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主日礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年11月21日 1イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。2これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」 今日は、「終末主日・収穫感謝日」、教会暦の一巡りの終わりを告げる日曜日を迎えました。来週には、新しい一巡りの始まり、「待降節(アドヴェント)」を迎えます。わたしたちは、一巡りの歩みの中で与えられた恵みを確かめ、そして、新たな信仰の歩みへと招かれていくのです。 毎年巡り来るこの季節を、わたしたちは、つい慌ただしく過ごしてしまうかも知れません。9月からの教会の歩みは、本当に休む暇もないほどなのです。ただ年中行事のように、一週々々が過ぎ去っていってしまう。その中に、この「終末主日」から新しい「待降節」に移ろうときも、流されていってしまうようにも思います。けれども、そうであればこそ、今日という日の礼拝のときに、しっかりと立ち止まることをしたいと思うのです。どんなことでも、「終わり」がなければ、新しいことは何も「始まり」ません。わたしたちには、立ち止まって、自分の手の業を休め、自分の足の歩みを休め、自分の心の回路を休めて、古い営みを終わらせ、もう一度神によって新しい歩みへと導き出していただく、そのようなときが、どうしても必要なのだと思うのです。 わたしたちの歩みの「終わり」を、御言葉によって導かれれたいと思います。 油を注がれた「王」 旧約聖書サムエル記下の御言葉は、ダビデの王位即位を伝える簡潔な箇所です。ここに至るまでのダビデの歩みを、詳しくお話しする必要はないでしょう。ダビデは、サウル王の後を継いでイスラエルの王となり、初めて全イスラエルを統一した人物です。しかし、王として即位するまでには、紆余曲折があったのです。ダビデは、まだ少年といえる年齢のときにサウル王に取り立てられて、王の側近として用いられるようになり、イスラエル軍の司令官として戦場を駆けめぐったのです。ところが、ダビデの率いるイスラエル軍が連戦連勝するに及んで、人々はダビデを歓迎するようになり、王の妬みを買うようになるのです。ダビデは、サウル王に命を狙われるようになります。ところが、ダビデには、逆にサウル王の命を奪う機会を何度も与えられるのですが、彼は、結局、自らサウル王を撃つことをしないのです。ダビデは、言うのです、「彼は主が油を注がれた方なのだ」(サム上24:7)。サウル王もまた、預言者サムエルによって油を注がれることを通して、神に立てられた王だったのです。 サウル王は、結局、ペリシテ人との戦いで戦死します。そして、その後、ようやく、ダビデは、まず自分の部族であるユダの王として、次いで、サウルが支配していたイスラエルの王として、立てられていくことになったのです。それが、今日の御言葉の伝える箇所です。 「主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」 イスラエルの長老たちは、ダビデを王として立てるのは主なる神だと言います。そして、確かにそうなのだと確かめるように、主の御前で契約を結び、そして、ダビデに油を注いで、イスラエルの王とした、と聖書は物語っています。 実は、ダビデが油を注がれたのは、これが三度目のことです。イスラエルの王として立てられる前、まずユダ族の王として立てられたときに、ダビデは油を注がれていました(サム下2:7)。そして、それ以前に、まだ父エッサイの家で羊の世話をしていた少年のときに、預言者サムエルによって、油を注がれていたのです。 三度の油注ぎには、それぞれに意味があったのでしょう。けれども、恐らくダビデにとって最も重要な意味を持ったのは、一番最初の油注ぎ、まだ少年の頃、何の実績も力もないときに預言者によって行われた油注ぎであったのではないでしょうか。二度目、三度目の油注ぎのときには、ダビデは既に、イスエラル中の人々に名実ともに王としての力を認められていました。そうであれば、そのときの油注ぎは、与えられて当たり前のものであったでしょう。けれども、一度目の油注ぎは、まったく思いがけないものだったはずです。一方的に選ばれ、一方的に与えられた油注ぎ。しかも、それは、預言者を通して与えられた神からのもの、という以外には、何の権威もないものでした。人々からの権威ではない、まったく「見えない神」からの、としか言うことのできない権威。しかし、ダビデは、その油注ぎの権威をこそ、大事にしたのです。神からの、としか言うことのできない油注ぎ。それは、あのサウル王に与えられた油注ぎでもあったのです。だからこそ、ダビデは、自分の命を奪おうとしたサウル王に対してさえ、決して手を下すことをしなかったのです。 