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主日礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年10月31日 8神はノアと彼の息子たちに言われた。 今日は、10月31日、「宗教改革記念日」です。もっとも、週報のどこにも、そのことは記していません。また、毎年この季節、私が説教者としてここに立つときに、必ず宗教改革記念日について言及するわけでもありません。けれども、教会に招かれていらっしゃっている皆さんには、一つの常識として、ぜひ覚えておいていただきたい記念日です。1517年10月31日、ドイツの修道司祭マルチン・ルターが、ヴィッテンベルク城教会の扉に、「95箇条の論題」と呼ばれる神学の問題提起を貼り出しました。それが、ヨーロッパ中を巻き込んだ教会改革運動へ、そしてプロテスタント諸教会の成立へと発展していく、重要な起点となる出来事になったのです。そのことを記念するのが「宗教改革記念日」です。 この礼拝では、聖書朗読前に讃美歌377番「神はわが砦」(旧讃美歌では267番「神はわがやぐら」)を歌いました。この讃美歌は、マルチン・ルターが作詞作曲した讃美歌です。もしかすると、皆さんの中に、この讃美歌を知らなかった、初めて歌ったという方がいらっしゃるかもしれません。あるいは、この讃美歌はあまり馴染みがない、と思われた方がいらっしゃるかもしれません。けれども、多くの皆さんにとっては、この讃美歌は、たとえマルチン・ルターの作詞作曲であることは知らなくても、馴染み深い、定番の讃美歌の一つであろうかと思います。「全然、そんなことはない」と反論される方がたくさんいらっしゃったら困るのですが、ある人の言葉を受け売りして申し上げるならば、「これこそ、賛美歌の中の賛美歌です」(川端純四郎『さんびかものがたりW さあ、共に生きよう』88頁)。世界中のプロテスタント教会で、教派を越えて歌われ続けている讃美歌です。宗教改革記念日ということをお覚えいただいたならば、それに合わせて覚えていただくのが一番よい、そういう讃美歌であると思います。 その讃美歌「神はわが砦」が、当然のことなのですが、わたしたちの讃美歌集では「宗教改革記念日」に歌われることを想定しています。ルターの国ドイツでも、従来はそうだったようですが、(これも受け売りですが、)ドイツのプロテスタント教会(福音主義教会)が1993年に出版した讃美歌集では、「不安と慰め」という項目に置かれ、また、教会暦の受難節第1主日に歌うようにと指定されるようになったのだそうです。それは、どういうことでしょうか。 この讃美歌は、ある意味ではとても勇ましい歌詞が並んでいます。邪悪なものとの戦いに打ち勝つという趣旨の歌詞は、あたかも宗教改革運動の勝利を歌っているようです。そればかりか、ドイツでは、実際に銃や兵器が使われた戦場で兵士たちによって軍歌のごとく歌われた歴史もあるのだそうです。けれども、そういう過去の用いられ方を反省する中で、ドイツの教会では、この讃美歌の歌詞の本当の意味は、受難節という深い悔い改めの季節を迎えるときにこそふさわしいと考えられるようになったということなのです。 宗教改革記念日として覚えられるようになった10月31日、1517年のその日にヴィッテンベルク城教会の扉にルターが貼り出した「論題」の第一項には、こう記されていました。「1.私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めなさい』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。」(『ルター著作選集』より) ルターが言うまでもなく、わたしたちは、悔い改めの生涯を送るために、教会に招かれ、ここでキリストと出会うようにされました。聖書が開かれ、神の御言葉が語られるところに、主イエス・キリストがおいでくださっています。どの教会でも、そのことが起こっています。宗教改革によって建てられたプロテスタント教会だけではありません。プロテスタントかカトリックか、あるいは他のキリスト教教派か、どの伝統の流れの中にあるかが問題なのではありません。聖書が開かれ、神の御言葉が語られる教会には、必ず、主イエス・キリストがおいでくださっているのです。そこに招かれた一人ひとりを、悔い改めの生涯へと導いてくださるために、です。 永遠の契約 旧約聖書から創世記のノアの洪水物語の終わりの部分の御言葉を聴きました。神がノアとノアの息子たちを前にして、「滅ぼさない」という約束の契約をお立てくださっています。 水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。(創9:15) ノアの物語というのは、主イエスの時代よりはるか大昔のことです。