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主日礼拝説教
  「神に立てられた人の人生を!」

日本基督教団藤沢教会 2010年11月7日聖徒の日

 8主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。2目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、3言った。
 「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。4水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。5何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」
 その人たちは言った。
 「では、お言葉どおりにしましょう。」
 6アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。
 「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」
 7アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。8アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。
 9彼らはアブラハムに尋ねた。
 「あなたの妻のサラはどこにいますか。」
 「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、10彼らの一人が言った。
 「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。11アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。12サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。
 13主はアブラハムに言われた。
 「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。14主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」15サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」         (創世記 18章1〜15節)


 1わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、2わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。3わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。4彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。5先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。
 6ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、7また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」8すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。9約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。10それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。11-12その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。
13「わたしはヤコブを愛し、
 エサウを憎んだ」
と書いてあるとおりです。
 14では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。15神はモーセに、
 「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、
 慈しもうと思う者を慈しむ」
と言っておられます。16従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。17聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。18このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。
           (ローマの信徒への手紙 9章1〜18節)



「聖徒」らと共に、すべての「永眠者」と共に

 毎年更新いたします「召天者名簿」に、今年も幾人もの方のお名前が加えられました。昨年の永眠者記念礼拝以後に地上の生涯を閉じられてお名前が加えられた方は、10名です。いずれも、キリスト信者として歩まれた皆さんです。ほとんどの方のご葬儀を、私どもが執り行わせていただきました。ご葬儀の記憶新しい方も、少なくありません。つい先だってご葬儀をご一緒に執り行わせていただいたご遺族方が幾人も、ここにおいでくださっています。そして、その中には、信者である方も、そうでない方も、いらっしゃるのです

 信者ではない多くのご遺族方が、今日は、亡くなられたご家族のキリスト信仰を大切にお考えくださって、ここにおいでくださっています。実際、この永眠者記念礼拝は、わたしたちの教会では、日曜日の礼拝としては一年の中で最も、信者ではない方が多くおいでくださる礼拝であるかも知れません。多くの信者ではない皆さんが、信者であるわたしたちと共に、一つの礼拝にあずかってくださっている。その意味で、この礼拝は、特別な礼拝です。信者である者も、そうでない者も、共に、神の前に一つ集まって礼拝を献げることができる。そのことを、この礼拝でわたしたちは、いつにも増して特にはっきりと、確かめさせていただくことができるからです。

 「召天者名簿」にこの一年で加えられた10名の方は皆、キリスト信者でいらしたと、申し上げました。けれども、この「名簿」に掲載されている全員が、信者でいらしたわけではありません。正確に調べていませんが、かなりの数の信者ではない方が含まれています。信者教会員の皆さんが、信者ではなかったご家族のお名前をお届けくださって、この名簿に加えさせていただいてきたのです。地上の生涯を終えた後に、わたしたちは、天上に迎え入れられます。その天上にあっては、地上で信者であったかどうかにかかわらず、必ず神がその一人ひとりを覚えて、その御もとに置いてくださっている。わたしたちは、そう信じています。キリスト教会によっては、信者と信者でない人とは死後に行く世界も違うのだと教えているところもあるようですが、私は、そうではないと思います。聖書がそのように教えているとも思えません。聖書は、地上で生きている間のその生き方の違いにかかわらず、死んだ後には、必ずすべての人が、神の御前に立たされ、その名を呼ばれ、否応なく神と向き合わされるのだと教えているのです。

 もちろん、だからといって、地上で生きている間、どんな生き方をしていても関係ない、ということにはならないでしょう。地上の生涯を終えた後のこと、つまり死について、死んだ後のことについて、よくわきまえ知っているかどうかは、結局、その人の地上での生涯の歩み方を方向づけるものとなるはずです。地上で信者として生きる人は、死について、また死んだ後のことについて、ひとつの信ずべきことを受け入れて、それに基づいて、現在の歩み方、生き方を定めて生きることができるのです。わたしたちキリスト者の場合であれば、主イエス・キリストという方を通して示される死についての、また死んだ後のことについての教えを受け入れ、信じて、今の歩み方、生き方を定め、生きることができるのです。それは、どんな人間にとっても幸いなことでありましょう。

人生に対する神のご計画

 旧約聖書・創世記に、アブラハムという人の物語があります。アブラハムは、ユダヤ教でもキリスト教でも「信仰の父」と呼ばれる重要な人物です。けれども、この人が信仰者としての歩みを始めたのは、すでに75歳になってからのことでした。どうも父親の死がひとつのきっかけになったようです。父親が死んだ後に、アブラハムは、神の呼び声に気づくようになり、旅を始めました。それは、一族を率いた実際の旅であると同時に、アブラハムの心の内面で展開した「信仰の旅」でもあったと言えそうです。

