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待降節第3主日礼拝説教 (東京神学大学 近藤 勝彦 学長) 日本基督教団藤沢教会 2010年12月12日 46そこで、マリアは言った。 「マリアの賛歌」は「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌います。それには理由があって、その理由を「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と語ります。主イエスを胎に宿したマリアが賛美を歌うので、この歌は、しばしば、旧約聖書に出てきます預言者サムエルの母、ハンナの祈りと関連があると指摘されます。ハンナにはながく子供が与えられませんでした。彼女の夫(エルカナ)にはもう一人の妻がいて、ハンナを苦しめ、ハンナはついに食事も喉を通らなくなりました。そのときのハンナの祈りがサムエル記上1章11節に記されています。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けください」。こうして生まれてきたのが預言者サムエルであったというのです。マリアの賛歌に歌われている「身分の低い」という表現には、ハンナの苦しみに通じるものがあると解釈されます。しかしそれは子供がいるか、いないかということに限定されはしないでしょう。子供がいなかったことは、結婚前のマリアにとっては悲しみではありませんでした。「身分の低い」という言葉は、むしろ社会的、経済的な低さとその苦しみ、生活苦を表しているとも理解されます。しかしそれだけでもないでしょう。「低い」というのは、陽の当たらない陰の部分を意味し、また人生の苦しみを表しています。「存在する意味がない」ということと解釈する注解者もいます。 人間は誰もがこの「低さ」を経験するときがあるのではないでしょうか。しかし、歴史の中で人類が悲惨を経験するとき、特に女性の悲惨は大きいと言わなければなりません。「身分の低い」という一言に、人類の慟哭の歴史が表現され、とりわけ世々の女性の悲しみが表現されています。日本でも、時折、敗戦時の満州から引き上げてきた経験が話題になることがあります。敗戦時の異国から、敵軍に襲われながら引き上げる女性たちの経験とその悲惨は、言語を絶して甚大なものがありました。マリアはいわばそうした歴史の中の女性として、「苦悩を知る人間」を表現しています。54節には「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」と歌われます。マリアの「低さ」はイスラエルの苦難の歴史とつながっています。「身分の低い」という単純な表現が示す歴史や人生の陰の経験、悲惨の経験は、現代の人間にも無関係ではありません。低いところにある経験は、私たち自身の経験でもあり、自分の存在の意味が感じられないという問題もあるのです。その低きにいる人々に、どのような「救い」が与られるのでしょうか。 「マリアの賛歌」の主題は人類の「救い」は何かということです。そしてそれは「身分の低い、この主のはしため」にも「神が目を留めてくださった」「救い主である神が目を留めてくださった」ことにあると言うのです。よくマリアの謙遜ということも語られます。「主のはしため」というマリアの自己表現は確かに「謙遜」を表しています。しかしこの聖書の中心は何かと言えば、マリアの「謙遜」ではありません。そうではなく、あくまでも神の働きであり、神が「目を留めてくださった」こと、「わたしに」目を留めてくださったことです。それが救いだと語っています。賛美されるべきは、「マリアの低さ」そのものではなく、存在の意味がないような私に、低きにいる人に、そして人類に「神が目を留めてくださった」ことです。ホームレスの方にも、職のない人にも神が目を留めてくださっています。主イエス・キリストがマリアに宿ったこと、クリスマスに誕生された、そして主イエスがおられ、今日も私たちと共にいてくださる。このことの中で神は私たちに目を留めてくださっています。 「マリアの賛歌」は「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました」と歌います。「偉大なこと」ととは何でしょうか。他のことを言っているのではありません。「神が目を留めてくださった」ことが「偉大なこと」です。神が御子なる神を与え、それによってご自身を与えてくださった、これこそが偉大なことです。これよりも偉大なことはありません。それで「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と歌われます。