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主日礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年9月26日 23その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。24皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、25ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。26ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。27「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」28「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、29その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」30「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。31ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。 わたしは、先週、久しぶりに出身神学校に行ってきました。神学生の出席する教会の牧師と教授方との懇談会があったのです。30名以上の牧師方がいらっしゃっていましたが、その中に、これまでに50人近い神学生を卒業させたというベテランの牧師がいらっしゃいました。集まった牧師方の中の幾人もが、その牧師のもとで神学生生活を送った方たちでした。言ってみれば、「牧師の牧師」とでも言えるような牧師でいらっしゃる方です。お名前を聞けば、多くの皆さんもご存じかも知れない方です。わたしも、実は、今まではお名前だけ存じ上げている方でした。その牧師が、懇談会の席で、こういうことをおっしゃられました。 「神学生の間では指導する牧師のタイプを、《飼育型》と《放牧型》と分けて見るようだが、自分は、完全な放牧型の指導をしてきた。自分が何か教えられるようなものを持っているわけではないし、今でも、教会をどのように形成していったらよいか、はっきりしたものを持てないでいるような者だ」。 わたしは、その牧師のお話を直にお聴きしたのは初めてでしたが、そのようなお話しをうかがって、その謙遜な姿勢に驚かされました。多くの牧師方が一目置いているのです。ご自分のなさってきたやり方を、一つのお手本として、後輩牧師たちに語ってくださっても、少しもおかしくない。その謙遜な姿勢こそ、50人近い神学生を送り出してきた、大きな理由なのかと思わされたのです。 今日の新約聖書、コロサイの信徒への手紙の朗読箇所の終わりで、使徒パウロは、こう記しています。 「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」 パウロは、言わずと知れた大伝道者です。いくつもの教会をゼロから建て上げました。多くの信者を生み出し、また後継の伝道者たちも育てました。パウロがこの手紙を記したのは、恐らくもうすでに晩年、ベテランの域に達してからです。そのパウロが、ここでは、説教し、キリストの教えを教えることのために、労苦していると、ここでは言うのです。 皆さんは、何気なく読み飛ばしてしまうところかも知れません。けれども、わたしは、曲がりなりにも10年牧師をしてきた者として、ここでパウロの記す言葉が気になるのです。伝道者として長年取り組んできた説教の務め、信仰指導の務めのために、パウロは、今でも労苦している、というのです。わたしは、確かに、今でも、週末ごとに、非常に労苦しながら、説教の準備をしています。あるいは、平日の集会の準備も、労苦なしに要領よく済ませられることはありません。しかも、「労苦」というよりも、「苦しんでいる」と言った方が正確です。苦しみながら、説教の準備をしている。それでも、わたしは、どんなことでもそうですが、20年、30年と牧師としての経験を重ねていけば、それほど苦しまずに、労苦せずに、説教の準備、聖研の準備をできるようになるのではないかと、期待しているところがあります。ところが、パウロは、この手紙を書きながら、「今でも、自分は、説教の務めのために労苦している、苦しんでいる」と言うのです。パウロほどの大伝道者が、そのようなことを言っているのだとしたら、わたしのような者が、どんなに経験を重ねても、労苦せずに、苦しまずに説教の務めを果たせるようになることなど、ありえないだろう。そんなことを、考えてしまうのです。 キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たす しかしながら、わたしがそのように考えてしまうのは、少し浅はかなことかも知れません。パウロは、確かにここで、自分が伝道者としての務めのために労苦し、苦しんでいると記しています。