説教・祈祷の音声は左のスタートボタンを押してください。 音量も調整できます。 |
![]() ↑スタートボタン |
印刷用PDF |
---|
主日礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年10月17日 1 主よ、あなたはわたしの神 「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン」(7:12)。この頌栄句は、現在の讃美、私たちの今現在の礼拝、ということに留まらない、私たちの将来について語っているのです。「今を生きる」(カルペ・ディエム)ということが私たちにとっては、とても大切なことです。しかし、今だけでない、私たちの<これから>を聖書は語っていて、私たちはその方向を見て歩むことが示されているのです。私たちの<これから>とは、どのようなことでしょうか。私たちの30年後、50年後ということならば、いかがでしょうか。先の教会懇談会でも、私たちはご一緒に教会のこれからの歩みに思いを馳せました。ところが一方で、私たちは、なかなかそれが思い描きにくいということもわかってきたように思います。私たちの教会は、「わたしたちのヴィジョン」(藤沢教会ヴァージョン)を懐に、「一人が一人をキリストのもとへ」という合言葉をもって歩んでいます。皆が伝道に遣わされる、皆が伝道のために祈りをささげていくという歩みです。その私たちの祈りが、教会建物に反映されるようにとさまざまな意見交換をして、共に絵を描いていくというプロセスにあって、私たちはある飛躍を感じているのです。 私たちの現在は幸せなのだが、今のままではいけないのだろうか。否、たしかに、今のままでは不完全であるとしても、今の現実に立って将来を思い描くとはどういうことなのだろうか。現在と将来が結び付きにくい、想像しにくいと感じるところがあります。さまざまな心配事が頭をよぎります。この心配事が去らなければ、私たちの明るい将来は見えてこないのだと思われるのです。私たちの日々の色々な心配事に心を働かせることと、主の御心を尋ね求めながら大きな展望を見ることがどうつながるのか、このことはいつも私たちの課題であると言ってもよいと思います。私たちの目の前の心配事が、主の幻を見る目を塞いでしまうというところがあるように思います。 さて、このところで私たちは与えられたヨハネの黙示録に聞きたいと思うのです。迫害が激さを増し、教会が厳しい状況にさらされているとき、ヨハネは、パトモス島にあって、この現実を見つめるべくひとり黙想していました。すると、ある巻物が与えられます。その巻物には7つの封印がありました。「しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった」(5:3)と言います。7つの封印を解くことがお出来になる方は、「小羊」と呼ばれるキリスト、ただおひとりです。小羊なるキリストこそが封印を解かれるお方なのだと言われるように、私たちのいただく御言葉もまた、ただ熱心に勉強するのではなくて、この方でなければ開かれないものです。ヨハネは、その方の巻物の解き証しを見ています。その方は、ヨハネが見ている目の前で一つ一つの封印を解き、6つの封印を続けざまに解かれます(6章)。そこで啓き示されたことはしかし、地上に起こる人間の現実でありました。すなわち、戦争と流血、飢餓、病と死という、私たちの現実に臨む艱難です。しかもこれらは、どれを取っても深刻な現実なのです。さらに続く封印が解かれると、天変地異とともに、宇宙を揺るがす大きな裁きが訪れるのだと告げられるのです。そして残る第七の封印が解かれる―それは8章ですが―、その出来事が起こる前に、ヨハネは幻を見るのです。 一つは、地上の場面(7:1〜8)、もう一つは天上の場面(7:9〜12)、本日の朗読を聞きましたヨハネが目にした幻です。この地上には、大地の広がりがあり、海の深みがあり、これらの世界の損なわれる前に、人々は救われなければならない、神のものとしての「刻印」が押されなければならないと言います。「刻印」(スフラジス)とは、文字通り、しるしを刻むことです。古代世界では、主人の所有であることを示すために、人―多くの場合は奴隷―にはタトゥーが施され、動物には焼印が押されたと言われています。私たちの身にも、私たちが誰のものであるかを示す確かなしるしが刻まれる、このことは、パウロが「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」(ガラ6:17)と言っている通りです。身体的にしるしを刻まれることというのは、比喩ではありますけれども、初期のキリスト信者の間では、洗礼を受ける時にキリストを表わす文字や十字架のしるしを刻むということが実際に行われていたということも言われています(Dinkler)。いずれにしてもそれは、<クリスチャン>、<キリストのもの>となる洗礼の時に、付与されるしるしです。 次に、イスラエルの十二部族の名が呼ばれています。イスラエルの十二部族とは、イスラエルと呼ばれるヤコブの12人の子らに与えられた名を持つ民族です。長男である「ルベン」ではなく「ユダ」がその冒頭にあるのは、「ユダ族から出た…ダビデのひこばえ」と呼ばれるキリストのゆえでありましょう。しかし、ユダ族、ルベン族、…ベニヤミン族、12部族すべてから、同じ1万2千人の人々が出ると言われます。