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主日礼拝説教
  「燃え尽きない!」

日本基督教団藤沢教会 2010年11月14日終末前主日

 1モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。2そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。3モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
 4主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、5神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」6神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
 7主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。8それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。9見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。10今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
 11モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
 12神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
 13モーセは神に尋ねた。
 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
 14神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」15神は、更に続けてモーセに命じられた。
 「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。
 これこそ、とこしえにわたしの名
 これこそ、世々にわたしの呼び名。」 
               (出エジプト記 3章1〜15節)


 27さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。30次男、31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。32最後にその女も死にました。33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。37死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」39そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。40彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。
           (ルカによる福音書 20章27〜40節)



「道をそれて…見届けよう」

 今日は、この主日礼拝の前に「幼児祝福式」を執り行いました。毎年のことですが、附属幼稚園の園児たちを中心に、多くのご家族が「教会の七五三」を祝いに集まってくれます。普段の教会学校に出席していない園児家庭も、この日ばかりは、着飾ってCS合同礼拝から出席してくださる。一緒に礼拝をしている小中学生にしてみれば、いつも見かけない大勢の親子が出席するので少し戸惑うときです。礼拝堂での幼児祝福式の後には、階下で記念写真の撮影もしました。皆さんの中にも、早めにおいでになられて、おめかしした子どもたちの姿に気が付かれて、「あら、今日は何だったかしら。ちょっと覗いてみようかしら」と思われた方がいらっしゃるのではないでしょうか。そう思われて当然です。普段の教会の様子からすれば、あの着飾った子どもたちの集まっている光景は、特別なもの、不思議な光景でしょう。主日礼拝の準備をしなくてよいのであれば、あの誇らしげな子どもたちの集まっている光景を最後まで見届けたい、とさえ思います。

 今日の旧約聖書は、「モーセの柴の箇所」。モーセという人については、ほとんど説明を要さないでしょう。モーセは、イスラエルの人々、ヘブライ人がエジプトに住んでいた時代に生まれた人で、神に召し出されて、ヘブライ人をエジプトから連れ出すことになった人物です。人々をエジプトから連れ出して、四十年の歳月をかけて荒れ野を旅し、神の約束してくださった土地に入る準備をしました。そして、その途上で、神がイスラエルの人々に授けようとなさった御言葉、律法を受けとり、人々に伝える役目を果たしたのです。そのモーセが、神からその使命を与えられることになった召命の出来事を伝えるのが、この「柴の箇所」です。

 このとき、モーセは、すでに八十歳になっていました。ミディアンという地名が出てきますが、そこはエジプトの王の支配が及ばないところ。ミディアン人と呼ばれる、イスラエルの人々にとっては遠縁に当たる人々が住んでいるところに、モーセはいました。ミディアンの祭司エトロの娘と結婚し、この人の一族として生きていたのです。もう、そのような生活が四十年も続いていました。モーセは、四十年前に、エジプトの王ファラオの追っ手を逃れるように、このミディアンの地にやって来ていたのです。それまで、モーセは、エジプトの王女の子として、ファラオのすぐ近くに生きていたのです。ヘブライ人の子として生まれながら、不思議な神のご計画で、エジプトの王子の一人に数えられていました。ところが、同胞のヘブライ人を助けるためにエジプト人の一人を打ち殺したことで、ファラオに追われることになったのです。逃れてたどり着いたミディアンで、モーセは、羊飼いとして生きる生活を始め、そこにすっかり落ち着いてしまったのです。

 もう、モーセは八十歳です。とうに若い頃のように燃えるものはなくなっていたのではないでしょうか。もう、新しいことを始める気力もほとんど無い。このまま、人生の晩年を静かに過ごしたいと、そう思っていたかも知れません。

 ところが、そのモーセが、羊の群れの世話をして荒れ野を進んでいたときに、不思議な光景に目を奪われました。思わず道をそれて、その光景を見届けようという思いに駆られることになったのです。柴が火に燃えているのに、いつまでも燃え尽きないのです。「どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」。それは、ただ不思議な光景として関心を引いただけではなかったかも知れません。「どうして…燃え尽きないのだろう」。「自分は、自分の人生は、もう、静かに燃え尽きようとしている。それが人間の人生というものだと思っていた。それなのに、燃え尽きないものがある。燃え尽きないものがある。いったい、どういうことなのだろう」。大げさに言えば、モーセはそのような思いに捕らわれながら、その不思議な光景を見届けるために道をそれていくことにしたのではないでしょうか。

 教会というところは、この世を生きていく上では脇道のような存在かも知れません。教会に来て礼拝にあずかるというのは、現実の生活の道筋からは外れているところにあるものかも知れません。それでも、今日、わたしたちは皆、教会に集まりました。世間の人の行く道をそれて、礼拝にあずかっています。はっきりとご自分の意志で、そうしてくださっている方も多いと思います。けれども、仮に誰かに引っ張られて、お付き合いでここにおいでになったのだとしても、私は、そういう方も含めて皆さんに申し上げたいのです。「ここで起こっている不思議な光景を見届けていただきたい。ここに、燃え尽きないものがあることに気づいていただきたい。燃え尽きないものの背後にある方と出会っていただきたい。」

