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待降節第2主日礼拝説教 日本基督教団藤沢教会 2010年12月5日 1 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。 アドベントのロウソクの二本目が灯りました。先週の日曜日から聖壇上に飾られたアドベントのロウソク、アドベント・クランツです。皆さんご存じのように、御子キリストのご降誕を祝うクリスマスを迎えるまでの四週、日曜日ごとに灯すロウソクを増やしていきます。アドベントの四週を、ロウソクの光りに導かれて、わたしたちは、クリスマスを迎える備えをいたします。もともとはキリスト者の家庭でアドベントを覚えるために飾られるようになったものだそうです。皆さんの中にも、ご家庭でアドベントのロウソクを飾って、日々の歩みの中でクリスマスを迎える備えをなさっている方がいらっしゃるかも知れません。 先週、CS礼拝にいらした幼稚園の保護者の方が、聖壇に飾られたアドベント・クランツをご覧になって、「とても美しくて、印象的でした」と感想を述べてくださいました。皆さんも、そう思われるのではないでしょうか。入口に掛けられたリース、そしてアドベント・クランツ。神が、わたしたちをアドベントの祈りへとお招きくださっている。そのことを覚える、美しいしるしです。 アドベントのロウソク。たかだか百年ほど前から広まった習慣だそうですが、いつの頃からか、この四本のロウソクの一つひとつに、特別な意味を込めて呼び名が付けられるようになりました。一本目は「預言者のロウソク」、旧約聖書の預言者たちによって語られた神の御子誕生の「希望」を表すロウソクです。二本目は「ベツレヘムのロウソク」、ベツレヘムの町の家畜小屋でお生まれになり、飼い葉桶の中に寝かせられた幼子イエスの「愛」を表すロウソクです。三本目は「羊飼いのロウソク」、天使たちに告げられて生まれたばかりの幼子のもとを訪れた羊飼いたちの「喜び」を表すロウソクです。この三本目のロウソクだけは、その「喜び」を表すために、ピンク色のロウソクを使うことがあります。そして四本目は「天使のロウソク」、御子のご降誕によって「平和」が実現することを告げた天使たちの、「平和」を表すロウソクです。クリスマスの物語の順序から言うと、二本目と四本目は逆のようにも思えますし、逆に数える人もいるようです。どちらでもよいと思います。アドベントの四本のロウソクには、クリスマスの物語を思い起こさせる特別な呼び名が、それぞれ付けられ覚えられてきました。 アドベント。クリスマスを迎えるための備えをするとき、クリスマスを待ち望むときです。まだクリスマスを迎える前です。それがアドベントです。聖壇の典礼色も「紫」で、この期節に悔い改めと祈りに集中することを教えています。ドイツでは、24日にならなければクリスマスツリーを飾ることもしない、と言います。アドベントには、クリスマスとは違う、クリスマスを迎えるための特別な備え、心の備え、我が罪を悔い改めて神を待ち望む祈りが、ふさわしい。 この祈りの歩みの中で、アドベントのロウソクは、アドベントのときを過ごすわたしたちに、早くもクリスマスの物語を思い起こさせます。「預言者のロウソク」、「ベツレヘムのロウソク」、「羊飼いのロウソク」、「天使のロウソク」。けれども、わたしたちは、クリスマスの祝いへと急ぐのではありません。クリスマスの物語を、アドベントの歩みの中で、ゆっくりと味わいましょう。クリスマスの物語が、自分にとって本当に待ち望むべきものとなるように。いわば「わたしの物語」となるように。クリスマスの祝いの日には、きっと、わたしたちの心と体の隅々までクリスマスの物語が行き渡っているでしょう。クリスマスの物語が、わたしたちのうちで、本当に実現し始めるでしょう。アドベントのロウソクが導いてくれるそのような歩みを、共に歩んでいきたいと思います。 神の御言葉 アドベントのロウソクの二本目「ベツレヘムのロウソク」を灯した今日、待降節第2主日を「聖書日曜日(バイブル・サンデー)」とか「御言葉の主日」と呼ぶのを、お聴きになられたことがあるでしょうか。 ベツレヘム。その町の片隅に設けられた家畜小屋、馬小屋。その中の飼い葉桶に、幼子イエスは、寝かせられていた。クリスマスの物語を伝える聖書の御言葉を、わたしたちは思い出すことができます。 その馬小屋の中の飼い葉桶を指して、宗教改革者のマルティン・ルターは、「聖書は、このみすぼらしい飼い葉桶のようなものだ」と言ったそうです。聖書は、確かに二千年あるいは三千年も前に書かれた古い書物です。「古典」と言うことはできるかも知れないけれども、ずいぶん古めかしいことが書いてあります。けれども、その中にキリストを見出すことができるならば、その飼い葉桶は掛け替えのない貴いものになる。