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主日礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年9月19日 21モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。 今日は、「敬老の日」の合同礼拝。 教会はイエスさまに招かれて集められた「神の家族」です。「神の家族」の中に、歳を重ねられた高齢の皆さんがいらっしゃいます。皆さんは、ニュースをご覧になりますか。世の中では、お年寄りがいると思って市役所の人が訪ねてみたら、実はずっと前に死んでいて、家族の人も、死んだことを隠していた、などというおかしな事件がありました。そんなことが当たり前に起こっていてはいけないと思いますが、ましてや、イエスさまがお招きくださって一つの教会に集められた人たちの中で、そんなことがあってはいけません。 イエスさまは、赤ちゃんからお年寄りまで、すべての人を一人ひとり、その名前を呼んで憶えてくださっています。ご高齢の皆さんは、長い人生の道を歩んでこられた中で、子どもたちや私たちよりも、ずっとたくさん、イエスさまに名前を呼んでいただいてこられたことでしょう。すばらしいことですね。イエスさまに幾度も幾度も、数え切れないほど、名前を呼んでいただいてこられました。もちろん、名前を呼んでいただいても、気がつかなかったことがあるかも知れません。でも、気がつかないことがあったとしても、イエスさまが、毎日毎日、一人ひとりの名前を呼んでくださってきたことは、間違いありません。長く生きてきた人たちほど、たくさん、名前を呼んでいただいてこられたのです。 ですから、高齢の皆さんは、イエスさまからの特別な祝福をいただいている、恵みをいただいている、そういう人たちだと思います。イエスさまに名前を呼んでいただくというのは、イエスさまからの祝福をいただく、恵みをいただく、ということです。わたしたちは、この礼拝で、イエスさまがくださっているそのような特別な祝福と恵みを皆で一緒におぼえて、神さまに感謝いたしましょう。 今日は、いつもCS合同礼拝に出席している子どもたちが、がんばってこの時間まで残ってくれました。いつもは別々の礼拝に集まっているわたしたちが、一つの礼拝に集まることができるというのは、うれしいことです。ですから、わたしは、この礼拝では、普段あまり歌わない讃美歌を、皆さんで一緒に歌いたいと思いました。CS合同礼拝でもあまり歌わない、主日礼拝でもあまり歌わない、そういう讃美歌を、今日の合同礼拝では、歌っています。歌い慣れない讃美歌で、中には戸惑われている方もいらっしゃるかもしれません。でも、どれもすてきな讃美歌だと思いませんか。ピアノで伴奏する讃美歌も、気持ちがまっすぐ神さまのいらっしゃる天上まで届くような気がします。いいえ、今日のように子どもからお年寄りまで皆が一緒に守る合同礼拝は、いつも守っている礼拝以上に、天上の神さまの前で守られている礼拝と強く結びついている。わたしたちは、そう信じているのです。 わたしたちが教会で守る礼拝は、神さまの御前で天使たちが守る天上の礼拝につながっています。イエスさまが、教会の礼拝を、そのようにしてくださっているからです。今日の礼拝が、本当に天上の礼拝としっかりつなげられて、「敬老の日」の祝福を神さまからしっかりといただけますように。 「これは、どういう意味があるのですか?」 教会学校の皆さんは、この礼拝のために、敬老カードを準備してくれました。教会の80歳以上の皆さんに、一枚ずつ、子どもたちが名前を書いて、用意しました。何枚も書いてくれた子どももいると思います。カードをお年寄りに差し上げる。ささやかな贈り物です。 カードを作ってくれた子どもの皆さん。このカードは、どういう気持ちで作ってくれたのでしょうか。このカードをお年寄りに差し上げるのは、どういう意味があるのでしょうか。もしかすると、子どもの皆さんの中には、「どうして、このカードを知らないお年寄りに差し上げるの?」と不思議に思っている人もいるかも知れません。「このカードには、どういう意味があるの?」と子どもたちが質問したら、教会学校のスタッフの皆さんは、どう答えられるでしょうか。 神さまは、ご高齢の皆さんの長い人生を祝福してくださっています。恵みを増し加えてくださっています。そのような人生の先輩とわたしたちを、どういうわけか、一つの教会に招き集めてくださっています。その先輩たちの姿を見て、わたしたちも、神さまが祝福してくださる人生の歩みを後に続くように導いていただいています。