ダビデよりも、モーセよりも、アブラハムよりも、もっと昔の、要するに歴史の初めの時代の出来事として物語られているのが、ノアの物語です。その歴史の初めの時代に、神は、いったんはこの世界の人間の悪の現実を嘆かれ、世界を造られたことを後悔されたというのですが、それでも、洪水の出来事を通して、その悪いことばかりする人間の生きる世界を、今後は決して滅ぼし尽くすことはしないと約束してくださいました。 宗教改革の時代、プロテスタントの陣営とローマ・カトリックの陣営は、激しく相争いました。互いを異端呼ばわりして、呪い、滅びを願いました。政治が絡んだときには、実際に武器を手にして、互いに殺し合いさえしたのです。そして、そのような不幸な時代に、確かに消えていった小さなグループもありました。にもかかわらず、プロテスタント諸教会も、ローマ・カトリック教会も、今日まで滅びることなく存続してきました。それは、プロテスタントの立場が正しかったからでしょうか。ローマ・カトリック教会が正しかったからでしょうか。それぞれに正しいところがあったから、教会が滅ぼされずに存続してきたのでしょうか。残念ながら、わたしたちに、その問いに答える資格はありません。どちらが、どれだけ正しかったか、それは、神のみがご存じのことだからです。ただ、そうであっても、わたしたちは、確かに言えることがあります。それは、神が、この人間の生きる世界を決して滅ぼし尽くさないという約束をしてくださった、その約束の中に、プロテスタント諸教会も、ローマ・カトリック教会も、置かれてきた、ということです。神は、仮にもご自身の御子キリストによってお建てになられた教会を、事実滅ぼされることはなさらなかった、ということです。 それは、あるいは、ノアの前でお立てくださった神の約束、永遠の契約に基づいていると、わたしたちは、信じてよいのかもしれません。それぞれの教会に、神の永遠の契約を信じる人々がいたことでしょう。ノアの前に示された虹のしるし、契約のしるしとしての虹を、その目に見続けた信仰者がいたことでしょう。永遠の契約のしるしである虹の輝きが、その目の中に映し出され、神が約束に心を留めてくださっていることを信じ続けた礼拝者が、いたのに違いありません。その人々のいる教会を、神は決して滅ぼされることはなさらなかった。これからも、決して滅ぼされることはない。いや、教会だけではない、この世界を滅ぼされることはない。虹のしるしの輝きを映し出す一人、二人がそこにいるとき、わたしたちは、この神の約束が今も確かなものであると信じることができます。 あなたの中にある光が消えていないか わたしたちは、しかし、このノアの出来事の中で与えられた虹のしるしよりも、もっと確かな、もっと光り輝いている、契約のしるしを、いただいています。主イエス・キリストというお方です。わたしたちは、虹を見ることは稀にしかないかもしれません。けれども、主イエス・キリストというお方を見ることは、聖書が開かれるたびに、礼拝で御言葉が語られるたびに、いつでもできるのです。 ルカ福音書の今日の御言葉で、主イエスは、言われました。 「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るいが、濁っていれば、体も暗い。」(ルカ11:34) 「目が澄んでいれば、明るい。濁っていれば、暗い」。当たり前かも知れません。でも、大切なことは、光の源はどこにあるか、ということです。わたしたちの目は、中に発光源があるわけではありません。わたしたちの外に光があって、その光が澄んだ目を通して中に入ってくるのです。外から光が入ってきて初めて、目はともし火になり、全身を明るく見ることができるのです。その外から与えられる光、真の光こそ、主イエス・キリストというお方です。 目が濁るとき、わたしたちのうちに、主イエス・キリストの光は、届かなくなります。わたしたちは、自分の目を、泥だらけの窓のように、カーテンが閉められた窓のように、していないでしょうか。暗い中で、手探りで、自分の中にあるものでどうにかしようとして、無茶をしていないでしょうか。窓を開けて、キリストの光をいっぱいに差し入れていただいて、わたしたちの内にあるものをすべて明らかにしていただいて、そして大掃除をする必要が、わたしたち皆にあるのではないでしょうか。わたしたちが内側に貯め込んだ強欲や悪意を、主イエス・キリストが大掃除してくださるでしょう。そのとき、わたしたちの目は、本当にキリストの光を受けて、輝くことでしょう。ノアの虹のしるしに優る、永遠に絶えることのないキリストの光が、今日、すべての人の内に届きますように。 祈り 主よ。永遠の契約をいただきました。御子キリストをいただきました。虹のしるしを覚えさせてください。御子の光をこの目に映し出させてください。アーメン |