「今から後、いつの世の人も」、現代人も、そして未来の人もです。神が低きにいる人間に目を留めてくださり、ご自分を与えて憐れみを示してくださった。これ以外に救いはありません。この救いが世の終りまで凌駕されることなく働き続ける救いであり、永遠に宣べ伝えられるべき救いです。 「救い」というのは、神が低きにいる人間に目を留め、御自身を与え、主イエス・キリストによって神と共に生きられるようにしてくださったことです。この神の「憐れみ」から引き離すものは何もないということです。感覚的に目に見える今の世界だけがあるのではありません。信仰を与えられ、信じ、信頼できるより確かな実在として生けるキリストの実在があります。 そうすると、「救い」は、何かあることを達成することではありません。健康とか利益とか、仕事とか才能とか、幸いな境遇を獲得することでもありません。それらも確かに神からの「賜物」として与えられることがあるでしょう。しかし決定的な救いは、神以外の他の何かでなく、神御自身が与えられ、神との交わりが与えられていることです。宗教改革者マルティン・ルターは、マリアの賛歌について記しました。「私はあなたの賜物をではなく、ただあなた御自身を求めます」。神御自身を求めるとは、神が目を留め、憐れみ、愛してくださる、そのこと、その神との交わりを求めることです。そしてルターは「私が不幸であるときにも、あなたの愛が減ったわけではありません」と言いました。経済的な不安があっても、健康の不安があっても「神よ、あなたの愛が減ったわけではありません」。救いはいささかも減ることなく、あなたが共にいてくださることで十分に与えられています。 パウロは神を「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方」と表現しました。そして神は、「御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ロマ8・32)と書きました。神は確かにすべてのものを与えてくださるにちがいありません。神は私たちに今日と言う日を与え、教会を与え、友人や仲間を与えてくださいました。仕事や家庭や、今日の天候もまた、神が与えてくださったすべてのものの一部です。しかしそのすべては、御子をくださったからです。御子をくださる仕方で、神が「わたしに目を留めてくださった」からです。私たちの中には、まだすべてをいただいていないという人もいるでしょう。しかしすでに私たちに目を留め、御子をくださり、憐れみを示し、愛の交わりのなかに入れてくださっている神を喜び、その憐れみを感謝することができます。たとえ不幸があったとしても、神が目を留めてくださる救いの中におかれていることを確信することができます。 「身分の低い」という言葉の意味について語りました。また「目を留めてくださった」という中心的な救いについて語りました。最後にマリアの「応答」についても一言触れたいと思います。「わたしの魂は主をあがめる」「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」。これがマリアの応答です。「あがめる」とは「大きくする」という意味です。マニフィカートは英語のマグニファイに通じます。ギリシャ語の言語にも大きい(メガ)という語が含まれています。大きなことをしてくださった神を、私の中でも大きくする、それがマリアの応答です。皆さんの中で神は大きくあるでしょうか。大きくあると思います。神を小さくしてしまって、信仰が生き生きするはずはありません。私たちの中で神がまことに神として大きくあるとき、憐れみの神として大きく、それゆえ天地の造り主、歴史の主として大きくあるとき、私たちの不幸は小さくなります。神が御自身大きくあるように、私たちのうちでも大きくあっていただくとき、私たちは救いを経験します。そして神を「喜びたたえ」ます。 「喜び」という言葉は、正確にはただ喜ぶのではありません。聖書の他の箇所では同一の言葉が「大いに喜ぶ」(マタ5・12)と訳されています。「救い主である神を大いに喜ぶ」のです。それが待降節の信仰です。大きな神にありのままに大きくいていただいて、その神の憐れみを大いに喜ぶ。これがマリアの賛歌の信仰です。この信仰が、どんな低さにも、人生や歴史の悲惨にも耐えて、あなたを支え、あなたの力となります。神にありのままに大きくいていただく信仰、そしてその憐れみを大いに喜ぶ信仰、この信仰に私たちも生きたいと思います。そして伝えたいと思います。神はこの私にも、あなたにも目を留めてくださっているのですから。 |