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神学校日・伝道献身者奨励日礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年10月10日 30主に従う人は、口に知恵の言葉があり
それにしても、どうしてイエスさまがもたらした福音が、こうまでして人々に拒絶されるのかという疑問が湧いてきます。イエスさまがいらっしゃる時もそうでしたが、弟子達だけでこうして福音を伝えようとすると、すぐに「待った」がかかります。ここでは、イスラエル、ユダヤの人々によって拒否されますが、この後、ローマ人の所へも弟子達は旅を続けて行き、そこでもいたる所で人々を怒らせ、拒絶に会います。 ここではペトロ達はガマリエルという人に、この人はパウロの先生だったと言われている人ですが、そのガマリエルの口添えで、何とかギリギリの所で九死に一生を得ることが出来ました。このガマリエルが言うには、イエスさまは、以前反乱を起こして鎮圧されたテウダという人物と、そして、ガリラヤのユダという人物と比べられています。これらの人物がイエスさまと共通していることは、いずれも国に対する反乱罪として処刑されているということです。イスラエル社会、ローマ社会の秩序を乱す、危険分子として殺されたというわけです。一説には、このテウダもガリラヤのユダも、イエスさまと同様に十字架につけられて殺されました。 当然キリスト者なら、イエスさまはこのテウダやユダとは全然違うのだと考えますが、一方で当時の社会の秩序を、イエスさまや弟子達が揺るがしたのは間違いないことです。 どうしてイエスさまがもたらした良き知らせのはずの福音が、世間の秩序を揺るがすことになったのかと言いますと、ここでペトロが議会で証言した言葉に関連しています。 ペトロはイエスさまを、「イスラエルの人々を悔い改めさせ、その罪の赦しを受け取らせるために、神さまから送られた導き手だ」と証言しています。後にわかることですが、ここで言うイスラエルの人々というのは、ローマ人などイスラエル人以外の人々にも広がりますので、全ての人々として理解して良いと思います。イエスさまは全ての人々を悔い改めさせに来たのだとペトロは言っているのです。 ここで言う「悔い改め」という言葉は、読んで字の如く、心を悔いて改める、「改心」するという意味が含まれてはいますが、それだけの狭い意味ではありません。もっと大きな意味である言葉であります。「かいしん」は「かいしん」でも、心の向いている方向を回転させるという意味での「回心」するという意味が本来のものです。それまで見ていた方向から向きを変え、神さまが見ている方向へ、神さまの視点に自分たちの焦点を合わせるということです。イエスさまはそして、神さまの見方は我々人間とは全く異なるのだとおっしゃいました。 我々人間ならば、例えば鳥という動物を見るにしても、それぞれ評価を変えます。ワシやタカなど立派な鳥に比べて、カラスなどの鳥はどちらかというと劣った鳥だと考えることがあるのだと思います。 しかし、イエスさまが明らかにされた神さまの視点、神さまの見方からしますと、ワシであろうがカラスであろうが、どの鳥だってご自分でお造りになったことには変わりありません。どの鳥であっても同様に大切であることには変わりはないのです。神様からしてみれば、どの鳥を好んで、どの鳥を嫌うということはないわけです。どのような鳥であっても、神さまがこの世界に創造された後、その命を支え続け、大切に扱っていることには変わりはないということです。 しかし、このような神さまの視点というのは、実は私たち人間の社会の秩序を揺るがすことになります。例えば家族について考えてみますとわかりやすいと思います。仮に父親が大変威張っている家族があるとします。本人はこの家の中で、自分に一番価値があると思っていたところ、イエスさまが、神さまからすれば、家族の中のどの人も、みな同じように大切な人だと言われれば、少々まずいことになります。その父親は、それまでのように威張ってはいられなくなってしまうわけです。このように、社会の様々なところで、価値を判断する見方が問われていけば、大変な混乱が起きて行くことは良く理解できることだと思います。 しかしここで大切なことは、このイエスさまがもたらした秩序の揺さぶりは、やはり先のテウダやユダとは違ったものだということです。イエスさまが私たちの社会の秩序を揺さぶったのは、混乱させ、秩序を壊してしまうことが目的だったのではありません。確かに一時的には秩序を乱すことになりますが、それは本当の意味で、人と人との関係を建て上げることがその目的だったのです。神さまの世界を見る見方に人間が立ち戻り、神さまが与えた本来の秩序に我々人間を回帰させることが、イエスさまの役割でした。全てのものを和解と一致と平和に導くこと、このことが、イエスさまが遣わされた真の目的であります。 ガマリエルはここで、イエスさまやペトロたち弟子達が本当に神さまから出たものであるなら、一時的に起こったものではなく、ずっと続くだろうと言っています。この時からすでに二千年弱の月日が経っています。そういった意味では、キリストの教会は、神さまから出たものだと言ってよいでしょう。 しかし油断はならないと思います。現代のキリスト教会が、そのイエスさまから渡されたバトンを途絶えさせてしまう可能性だってあり得ます。未来は開かれたままです。現代のキリスト教会が、そしてキリスト者一人一人が、神さまの視点に焦点を合わせて行くことで、キリストの福音は未来につながっていくのだと思います。また、キリスト者が絶えず神さまの見方に立ち帰り、全てのものを慈しむ姿勢に生きてこそ、教会は神から出ているのだ、ということが出来るのだと思います。そしてそれは、本当に復活のキリストがキリスト者を導いて、救いを受け取らせて下さっているということの「証し」となることでしょう。 教会の暦では、もうすぐ一年が終わり、御子のご降誕を待ち望むアドベントの時期を迎えます。この時期の教会の歩みを見て、ここに出てくるガマリエルに、「くやしいけれど、あなたたちのその姿勢を見れば、神から出ていることを認めざるを得ない」と言わせるように、ご一緒にキリストの道を歩んでまいりたいと願います。 |