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待降節第1主日 アドヴェント合同礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年11月28日 25「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。26人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。27そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。28このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」 神の天地創造の初めから、わたしたち人間の生活を昼と夜に区切るものが、太陽です。今の季節は、夕方の4時30分に町の放送で音楽が流れますが、日が短くなっていく夜の長い季節です。太陽の光によって季節の変わり目を知らされ、太陽と共に時を刻んでいます。ところが、「その日」には、太陽の営みに異変が起こるのだと言います。いったいどのような事態でしょうか。詳しくは知らされませんが、第一に思い起こすことができるのは、福音書の23章の出来事です。太陽が、真昼にまったく光を失ってしまった、主イエスが十字架にかけられて、大声で叫ばれたというその時です。その時、太陽はまったく機能を失ってしまいました。 本日の箇所のすぐ後には、主イエスのご受難と死があります。22章冒頭には「過越祭と言われている除酵祭が近づいていた」(22:1)とあります。過越祭が間近に迫るとき、「祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた」(22:2)と福音書は伝えています。ご自分の身に十字架が近づいているというときに、主は「終わりの日」についてお話になりました。主イエスのご降誕<クリスマス>が近いということと、主イエスの<十字架>の近いということに何の関わりがあるでしょうか。<クリスマス>の向かうところは<十字架>です。しかし主イエスの物語は<十字架>の死では終わりません。主が、もう一度わたしたちのところにやって来られる、しかも目に見える形でやって来られるという将来の約束をあらわしてくださったからです。 わたしたちが、まだ見ない将来に関するお言葉を信じるということは、真っ暗闇の手探りの状態にあるということではありません。わたしたちは、神が、必ず約束を果たしてくださる方であることを知っていますし、それはすでに歴史の中で明らかにされています。わたしたちは、神のご計画を信じ「使徒信条」を告白します。「使徒信条」は、イエスさまの使徒たちの時代から2千年間、教会が大切に伝えてきた信仰です。わたしたちの教会が信じているところは、世界中いつの時代もここからブレることはありません。使徒信条の中に、主イエスは「三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして全能の父である神の右に座しておられます。そこからこられて生きている者と死んでいる者とをさばかれます」とあります。少し長い文章ですが、この告白の中には、主イエスの<復活と昇天>(過去)、主イエスの<在天>(現在)、主イエスの<再臨>(未来)が語られています。どれも聖書が証しする言葉です。主イエスは、再び来てくださることを約束してくださいました。わたしたちは、主イエスのこの<未来>を信じます。しかしながら今、主イエスは、わたしたちの目には見えない天にいらっしゃいます。信じることは、主を待つことです。わたしたちは、主が再び来られる「終わりの日」を待ちます。 「終わり」と言う言葉で頭に浮かぶことの一つは、この地上の人生の終わり、「死」であると思います。皆さんは、「終わり」や「死」ということを真剣に考えてみたことがおありでしょうか? 大人であれば、きっとあるでしょう。わたしたちは教会の90周年をお祝いしたときに、日野原重明先生をお迎えしました。日野原先生はさまざまな場面でご活躍ですが、現在99才というお歳もまた有名でいらっしゃいます。先生はときどき、いのちを教える授業をするために、学校に出かけて行かれるそうです。先生に出会うと、「何才まで生きたいか」と問われた子どもたちが、つられて「110才!」とか「120才!」とかと答えるのだそうです。皆さんは、何才まで生きたいとお答えになられるでしょうか? やらなければならないこと、挑戦してみたいこともあるでしょう。わたしは、現在伝道師になって3年目です。もう少しして牧師になったらしてみたいこともありますが、神さまの許可を待っています。許されるならばあれをしたい、これもしたい…そういう夢を、皆さんもお持ちではないでしょうか? 小さい皆さんも、人生の歳月を重ねられた皆さんもです。働いている人の仕事を終えた後の生活を、よく「第二の人生」と呼びます。