けれども、その労苦や苦しみというのは、経験を重ねれば解消していくようなたぐいのものではない。むしろ、伝道者としての経験を重ねれば重ねるほど、深く味わうようになる労苦、苦しみ、そういうたぐいのものを、パウロは、ここで語ろうとしているのかも知れません。 パウロは、少し意味の取りにくい言い方で、こういうことを記しています。 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。 皆さんは、教会に連なっていらっしゃいます。キリストの体である教会と呼ばれる、不思議なところで行われる礼拝に、あずかられていらっしゃる。その皆さんは、教会で、礼拝で、ただ楽しいことや自分が満足することばかりを経験していらっしゃるわけではないと思います。わたしたちは、教会で、礼拝で、実は、苦しみや悲しみ、嘆きといった、どちらかというとネガティブなことも経験するのです。それは、自分自身の中から生じてくる苦しみや悲しみ、嘆きである場合もあるでしょう。一方で、他の人の中から起こってきて、わたしたちにいわば感染してくるような苦しみ、悲しみ、嘆きというものもある。 キリストの苦しみということを考えたとき、わたしたちは、キリストが十字架に架けられていくことを通して味わわれた苦しみ、ということを真っ先に考えます。けれども、わたしたちは、また、こういうことも知っているのです。キリストの苦しみというのは、わたしたち人間の苦しみに寄り添い、共に苦しんでくださっている苦しみなのだ、ということです。 主イエス・キリストは、そのご生涯の歩みの中で出会われた多くの人々のことを深く憐れんでくださった。福音書には、そのような主イエスのお姿が、繰り返し伝えられています。その主イエスが「深く憐れむ」というのは、新約聖書のギリシア語の原語では、元の意味が「はらわたが痛む」というのだそうです。わたしたちも想像してみることができます。弱っている人、傷ついている人、苦しんでいる人に憐れみの思いをもって接するとき、わたしたち自身が、同じような痛み、苦しみを感じるような思いになるのです。主イエスは、その深い憐れみをもって、わたしたち人間の苦しみを、一緒になって苦しんでくださった。それが、キリストの苦しみです。(そのことと関係があるのかも知れません。英語でも、憐れみという意味の単語「コンパッション」は、「共に苦しむ」という意味の語からできあがっている単語です。) 希望の光に向かって わたしたちは、家族や大切な人の苦しみに対しては、本来自然に、憐れみの思いをもって接し、共に苦しむものなのかもしれません。わたしたちは、自分の苦しみ、痛みということに目を向けてみて、その苦しみや痛みに必ず寄り添って一緒に苦しんでくれる人、一緒に痛んでくれる人を、どれだけ数えることができるでしょうか。そのような人として数え上げることのできる人が、近くに少しでもいてくれるならば、わたしたちの心は、不思議と平安を得られるように思います。しかし、実際は、そうはなかなかいかない。それが、わたしたち人間の現実かも知れません。 主イエス・キリストは、父なる神の御心によって、十字架につけられた方です。天の父は、御子キリストを、十字架につけることによって、いわば打たれ、苦しみを負わせられたのです。しかし、主イエスは、その天の父が、十字架の苦しみを共に苦しんでくださっていると、ご存じだったのではないでしょうか。だからこそ、主イエスもまた、人間の苦しみを共に苦しんでくださることに、何の躊躇もなさらなかったのではないでしょうか。 わたしたちは、現実の中で、苦しみをこうむることからは、逃れられません。せめて、こうむった苦しみを、早く取り除いていただきたいと、神に願います。けれども、もしも、その苦しみが、神から与えられた苦しみだとしたら、どうでしょうか。その苦しみを、早く取り除いていただきたい、という願いは、どこか筋違いであるかもしれない。むしろ、その苦しみのうちに、神が、キリストが、近づいてきてくださり、寄り添い、共に苦しんでくださる、そういう信仰の経験を得させるために、神は、わたしたちに苦しみをお与えになられるのかも知れないのです。 旧約・創世記の物語。ヤコブは、神か御使いか分からない者と格闘して、腿を打たれて、苦しみを与えられました。その苦しみは、しかし、ヤコブにとっては、神が、本当に近くまでおいでくださって、顔と顔とを合わせるほどのところに寄り添ってくださっていることを知るためのしるしとなりました。 わたしたちも、時に、神に打たれるのです。いや、教会は、必ず神に打たれる。なぜなら、教会はキリストの体だからです。十字架で苦しみ抜かれたキリストのその御体である教会は、キリストが神に打たれたように、必ず打たれる者としてある。教会に連なるわたしたちもまた、神に打たれ、神に苦しみを与えられるでしょう。わたしたちが、苦しみに対して深い憐れみをもって臨んでくださる神と近くなるためです。苦しみと憐れみをもって、わたしたち同士が互いに近くなるためです。そこに、神は希望の光、祝福の道を備えていてくださるのです。 祈り 主よ。あなたは、わたしどもの苦しみを憐れみ、共に苦しんでくださいます。苦しみを負うことを学ばせてください、主と共に、また隣人と共に。アーメン |