「あなたの立っている場所は聖なる土地」

 もう一ヶ月余りで、今年もクリスマスの祝いのときを迎えます。そのクリスマスの祝いのときに照準を合わせて、今年も、洗礼式や堅信礼に臨む備えをしてくださっている方が、この教会の中にいらっしゃいます。それぞれの方と、すでに何か月にもわたって準備会を重ねてきました。再来週には、役員会で試問会を行い、教会として洗礼を授け、堅信礼を授ける決意をいたします。

 牧師としてそのような準備を重ねてくださっている方と共に歩ませていただいて、しばしば思うことがあります。洗礼に備え、堅信礼に備えて歩んでいらっしゃる方が、本当に、日曜日ごとの礼拝の一回々々を、掛け替えのない信仰体験、神と出会うときとして心に刻んでくださっているのです。神が礼拝へと招き導いてくださったこと。神がこの礼拝においでくださっていること。御言葉をもって語りかけてくださっていること。そういうことを、不思議な出来事として見逃すまいと、しっかり目を見開き、心の耳を澄まして、礼拝にあずかってくださっている。わたしたちは、うっかりすると、そういうことに集中できずに、別のことを考えながら礼拝の時間を過ごしたりしてしまいます。「礼拝が終わったら、あの人に言うことがあった」とか、「お昼は、何にしようかしら」とか。「牧師に、そんなことはないでしょう」と思われるかもしれませんが、無いと言ったら嘘になります。次にしなければならないこと、その次にしなければならないことと、先のことに心奪われて、今、この礼拝のこの瞬間に行っていること、ここで起こっていることに、集中できなくなることが、ある。きっと、皆さん以上に、私ども教職者には、そのような経験が多くある。だからこそ、私は、洗礼に向けて準備を重ねてくださっているような人が、本当に、一回々々の礼拝に集中して、そのときにそこで起こっていること、神が為してくださっていることに、目を向け、心を向けていらっしゃることを知らされて、心ただされる思いになるのです。

 「ああ、そうだ。今、この礼拝で、本当に、神が不思議なことを行ってくださっている。不思議な光景をお示しくださって、わたしたちの心を、一つのところに向かわせてくださっている」。わたしたちの心が、礼拝の営みの中でそのように整えられていくとき、わたしたちはきっと、モーセが聴いたのと同じ言葉を、畏れをもって聴くことになるのです。「ここに近づいてはならない。足から履き物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」

「今、行きなさい。わたしはあなたを…遣わす」

 わたしたちは、この言葉を、礼拝にあずかるたびに確かめたいのです。「ここに近づいてはならない」。わたしたちは、礼拝で、神と出会わせていただきます。けれども、それは、神に近づこうとすることではありません。神のいらっしゃるところ、天上に召し入れていただくことでもない。神は、地上に生きるわたしたちの手の届かないところ、「天上」と呼ばれるところにいらっしゃる方です。わたしたちは、地上の歩みを終えて死ねば、その「天上」に迎え入れていただくことになるでしょう。けれども、今、神が、地上に生きるわたしたちにお会いくださるのは、今、わたしたちが「天上」に入るためではない。今、わたしたち一人ひとりが立っているところ、地上で生きている場所、そこを、わたしたちにとって「聖なる場所」にしてくださる、そのことのために、神は、今、わたしたちにお会いくださるのです。「あなたが今、立っている場所が、聖なる土地だ」。

 その場所は、この礼拝堂の中だけではないと思います。帰り道、家庭、職場、学校。一人ひとりの、この世で生きていく場です。そこを、神は、「聖なる土地」、神が共にいてくださる場にしてくださる。だからこそ、神は、モーセにこう告げられたのです。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす」

 わたしたちの礼拝は、燃え尽きない柴のある不思議な光景に溢れています。その燃え尽きない柴の背後から、神は御言葉をお語りくださいます。何と幸いな時間かと思います。けれども、神がこの時間をお与えくださるのは、わたしたちが、この不思議な光景の溢れる場から、この世の生活の場、何の不思議も起こらないかもしれない現実の場へと、もう一度、勇気をもって歩み出すことができるようになるためです。神は、今、皆さんと共にいてくださいます。そして、皆さんがここから出て行って、この世の現実の中に立つときにも、共にいてくださる。そこを聖なる神の空間としてくださるのです。教会の中だけでなく、この世の世界が、神の御心にかなった聖なる大地に変えられるために。そのために、皆さんは、今ここに立たされている、そして、ここから送り出されるのです。
 「今、行きなさい。わたしはあなたを…遣わす」


祈り
主よ。不思議な導きをいただき、御業に満ちたところで御言葉を聴かせていただいています。この世に送り出してください。いつも共にいてください。アーメン