「第二の人生」と言って意気込むからには、そこで何かが起こるのでしょうか。新しい趣味を始めたり、旅行をしたり、今まで我慢してきたところに対して素直になったり、ということがあるようです。もちろん楽しいことばかりではないでしょうが、何か重い責任から解放されて羽をのばしているような暮らしをする「第二の人生」を歩み始めるということでしょうか。教会学校の皆さんには想像しがたい世界かもしれません。日本以外の国のほとんどでは、このリタイアした後の生活を指して、「第三の人生」と呼ぶそうです。子ども時代、学生時代を過ごして、いよいよ社会に出るというときに、自立した「第二の人生」が始まります。そして、仕事や家事での責任を一通り果たしたとき「第三の人生」が新たに始まるということです。 「第二」、「第三」これらの新しい人生の始まりは、容易な決心ではないでしょうが、年代に応じた充実感を思わせる言葉であると思います。しかし一方では、「第一」「第二」「第三」の人生という括り方は、年齢特有の悩みを意識化させます。人生の道半ばで、生きにくさを感じたり、生きることに疲れを感じたりするような現実もあります。「第二」、「第三」のステップを踏み出す勇気がない、歩み続ける元気が持てない、そういうため息が聞こえてきます。わたしたちの「人生」が、世の価値観(周囲の目)にとらわれており、思い描く理想とは違う方向に行ってしまっているとき、私たちは落胆します。 しかし、わたしたちが、そのような世の価値観から解放されたならば、まったく違う価値観を持ち、神の目で自らを見ることを得るならば、新しい人として生きることができます。主イエスは、「人は新たに生まれねば、神の国を見ることはできない」とおっしゃいました(ヨハ3:3)。水と霊との洗礼によって新しい人に生まれるようにと、主は招かれるのです。クリスマスの礼拝には、洗礼に向けて準備されている方があります。昨年のクリスマスでは、小学生の受洗者(現在は中学生)が与えられました。彼女を含めて昨年は3名の方が洗礼へと導かれましたが、その中のお一人は、先月天に召されました。先月には、イースターに病床で洗礼を受けられた方も、天に送りました。お二人とも、洗礼を受けられて1年に満たない歩みでした。けれども、わたしたちの生は、この地上の時間だけがすべてではありません。わたしたちは永遠に生きるものとして神に造られました。そして、地上での命は時間と共に過ぎて行きますが、新しく生まれる命は永遠です。私たちには「終わりの日」に主の御前に立つことができるのです。それゆえ主は、目を覚まして備えるようにとお教えになります。 わたしは、小さいころには4人家族(父母兄わたし)で住んでいました。父は仕事で毎晩帰りが遅く、母もフルタイムで仕事をしていましたから、学校が終わると、自宅ではなく近くの祖父母の家に帰っていました。母が夜勤の夜などは、祖父母の家で日が暮れるまで遊んで、宿題などもして、夕飯も入浴も済ませて父の迎えを待っています。父は夜遅いので、わたしは眠っていることの方が多く、父はわたしを抱きかかえて車に乗せて、連れて帰っていたようです。兄は、わたしとは違って、親が帰ってくるまで起きているとか、それまで寝ていても帰ってきた時に気づいて目が覚めるとか、そういう繊細な面があったようです。わたしはいつも寝てしまうものですから、兄が帰ってきた父や母とお話したなどというと嫉妬したものです。いつも自分が寝ていたという記憶と、いつも兄に嫉妬していたという記憶が残っています。今では、親に会えないのも当然の生活ですから、親と一晩話ができなかったくらいで悔しがっていた子ども時代が不思議なほどです。眠っていても、抱きかかえて連れ帰ってくれるのだから、それで十分ではないかとも思います。しかしながら、幼いわたしにとっては、わたしの親がわたしを連れて帰ってくれるということは当然のことで、それ以上のことを望んでいたのです。これを話したい、あれを見せたい・・・大好きな人がやって来ると分かれば、一緒にしたいことがたくさん出てきます。 たしかに、わたしたちが待っていようと待っていまいと、主はやって来られるのかもしれません。主は、わたしたちが眠っていても目覚めていても、抱きかかえて連れ帰ってくださるでしょう。「終わりの日」は、すべての人々に等しく臨むのです。けれども神は、他でもない、待っているあなたへお語りになります。目を覚まして主を待つことをお求めになります。目を覚まして祈りなさい。神に望みを置きなさい。聖書では「望む」という言葉は、ただ待つ受身を意味しません。わたしたちが「望む」のか、反対に「恐れる」のか、そのどちらなのかが問われているのです。望みを持ち続けることは、恐れを退けていくことです。この世には、恐れや不安があり、わたしたちが「なすすべを知らず」に立ち尽くすような出来事があふれています。しかし、主は、恐れに身を縮めるわたしたちに「身を起こして、頭を上げなさい」と言われます。わたしたちは、主を待ち望み、まっすぐに天を仰ぎ、信仰の背筋をのばしながら歩んでまいりましょう。 |