わたしたち皆が一緒に神さまのくださる祝福を喜び、感謝することができるようにしてくださっています。神さまのくださる祝福と恵みということを、わたしたちは、だれよりも人生の先輩から教えてもらってきました。皆で一緒に喜び、感謝するわたしたちの心を、先輩たちから受け継がせてもらいました。わたしたちは皆、神さまがくださる祝福や恵み、そのことの喜びや感謝の心を、先輩たちから贈り物のように渡されて、受けとってきたのです。 先輩たちから贈り物を受けとっているのならば、それに応える気持ちを、敬老カードであらわすのは、自然なことです。人生の先輩と、そして神さまに感謝する思いです。神さまもきっと喜んでくださることでしょう。 けれども、教会の皆さん、中でもご高齢の皆さん。わたしたちは、子どもたちと敬老カードのやり取りをすることで終わってしまってはいけませんね。わたしたちが先輩たちから受け継いできた大切なことを、一つひとつ、余すところ無く、次の世代、若い人たち、子どもたちに、贈り物として渡していかなければいけません。わたしたちも皆、贈り物として受けたのですから、受けたものを自分の手の中に握りしめてしまうのではなくて、次の人たちに、確実に受け渡していく。これが、教会に招かれて歩むようにされた、わたしたち大人の責任です。 そこで、子どもたち、若い人たち、それに、最近教会に来るようになられたすべての人たちに、ぜひ知っていただきたいことがあります。それは、教会に来て、礼拝を一緒に守ってくださったら、質問する、ということです。 たとえば、礼拝では、必ず聖書が読まれます。聖書のお話しを聞きます。当たり前ですけれども、一度、だれにでも良いから、教会の人に聞いてみていただきたい。「礼拝で聖書が読まれて、聖書のお話を聞くのは、どういう意味があるのですか」。 あるいは、礼拝堂にはいろいろな礼拝の道具や家具が置いてあります。中でも目立つのは、「聖餐卓」と呼ばれる大きなテーブルです。いつも、礼拝で献げられた献金が置かれます。その「聖餐卓」と呼ばれるテーブルが、特に合同礼拝のときには、礼拝堂のど真ん中に置かれています。そして、今日はしませんけれども、本当は、この「聖餐卓」の上には、ただ献金が置かれるだけではなくて、パンとブドウ汁が置かれて「聖餐」という儀式が行われるのです。子どもたちでも見たことのある人がいるかもしれません。でも、そのパンとブドウ汁を食べたり飲んだりしたことのある人は少ないでしょう。それは、イエスさまを信じて「洗礼」を受けた人だけが、「聖餐」でパンを食べ、ブドウ汁を飲むことになっているからです。本当は、まだ洗礼を受けていない子どもの皆さんにも、その「聖餐」という儀式を、見てもらいたい。そして、だれかに質問して聞いてみていただきたい。「この聖餐という儀式には、どんな意味があるのですか?」。「このパンを食べ、ブドウ汁を飲む儀式は、何のためにするのですか?」。 キリストがご自身をいけにえとして献げてくださったこと 教会の人は、ごまかさないで、それに答えましょう。質問に答えて、大切なものを贈り物として受け渡していきましょう。 難しいことではありません。「主イエス・キリストが、わたしたちの罪を取り除くために、ご自身をいけにえとして献げてくださいました」。これが答えです。これこそ、わたしたちが大切な贈り物として受け継いできたことです。 「キリストが、わたしたちの罪を取り除くために、ご自身をいけにえとして献げてくださいました」。 どうして、このことが大切な贈り物なのか、よく分からない人もいるかも知れません。でも、このことが、何よりも大切なことなのです。このことが、わたしたちが教会に集められて、礼拝をしていることの意味なのです。主イエスさまがご自身をいけにえとして神さまの前に献げてくださったので、わたしたちは、礼拝を献げることができます。主イエスさまが、ご自身を献げものとして神さまの前に差し出してくださったので、わたしたちは、礼拝で神さまに近づくことができます。主イエスさまが、十字架で死んでくださって、わたしたちの罪や過ちをお赦しくださったので、わたしたちは、天上の礼拝につながる礼拝を、教会で一緒に献げることができるのです。 子どもたちから、敬老カードを贈ってもらいます。カードを受けとられる皆さん、そしてわたしたちは、今こそ、本当に大切なことだけを、この子どもたちに伝えていくことといたしましょう。 祈り 主よ。人生の歩みの内に与えてくださる祝福に感謝します。ご自身をお献げくださった主の恵みを確かに伝える者とならせてください。アーメン |