聖書の中にキリストを見出すことができるならば、聖書は、何よりも掛け替えのない貴い書物となる。ルターは、そう言ったそうです。 クリスマスの聖誕劇(ページェント)を、幼稚園や教会学校の子どもたちが演じます。聖誕劇では、物語の最初から幼子イエスが登場するわけではありません。物語が進んで、マリアとヨセフがベツレヘムの馬小屋にたどり着いて、そこで初めて、幼子イエスの人形が寝かせられた飼い葉桶が舞台に運ばれてくるのです。 その聖誕劇を全部人形であらわした「クリッペ=馬小屋セット」は、あのアッシジのフランチェスコが始めたことだそうですが、教会によっては、手の込んだ飾り方をします。アドベントの期間にわたって、少しずつ、物語が進んで行くように、人形の配置を変えていくのです。初めは、馬小屋の中に、ただマリアとヨセフだけがいる。飼い葉桶はあるけれども、その中は空っぽ。そこに、だんだんと、羊飼いたちが近づき、三人の博士たちが近づき、クリスマスイブの祝いの礼拝で、はじめて、飼い葉桶の中に嬰児イエスの人形を寝かせるのです。アドベントの四週間にわたって、人形たちが聖誕劇を演じて見せてくれるわけです。 確かに、クリスマスに幼子イエスがお生まれになられたということは、はっきり印象づけられます。でも、少し意地悪く言えば、アドベントの間は、主イエス不在で過ごしている、と見えなくもない。そういう習慣を大切にしている教会を非難するつもりは全くないのですが、本当に意地悪く言えば、主イエスがいらっしゃらないアドベントを過ごしている、と言えなくもない。 もちろん、そんなことはあり得ないことです。ベツレヘムの飼い葉桶。そこには、幼子イエスが寝かせられている。たとえ人形は置かれていないとしても、その飼い葉桶は、幼子イエスのためのものです。生まれる前から、それは幼子イエスのためのもの。ベツレヘムの飼い葉桶を見たならば、わたしたちは、そこに幼子イエスのお姿を、黙っていても想像し、見出しているのではないでしょうか。 聖書の朗読を聴きました。聖書の御言葉の中に、幼子イエスのお姿を想像しながら、朗読をお聴きくださったでしょうか。幼子の姿になられた神のいらっしゃることを想像しながら、お聴きくださったでしょうか。 「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。 あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、 魂に命を得よ。」 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、 実現した。」 神が、主イエスが、お語りくださっているのです。けれども、大切なことは、神が、ベツレヘムに、幼子の寝かせられる飼い葉桶を置いてくださったことです。ひとつの飼い葉桶を、幼子イエスを見出す器としてくださったことです。飼い葉桶を通して、主イエスと出会い、神と出会うときを、備えてくださったことです。 飼い葉桶の周りへ! アドベントのロウソク。ベツレヘムのロウソク。このロウソクの光りが、主イエスのおいでくださる飼い葉桶を照らし出しているように思います。 ある人は言いました。主イエスは、みすぼらしい飼い葉桶の中にお生まれになられた。そして、死んで復活された後に、その飼い葉桶を弟子たちに残して行かれた。その、主イエスが残して行かれたみすぼらしい飼い葉桶とは、教会のこと。 アドベントの二本目のロウソクに導かれて、わたしたちは、クリスマスを迎える備えをひとつ重ねます。主イエスがお生まれくださる飼い葉桶を、わたしたちの集う礼拝の真ん中に、しっかりと据えたいと思います。教会の中心に、ベツレヘムの飼い葉桶を据えましょう。たとえ、どんなにみすぼらしく見えても、そこに必ず主イエスがおいでくださるところを、わたしたちは、ここに据えるのです。 聖書の御言葉。聖餐の祝い。洗礼、堅信礼。そこに主イエスがおいでくださることを、わたしたちは信じ、また、確かに見てきたのです。それが、立派なものか、みすぼらしいものか、見栄えのするものか、見栄えのしないものか。たとえみすぼらしいものであっても、見栄えのしないものであっても、ベツレヘムの馬小屋の中の飼い葉桶にお出でくださった主イエスは、必ずおいでくださるのです。 天使たちが、人々に告げています。星も、告げています。すべての人に、このことを伝えようと、主はお考えです。すべての人が、飼い葉桶の周りに集まり、そこで幼子と、主イエスと、父なる神と、会うようになるためです。 家族に、友人に、告げましょう。主の招きを告げましょう。ここに招かれてくるすべての人が、ここにいらっしゃる主イエスに、お会いいただけますように。 祈り 主よ。目をお留めてくださったベツレヘムにまいりました。飼い葉桶の前で、主の御声をお聞かせいただきます。すべての人が招きに応えますように。アーメン |