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世界聖餐日礼拝説教
  「約束されたものを受け継ごう!」

日本基督教団藤沢教会 2010年10月3日

7主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、8早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」9主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。10今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」11モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。12どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。13どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」14主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。
              (出エジプト記 32章7〜14節)



 5:11このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。12実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。13乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。14固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
 6:1-2だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。3神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。4一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、5神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、6その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。7土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。8しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。
 9しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。10神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。11わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。12あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。
        (ヘブライ人への手紙 5章11節〜6章12節)



世界聖餐日〜聖餐の祝いを受け継ごう

 今日は、わたしたちは、「世界聖餐日」の礼拝にあずかっています。今年も、この「世界聖餐日」礼拝を、特別な祈りのうちに整えてきました。礼拝順序や聖餐式文も、いつもとは少し違う、特別なものを用いるように整えました。しかし、ただ礼拝順序や聖餐式文が特別なものだということで終わるのではありません。この礼拝を、わたしたちは、「聖餐」ということそのものに思いを向け、祈りを集中するときとしたいのです。

 わたしたちの教会は、普段、礼拝で必ずしも聖餐を執り行いません。聖餐を執り行わなくても、わたしたちの主日の礼拝は成り立つと考えています。何よりも、神の御言葉を聴くことが、大切だと考えています。しかし、もちろん、聖餐を軽んじているわけではありません。ある人たちは、聖餐を、礼拝の付け足しのようなものと考えています。古代教会からの伝統だから執り行うけれども、現代人にとっては必ずしも必要ではない、迷信的な儀式だと言う人もいます。中には、聖餐を執り行ってもよいけれども、現代的なやり方に作り直さないといけない、と主張する人たちもいます。わたしたちは、そのように考えるわけではありません。聖餐を軽んじるわけではありませんし、現代風に作り直そうとも思いません。わたしたちは、古い時代の教会から脈々と受け継いできた聖餐の祝いを、できるだけ忠実に受け継いでいくべきだと考えます。

 牧師は、聖餐の式文の中で、使徒パウロがコリントの教会に宛てた手紙の中の一節を必ず読みます。その箇所の冒頭部分で、パウロは、こう記しています。

 「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」(Tコリ11:23)。

 パウロは、初代教会の中で、当初のユダヤ人中心のキリスト教会を、ユダヤ人以外の異邦人中心のキリスト教会へと発展させることに大いに寄与した、特別な伝道者です。ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシア人にはギリシア人のように、と言って、相手に合わせた柔軟な伝道方法を展開していったと言われます。さまざまな新しい伝道のアイデアを用いたのではないでしょうか。聖餐の祝い方についても、パウロであれば、その教会の人たちに合った新しい方法を考え出すことは、できたように思えます。ところが、パウロは、自分が教えた聖餐についての指示は、自分自身、主イエスから受けたもの以外の何ものでもない、というのです。自分は何も新しいことを始めたり、教えたりしていない。ただ主イエス・キリストに由来するやり方を、あなたがたにも伝えたのだ、と殊更強調して述べています。

 現代のキリスト教会が教派を越えて大切にしているのは、このパウロの姿勢です。主イエス・キリストから十二弟子たちへ、十二弟子たちから次の世代の信徒たちへ、そして代々の教会へと、脈々と受け継がれてきたもの。それを見極め、見定めて、わたしたちの時代の教会の中でできるだけ受け継いだとおり忠実にそれを執り行う。この姿勢こそ、実は、現代の教会が、かつての対立を乗り越えて、再び接近し、一致しようとすることを可能にする推進力となっているのです。

 「世界聖餐日」に、世界中の多くの諸教派教会が、このことを憶えて聖餐を祝っています。主イエスがお定めくださって、教会が受け継いでいくようにと託してくださった聖餐を、わたしたちは祝います。すべての教会、すべてのキリスト者が、他でもない主イエス・キリストから受け継いできたものによって、互いに結び合わされているのです。

神の祝福を受けて

 わたしたちは、聖餐にあずかります。そのために、まずわたしたちは、キリストと結ばれる洗礼〔バプテスマ〕を受けました。洗礼を受けていなければ、わたしたちは、聖餐にあずかりません。洗礼を受けた者だけが聖餐にあずかるのです。

 そのように申し上げると、もしかすると、まだ洗礼を受けていらっしゃらない方は、ご自分が聖餐から排除されているように思われるかも知れません。聖餐の儀式など、小さなパンのかけらと小さな器のブドウ汁を分け合っていただくだけなのだから、洗礼を受けてない者が幾人か加わったからといって、支障はないのではないか。実際、聖餐の式が行われるのを見ていると、パンもブドウ汁も、必ずある程度の数が残ってしまっているのだから、もったいないではないか。そうお考えになるとしても、無理はないと思います。

