに持っています。そしてそれは十分以上であり「あなたがたが…与えなさい」(マタ14:16)と言われ託された分をも含むのです。「惜しまず」、「不承不承ではなく」与えなさいというパウロは、ただプレッシャーを与えているのではありません。「こうしようと心に決めた通りにしなさい」と言います。「心に決めた通りに」。この決意をだれも裁くことはできません。「…わずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、…豊かに蒔く人は、刈り入れも豊か」だという言葉は、3蒔けば3倍だが、100蒔けば100倍になるといった話ではありません。「これだけ蒔いたのだから」とも言えない、それどころか、私たちは自身を献げていく中で、何かができる自分、何かを示せる自分という奉仕のイメージを打ち砕かれるのです。私たちはそのような信仰生活の中で、たとえ、かつてしていた奉仕ができなくなったとしても、さらに豊かに献げることができます。なぜなら、私たちの豊かさというのは、何か秀でた能力を提供することにあるのでなく、何がなくても、神が私たちの中にたしかに働いてくださっていることにあるからです。神は、私たちに「惜しみなく」献げてくださいました(ロマ5:8)。ご自分の全能をお示しになる仕方でなく、むしろ、弱く貧しい姿で、十字架に身を任せる仕方で献げられました。主は、「惜しみなく」完全な赦しを差し出されたのです。主の赦しは最大の贈りものです。主の赦しは、私たちをゆるせない、未練に縛られた生き方から連れ出し、新しい生き方へと招き入れます。この富ゆえに、私たちはパンを差し出すことができるし、大胆に種まくことができるのです。いつまで蒔けるだろうか、どれだけ蒔けるだろうか、心配は不要です。ここに集められた私たち一人ひとりが現に、先達の蒔いた種の一つの美しい実りを証ししているのです。私たちは、この地を踏みしめ「種まく人」として、主がこの地を豊かに満たされる幻をいただきつつ、福音を共に分かち合う道を歩んでまいりましょう。