主イエスは、いつ油を注がれたのでしょうか。わたしたちが主イエスを「キリスト」とお呼びするのは、ダビデと同じように油を注がれた方であると信じるからです。「キリスト」というのは、「油注がれた人」という意味の「メシア」という言葉のギリシア語です。「油注がれた方、主イエス」。それが、わたしたちの信じる主イエスです。 主イエスもまた、だれかこの世の権威によって油を注がれたわけではありません。わたしたちが知っているのは、一人の女によって香油を注がれた出来事です。しかし、主イエスが本当に油を注がれたということを、わたしたちは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたときの出来事として聴かされています。ヨハネから洗礼を受けられた主イエスに、天から聖霊が降ってきた。それが、主イエスに神からの油注ぎがなされた出来事であったということです。 なぜ、わたしたちは、今、そのようなことを小難しく話さなければならないのでしょうか。それは、この主イエスの油注ぎ、聖霊を受けられた出来事は、わたしたちと大いに関係があるからです。 わたしたちが洗礼を受けるとき、わたしたちは、主イエスが受けられた洗礼にあずからせていただきます。主イエスと結びつけていただき、主イエスの受けられた聖霊、油注ぎをいただくのです。それは、ダビデが少年時代に受けた油注ぎとも根っこでつながっている油注ぎです。だれか人の権威によるのではない、自分の能力や功績によるのでもない、ただ神からの、としか言い得ない権威によってなされる油注ぎです。しかし、そこでこそ、神の聖霊が注がれます。そこでこそ、聖霊によって神に向かう姿勢を正していただく者とされるのです。 十字架の上の「王」と共に 油を注がれた王、ダビデの子。主イエスは、そのように呼ばれながら、十字架につけられました。 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 これは、皮肉なのでしょうか。侮辱以外の何者でもないのでしょうか。 わたしたちは、これを、まっすぐに受けとめたいと思うのです。十字架につけられた主イエス。この方こそ、わたしたちの王。油注がれた方。わたしたちを牧し、指導してくださる方。そうではないでしょうか。 主イエスは、十字架につけられてから息を引き取るまで、人々にさんざん侮辱の言葉を浴びせられました。 「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」 「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」 「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」 「自分を救え!」。 そうです。わたしたちは皆、自分を救おうとして、必死になっています。自分でどうにかしようとして、汲々としています。自分のことで、頭がいっぱいになっています。 そうです、この世では、自分を救う者が、力を得るのです。自分と自分の仲間を救う者が、この世を支配するのです。自分を救わない者は、力を失うのです。自分と自分の仲間を救わない者は、この世を支配することはできないのです。 主イエスは、「自分を救わない方」となられました。「自分を救わないメシア」「自分を救わない王」として、十字架に上げられました。いや、もはや「自分を救わない」のではなく、「自分を救えない」方。十字架の上で、主イエスは、そのような王となられたのです。そのようなメシアとなられたのです。 主イエスは、「自分を救わない王」として、すべてを失われました。けれども、その代わりに、主は、「自分を救えない者」と共にいることを選ばれたのです。 「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」 わたしたちの従う王、主イエスは、このようなお方です。このようなお方として、わたしたちを牧される。指導される。わたしたちを、ご自分の十字架の隣にお招きになられる。そして、そこに「御国」「神の王国」を実現なさるのです。 終末主日を迎え、一巡りのときを終えようとしています。新しい待降節を迎える前に、ひととき立ち止まるときを与えられています。 わたしたちを導いてくださる主イエスが、「自分を救わない者」として、ただ十字架の上にじっとしていられます。その手を釘付けにされ、その足を釘付けにされ、ただ、隣にいる者と共にいることだけをなさっています。そのところで、神の御手に、すべてをお委ねになられているのです。 今、古い自分の歩みを「終わり」にさせていただきましょう。まったく立ち止まって、自分の力ではなく、神からの命によって、新しい歩みを「始め」させていただきましょう。 祈り 主よ。十字架の主のもとに招かれてまいりました。主の十字架の隣におらせてください。自分を救わない者として、真の命にあずからせてください。アーメン |