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神学校日・伝道献身者奨励日礼拝説教
  「救いへの先導者、キリスト」

日本基督教団藤沢教会 2010年10月10日

30主に従う人は、口に知恵の言葉があり
 その舌は正義を語る。
31神の教えを心に抱き
 よろめくことなく歩む。
32主に逆らう者は待ち構えて
 主に従う人を殺そうとする。
33主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ
 罪に定められることをお許しにならない。
34主に望みをおき、主の道を守れ。
 主はあなたを高く上げて
   地を継がせてくださる。
 あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。
35主に逆らう者が横暴を極め
 野生の木のように勢いよくはびこるのを
   わたしは見た。
36しかし、時がたてば彼は消えうせ
 探しても、見いだすことはできないであろう。
37無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。
 平和な人には未来がある。
38背く者はことごとく滅ぼされ
 主に逆らう者の未来は断たれる。
39主に従う人の救いは主のもとから来る
 災いがふりかかるとき
   砦となってくださる方のもとから。
40主は彼を助け、逃れさせてくださる
 主に逆らう者から逃れさせてくださる。
 主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。
                 (詩編 37章30~40節)



 27 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。28 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。
31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」
 33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、35 それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。41 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、42 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。         (使徒言行録 5章27節~42節)



 先程読まれました使徒言行録には、ペトロ達、イエスさまの弟子達が、イスラエルの議会に捕まって尋問されていることが描かれています。すでにイエスさまはなく、弟子達だけで、イエスさまから引き継いだ福音伝播の旅がなされていました。

 それにしても、どうしてイエスさまがもたらした福音が、こうまでして人々に拒絶されるのかという疑問が湧いてきます。イエスさまがいらっしゃる時もそうでしたが、弟子達だけでこうして福音を伝えようとすると、すぐに「待った」がかかります。ここでは、イスラエル、ユダヤの人々によって拒否されますが、この後、ローマ人の所へも弟子達は旅を続けて行き、そこでもいたる所で人々を怒らせ、拒絶に会います。

 ここではペトロ達はガマリエルという人に、この人はパウロの先生だったと言われている人ですが、そのガマリエルの口添えで、何とかギリギリの所で九死に一生を得ることが出来ました。このガマリエルが言うには、イエスさまは、以前反乱を起こして鎮圧されたテウダという人物と、そして、ガリラヤのユダという人物と比べられています。これらの人物がイエスさまと共通していることは、いずれも国に対する反乱罪として処刑されているということです。イスラエル社会、ローマ社会の秩序を乱す、危険分子として殺されたというわけです。一説には、このテウダもガリラヤのユダも、イエスさまと同様に十字架につけられて殺されました。

 当然キリスト者なら、イエスさまはこのテウダやユダとは全然違うのだと考えますが、一方で当時の社会の秩序を、イエスさまや弟子達が揺るがしたのは間違いないことです。
 どうしてイエスさまがもたらした良き知らせのはずの福音が、世間の秩序を揺るがすことになったのかと言いますと、ここでペトロが議会で証言した言葉に関連しています。

 ペトロはイエスさまを、「イスラエルの人々を悔い改めさせ、その罪の赦しを受け取らせるために、神さまから送られた導き手だ」と証言しています。後にわかることですが、ここで言うイスラエルの人々というのは、ローマ人などイスラエル人以外の人々にも広がりますので、全ての人々として理解して良いと思います。イエスさまは全ての人々を悔い改めさせに来たのだとペトロは言っているのです。

 ここで言う「悔い改め」という言葉は、読んで字の如く、心を悔いて改める、「改心」するという意味が含まれてはいますが、それだけの狭い意味ではありません。もっと大きな意味である言葉であります。「かいしん」は「かいしん」でも、心の向いている方向を回転させるという意味での「回心」するという意味が本来のものです。それまで見ていた方向から向きを変え、神さまが見ている方向へ、神さまの視点に自分たちの焦点を合わせるということです。イエスさまはそして、神さまの見方は我々人間とは全く異なるのだとおっしゃいました。
 我々人間ならば、例えば鳥という動物を見るにしても、それぞれ評価を変えます。ワシやタカなど立派な鳥に比べて、カラスなどの鳥はどちらかというと劣った鳥だと考えることがあるのだと思います。

 しかし、イエスさまが明らかにされた神さまの視点、神さまの見方からしますと、ワシであろうがカラスであろうが、どの鳥だってご自分でお造りになったことには変わりありません。どの鳥であっても同様に大切であることには変わりはないのです。神様からしてみれば、どの鳥を好んで、どの鳥を嫌うということはないわけです。どのような鳥であっても、神さまがこの世界に創造された後、その命を支え続け、大切に扱っていることには変わりはないということです。

 しかし、このような神さまの視点というのは、実は私たち人間の社会の秩序を揺るがすことになります。例えば家族について考えてみますとわかりやすいと思います。仮に父親が大変威張っている家族があるとします。本人はこの家の中で、自分に一番価値があると思っていたところ、イエスさまが、神さまからすれば、家族の中のどの人も、みな同じように大切な人だと言われれば、少々まずいことになります。その父親は、それまでのように威張ってはいられなくなってしまうわけです。このように、社会の様々なところで、価値を判断する見方が問われていけば、大変な混乱が起きて行くことは良く理解できることだと思います。

 しかしここで大切なことは、このイエスさまがもたらした秩序の揺さぶりは、やはり先のテウダやユダとは違ったものだということです。イエスさまが私たちの社会の秩序を揺さぶったのは、混乱させ、秩序を壊してしまうことが目的だったのではありません。確かに一時的には秩序を乱すことになりますが、それは本当の意味で、人と人との関係を建て上げることがその目的だったのです。神さまの世界を見る見方に人間が立ち戻り、神さまが与えた本来の秩序に我々人間を回帰させることが、イエスさまの役割でした。全てのものを和解と一致と平和に導くこと、このことが、イエスさまが遣わされた真の目的であります。

 ガマリエルはここで、イエスさまやペトロたち弟子達が本当に神さまから出たものであるなら、一時的に起こったものではなく、ずっと続くだろうと言っています。この時からすでに二千年弱の月日が経っています。そういった意味では、キリストの教会は、神さまから出たものだと言ってよいでしょう。

 しかし油断はならないと思います。現代のキリスト教会が、そのイエスさまから渡されたバトンを途絶えさせてしまう可能性だってあり得ます。未来は開かれたままです。現代のキリスト教会が、そしてキリスト者一人一人が、神さまの視点に焦点を合わせて行くことで、キリストの福音は未来につながっていくのだと思います。また、キリスト者が絶えず神さまの見方に立ち帰り、全てのものを慈しむ姿勢に生きてこそ、教会は神から出ているのだ、ということが出来るのだと思います。そしてそれは、本当に復活のキリストがキリスト者を導いて、救いを受け取らせて下さっているということの「証し」となることでしょう。

 教会の暦では、もうすぐ一年が終わり、御子のご降誕を待ち望むアドベントの時期を迎えます。この時期の教会の歩みを見て、ここに出てくるガマリエルに、「くやしいけれど、あなたたちのその姿勢を見れば、神から出ていることを認めざるを得ない」と言わせるように、ご一緒にキリストの道を歩んでまいりたいと願います。