12の千倍です。「12」という数字は「7」と並んで、聖書において完全数とされていますが、その千倍です。つまり全ての人々、無数の人々、あの父祖アブラハムが神に言われた「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」「あなたの子孫はこのようになる。」(創15:5)そのような数え切れない人々が、「14万人4千人」という数字には表わされています。イスラエルの全部族は、すべての教会を示します。主は、すべての教会で、人々の額にキリストのしるしが刻まれるまで待たれるというのです。 そして今度は、白い衣を着、なつめやしの枝を持った、おびただしい人々の群れが見えます。この天上の場面で明らかにされるのは、民族や言語、文化を超えて主を礼拝する人々です。「この白い衣を着た者たちは、だれか」(13節)。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)とあるように、彼らは殉教者の群れ、すなわち信仰を全うして、死んでいった人々です。私たちが、地上で失った人たちが、私たちの教会員名簿から取り去られた方々が、天上の名簿に移されているということは、彼らが天上で礼拝しているということなのだと、ヨハネは語るのです。私たちが失ったと思っていた愛する人たちが、天上で讃美をささげていると言います。先主日から続いて、今週もまた私たちは、月曜日、火曜日、水曜日と愛する姉妹、そして兄弟の葬りを行います。私たちにはこの地上で多くの出会いが与えられます。私たちは、多く与えられているから、多く涙を流さねばなりません。多くの喪失を経験しなければなりません。与えられたものが、一つ一つ取り上げられていく、その涙の中で、私たちは幻を与えられるのです。この幻は、曖昧なつかみどころのないものではありません。私たちにはっきりと神のご意志を語るものです。「なぜ?」「どうして?」という私たちの嘆きを、「アーメン」という信仰に引き上げられるものです。神のご意志は、私たちの思いを超えており、損なわれることなく、必ず実現されます。私たちは、幻として与えられた神のご意志を聞いています。一つは現在、地上についての幻、もう一つは、天上についての幻であり、私たちの将来についての幻です。私たちは幻の中で、誰と一緒に礼拝しているでしょうか。すでに召された信仰の先達でしょうか。まだ礼拝を知らない、私たちの家族でしょうか。大好きな友人でしょうか。 真白な衣を与えられた無数の人々の群れに、私たちも数えられています。真白な衣をいただく「洗礼」に、私たちは召されています。洗礼は、キリストのしるしを与えられることであり、それは<水>の出来事です。私たちが、身体のよごれを<水>で洗い清めるように、確かに、その<水>は私たちを洗うのです。私たちは、<水>の中で罪に死にます。罪に死んで、新しい人に生きるようになります。私は、この「洗礼」の出来事を思うときに、よく思い起こす御言葉があります。「たとえ、おまえたちの罪が緋のようでも 雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても 羊の毛のようになることができる」(イザ2:18)という御言葉です。この御言葉は、私たち人間の罪を指す時に、「黒」等の暗い色ではなく、「緋」や「紅」といった赤い色を示すのです。つまり、<血>の色です。私たちの罪が、<血>を流させているのです。私たちは、白い布を赤色に染めることはできても、赤色に染まっている布を、どうして白くすることができるでしょうか! …できません。しかしキリストはおできになるのです。神が、「その衣を小羊の<血>で白くした」(7:14)と語られるのです。キリストが十字架で<血>を流された、その死に与り、そしてさらにキリストの復活の命に与るのだというこの約束が、私たちの「洗礼」において現実のこととなるからです。私の衣など絶対に白くなるはずがない、多くの人はそう思います。しかし私たちが白いのは、私たち自身が善人になるからとか徳が高くなるからとかということではなく、<キリストのもの>であるからです。キリストのものとして刻印をその身に帯びたなら、私たちは、新しい<クリスチャン>に出会うための伝道へと召し出されます。私たちがおぼえることのできる隣人もまた、同じ洗礼に召されているからです。 主イエスは、この地上を去られる時、ご自分の弟子たちの<これから>なすべきことをお示しになりました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことすべて守るように教えなさい」(マタ28:19)。洗礼によって、地上では寄留者であり、旅人である私たちが永遠の住まいを得ます。聖書は証ししています。「玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る」(7:15)、別の翻訳では「彼らと共に住む」(フランシスコ会)と言われます。主が共に住んでくださる約束です。主が共に住んでくださるという約束が私たちに刻まれるゆえに、私たちの涙は止んで、泣いている私たちは、笑うようになるのです(ルカ6:21)。私たちは召された者として、主に見え、主と共に住まう永遠の国を待ちつつ、またその御業に参与して共に急ぎつつ、この地上の命の歩みを歩んでまいりましょう。 |