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主日礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年10月24日 1 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。 わたしたちの教会では、この三週間で四人の信徒方を天にお送りすることになりました。ご家族の皆さんの悲しみはいかばかりかと思いますが、わたしたち教会に連なる「信仰の家族」にとっても、深い心の痛手を負ったときでした。わたしたちは、たとえ健康で元気なときであっても、いつも「死」に対する備えをしながら生きるように、教えられています。けれども、わたしたちの備えは、現実の「死」に直面するとき、ほとんど役に立たないようにさえ思えます。 「今夜、お前の命は取り上げられる」(ルカ12:20) 主イエスがたとえ話の中でお語りになられているこの神の言葉、死の宣告の現実を、わたしたちは、親しい者の「死」を前にして、あらためて突きつけられます。「今夜」と神が宣言されたその日。わたしたちの「死」が定められる日。わたしたち人間には、決して変更不可能な、神だけがご存じの「今夜」という日を、わたしたちは、自分のことにしろ、親しい誰かのことにしろ、受け入れる他はないのです。 けれども、葬送の式をもって天にお送りした四人の兄姉方は、決して、主イエスのたとえ話の中で呼ばれているように、「愚かな者よ」と告げられた方々ではありません。四人の兄姉方は、間違いなく、神に、「幸いな者よ」と呼ばれて、天の御許へと召されて行かれました。わたしたちは、そのことを知っています。疑いようがない。四人は皆、信仰に生きることを、最後の日々に貫かれたからです。どの一人も、神の前に豊かになることをこそ願って、最後の日々を歩み通したのです。 「幸いな者よ、今夜(今日)、あなたの命を取り上げよう。」 神がそのように宣言される言葉を、四人の兄姉方は、必ずや「アーメン」と受けとめて、御許に召されて行かれた。わたしたちは、そう信じるのです。そう信じてよいのです。そして、わたしたちもまた、同じように神の宣言を聴かされたときには、「アーメン」と応えて、御許にお召しいただけるように、備えて過ごす者でありたいのです。 いったいだれのものになるのか? 「今夜、あなたの命を取り上げよう。」 自分のことにしろ、親しい誰かのことにしろ、本当に、そのときが来たならば、わたしたちは、途方に暮れるかも知れません。死の現実を突きつけられて、驚き、悲しみ、嘆きの思いに沈むことでしょう。 けれども、どうか、そのときが来ても、決して虚しさに捕らわれないでいただきたい。「人間、死んだらおしまいよ」との観念に引きずり込まれないでいただきたいのです。そのためには、どうか、皆さん一人一人、ご自分の心が「自分のため」という思いに蝕まれていないかどうか、そのことを自己吟味していただきたいのです。 主イエスは、言われました。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(21節)。 わたしたちは、自分の人生の歩みを、何のために積み重ねているのでしょうか。何のために、人生の苦労を引き受け続けているのでしょうか。わたしたちは、神が恵みをもて十分に与えてくださることを知っています。神は、種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も持たないカラスを養ってくださるのです。神は、明日炉に投げ込まれてしまう草でさえ、美しい花で装ってくださるのです。そのことを知っていて、わたしたちは、なお働き、富を得ようとします。富だけではない、さまざまな実りを得ようとします。それは、なぜでしょうか。 わたしたちの世の価値観で言うならば、こういうことかも知れません。自分の手で働き、自分の働きによって実りを得、それを自分の手に収め、自分のために用いる。それでも余れば、自分の楽しみとする。不正を働くのでもなく、真面目にそのように生きるならば、それが、当たり前のことだ、と。 けれども、主イエスは言われるのです。「今夜、あなたの命を取り上げる」と神に宣言されたならば、その自分の手の中に収めていたはずのものは、一体だれのものになるのか。あなたの手からはまったく失われて、あなたに残されるものは無くなってしまうではないか。そして、それは、その富や実りを握りしめていた「あなた」という存在が失われてしまうことではないか。 あるいは、人は、そういう生き方を選ぶこともできるのかも知れません。「人間、死んだらおしまいよ」と諦観して、刹那的に生きるのです。「自分が死んだ後のことなど、自分には関係ない」と考えて、生きている間は、ひたすら「自分のため」に生きる。「自分が死んだ後は、皆、忘れてくれて構わない」。そういう生き方を選ぶ人も、少なくないのかも知れません。 しかし、主イエスは、わたしたちに言われるのです。「あなたが失われることがあってはいけない!」、「神は、あなたが失われることを望まれない!」、だから、「思い悩まないで、神の国を求めなさい!」。 富のあるところに、心もある 今日の福音書の御言葉で主イエスがお語りになっているたとえ話の箇所は、新共同訳聖書では「愚かな金持ちのたとえ」という見出しが付けられています。ある金持ちがいて、しかも所有する畑が豊作だったと始まるこのたとえには、かなりの大金持ちで、稼いでいる人物が描き出されています。もしかすると、わたしたちとは違う次元の経済生活をしている人を想像してしまうかも知れません。 けれども、わたしたちは、ある意味では、このたとえ話に描かれる人物と同じように「富んだ」者であると思います。わたしたちは、今、このように教会に集められているのです。この中には、洗礼を受けた信者が圧倒的に多くいますが、そうでない人もいます。いずれにしても、わたしたちは皆、今日、教会という「神の家」に招き入れられています。洗礼というしるしによって「神の子」と宣言される「神の家」の一員に加えられている。そこに加えられようとしている。そうであるとすれば、わたしたちは皆、豊かに富んだ者であるに違いありません。「神の家」の中で「神の子」が貧しいことは有り得ません。 しかも、わたしたちは、ある意味で、いつも「豊かな実り」を与えられているような、「恵まれた教会」にいる者でもあります。毎年、幾人もの受洗者が与えられ、また他の教会から加えられる方々もある。今日は、藤沢大庭教会との合同プログラムに参加するためにここにいらっしゃらない兄姉もありますけれども、それでも、この礼拝堂がある程度埋まるほど大勢、共に集まることができている。本当に「豊かで恵まれた教会」です。 わたしたちが、ここ(教会)に自分の財や時を用いるというのは、幸いなことでしょう。ここに、わたしたちの心を置いているのですから。ただ、わたしたちが、この与えられた恵みを「自分たちのため」に積み上げているのだとしたら、それは虚しいことでしょう。天の父は、わたしたちに必要なことをすべてご存じなのですから、わたしたちは、神の前に豊かになることを求めたいのです。主イエスのお教えくださった神の国を求めたいのです。 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。(31〜34節) 教会に招き集められたわたしたちは、神の国を求める歩みを始めています。ここで、天の父が喜んで神の国をくださっているということを教えられています。神の国に生きる者として必要なものを何でも与えていただいていることを、学んでいます。そして、もっと豊かに実りを得るように働くことも、導かれています。わたしたちは、その実りを、「自分のため」には用いないのです。「自分のため」に必要なものは、すでに十分に与えていただいていると、知っているからです。ですから、その実りを天に積みます。神のために用いることで、隣人たちのために用いることで、わたしたちは、豊かに与えられた実りを、天に積みます。そのとき、わたしたちの心は、神のもとに置かれるでしょう。隣人たちの間に置かれるでしょう。それは、わたしたちが、神のもとで、隣人たちの間で、永遠に失われないということです。 今夜、命を取り上げられるかもしれません。それでもなお、神は、わたしたちをここに招いてくださり、決して失われないようにしてくださっているのです。 祈り 主よ。地上の命のときをお定めになられ、なお、永遠の命をお与えくださいます。尽きることのない富を天に積み、御前に豊かにならせてください。アーメン |