 皆さんの中には、ご家族のご葬儀がきっかけで、今日、ここにおいでくださっている方がいらっしゃると思います。何年も欠かさず、この永眠者記念礼拝を覚えておいでくださっている方。一方で、今年初めて、この永眠者記念礼拝においでくださった方。その皆さん、特に信者ではいらっしゃらない皆さんに申し上げたいのです。皆さんは、この永眠者記念礼拝においでくださるごとに、神によって信仰の旅へと招かれていらっしゃるのです。もちろん、皆さん自身の意志として、そのような思いなど微塵も持っていない、とおっしゃられるかもしれません。けれども、皆さんがたとえ仮に儀礼的なお考えでここにおいでくださっているのだとしても、今、この礼拝で、神が皆さんに対して呼び声を掛けてくださっているのです。このような言い方を私がすることで、来年からこの礼拝を避けられるようなことがあってはいけないと思いますが、私は、皆さんが、信者の方もそうでない方も含めて皆さんに、ぜひ知っていただきたいのです。皆さんは、今、この礼拝に、どうして導かれてこられたか。それは決して皆さん自身の判断だけでは為し得ない、諸々の備えというものがあって、それがすべて整って初めて実現したことなのだと、そのすべてをご計画くださっている方を、わたしたちは神とお呼びするのだ、ということです。

 アブラハムは、そのことを、75歳で父親の死を経験した後に、知り始めました。すぐに、すべてを納得したわけではないでしょう。しかし、徐々に、自分の人生に対してご計画をもってくださっている方、神を親しく知るようになりました。このアブラハムにとっては、すでに年老いた自分たち夫婦に子どもが与えられたこと、その不思議な経験が、神のご計画を本当に確信するに至る機会となったと、聖書の物語は語っているのです。

すべての人は神に立てられて

 今日、わたしたちは、すでに地上の生涯を終えられた方々を覚えて、この礼拝を献げています。信者として生きられた先達。信者として生きる機会は与えられなかった家族。その人生の歩みを、つぶさに思い起こすことのできる方もあるでしょうし、ほとんどお名前を知るのみという方もあるでしょう。そうであっても、わたしたちは、この人たち一人ひとりの人生が、神のご計画の中にあったことを、今日、思い巡らし、確かめたいのです。

 信者として生きられた先達には、信仰者として歩むべき人生を、神がご計画くださっていました。信者として生きることのなかった人たちには、この地上で信仰者となるのではない人生を、神がご計画くださっていました。

 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙で、告げています。旧約の物語のアブラハムも、イサクも、ヤコブも、モーセも、その人生を神がご計画くださって、導いてくださった。そして、信仰者としては数えられない、それどころかむしろ信仰者の敵として数えられるファラオ、エジプトの王についてさえ、その人生を神がご計画くださって、すべて導いてくださっていた。その人生の節目ごとに、神は、アブラハムを立たせ、ヤコブを立たせ、モーセを立たせ、ファラオをも立たせ、それぞれの人生をまっとうさせられた。神は、ご計画のうちにすべての人の人生を置いてくださり、どの一人も、人生の道半ばで打ち倒れてしまうことがないよう、立たせてくださっているのです。

 わたしたちの願うことは、この地上ですべての人が、少なくとも親しい家族や親しい友人たちが皆、神の招きに気づいて、応え、信仰者としての旅を始めてくださることです。キリストと出会い、洗礼の恵みにあずかられて、キリスト者として歩んでくださることです。わたしたちは、そういう願いを持っています。

 けれども、神には、別のご計画があるかも知れません。ある人を信仰者として生きるようにし、ある人を洗礼によってキリスト者とし、しかし、別の人たちには地上で信仰に生きるのとは違う人生の道をご計画くださっているかも知れません。そうであっても、なお、わたしたちすべての者は、神の御前に一つ集い、共にあるように導かれているのです。今日の礼拝がそうであるように、わたしたちは、必ず、神の御前に一つにされるのです。神は、わたしたちすべての者を、ご計画のうちに覚えてくださり、一人ひとりを人生の道筋の中で立たせてくださり、一つところに導いてくださっているのです。


祈り
主よ。ご計画をもって命をお授けくださり、人生の道筋に立たせてくださいます。わたしもわたしの家族も、御もとにお導きくださる御手に委ねます。アーメン