 けれども、わたしたちは、洗礼を受けた者だけが聖餐にあずかる、ということを守ってきました。少なくとも、意図的にそれを破るようなことは避けてきました。それは、単純に言ってしまえば、そうするようにと、それこそ古代教会以来、教会は受け継いできた伝統があるからです。もっと正確に言えば、洗礼もまた、主イエスがお定めくださって、教会にその執行を託してくださったゆえに、そのまま教会が受け継いできた儀式なのです。洗礼と聖餐。主イエス・キリストから受け継いできたものを、それとして愚直に受け継ぎ続ける。そのことを良しとする生き方こそ、洗礼を受けた者の生き方であり、聖餐にあずかり続ける者の生き方でもある。そうであれば、洗礼と聖餐のどちらか一方だけ、という選択肢は、わたしたちの判断としては、あり得ないことです。キリストがお与えくださる洗礼を受ける。キリストが御身、御血としてお与えくださる聖餐のパンと杯を受ける。それを受けるわたしたち人間の側の判断が変わることがあってはおかしい。

 今日の新約・ヘブライ人への手紙。こういう言葉が記されていました。

 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来たるべき世の力とを体験しながら…。(4〜5節)

 想像力をかき立てるような言葉が並んでいますが、何のことを語っているのでしょう。多くの説教者が、ここに記されていることは、キリスト者としての信仰体験、礼拝体験、祝福体験のことだと教えています。そう、光に照らされるというのは、わたしたちが洗礼を受けてキリスト者とされる体験でしょう。天からの賜物を味わいというのは、それはいろいろあるでしょうが、何よりもキリスト者として聖餐にあずかり、キリストの御体、御血としてパンと杯を味わうことでしょう。聖霊にあずかるというのは、キリスト者として生かされている実感でしょう。神のすばらしい言葉と来たるべき世の力との体験というのは、キリスト者として御言葉と神の国の力によって歩まされるということでしょう。

 そういうことであれば、これは、だれよりも、これから洗礼を受けようという方に心に留めていただきたい言葉だと思います。わたしたちの教会に、今も、洗礼に向けて準備をしてくださっている方があります。

 洗礼を受けるとは、どういうことか。真の神の光に照らされることです。天からの賜物を味わうようになることです。聖霊にあずかるようになることです。神のすばらしい言葉と来たるべき世の力とを体験するようになることです。

 そして、また、わたしは、このことを、わたしたちすでに洗礼を受けた者は、本当に忘れてはならないと思います。神が与えてくださった洗礼の恵みを受けとめたときのように、生涯、聖餐にあずかり続けることによって、キリストが聖餐によって与えてくださった恵みを受けとめ続けるのです。そう、わたしたちは、洗礼によって、いわばキリスト者という「土地」に改良されたのです。かつてのわたしたちは皆、神の恵みが雨のように降り注いでも、茨やあざみを生えさせた「荒れ地」であったために、何の実りも実らせられなかったのです。しかし、今や、キリストが洗礼によってわたしたちを「キリスト者という土地」に改良してくださった。神の恵みが雨のように降り注げば、それを存分に受けとめ、吸い込んで、豊かな実りを実らせることができるようにしてくださったのです。

約束されたものを受け継ごう

 洗礼を受けたわたしたちは、たゆまず、怠らず、礼拝に連なり、聖餐にあずかり続けましょう。そうすることによって、神の恵みを存分に受けとめ続け、吸収し続ける歩みを、確かなものとしていただきましょう。そこにこそ、わたしたちの本当の豊かな実りが実ることになるのです。そこでこそ、わたしたちの本当の人間として成熟が達成されるのです。それが、神がキリストを通してわたしたちにお許しくださっている道なのです。

 キリストを信じ、この道を先んじて生涯を終えていかれた先達を思い起こす永眠者記念の季節も、間近です。いや、わたしたちが古くから教会で受け継いできた聖餐の式では、聖餐にあずかるたびに、わたしたちの信仰の先達、聖なる者たちを思い起こし、その歩みに見倣うように、促されています。

 世界中の諸教会と共に、聖餐にあずかります。今ある世界の諸教会、そして、過去二千年の歴史の中で立ち現れてきたすべての教会、そこに連なる聖なる人々と共に、聖餐にあずかります。主イエスがお定めくださった聖餐にあずかり、主より受け継がせていただくべきものを、今、深く心に刻んでまいりましょう。


祈り
主よ。御言葉と聖餐の恵みを注いでくださいます。全ての良きものをお与えくださいます。心開いて受けとめ吸収し実りを結ぶ者とならせてください。アーメン