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降誕節第1主日礼拝説教 「宝ものをあなたに」

日本基督教団藤沢教会 2010年12月26日

1 主はわたしに油を注ぎ
 主なる神の霊がわたしをとらえた。
 わたしを遣わして
 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
 打ち砕かれた心を包み
 捕らわれ人には自由を
 つながれている人には解放を告知させるために。
2 主が恵みをお与えになる年
 わたしたちの神が報復される日を告知して
 嘆いている人々を慰め
3
シオンのゆえに嘆いている人々に
 灰に代えて冠をかぶらせ
 嘆きに代えて喜びの香油を
 暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。
 彼らは主が輝きを現すために植えられた
 正義の樫の木と呼ばれる。
4 彼らはとこしえの廃虚を建て直し
 古い荒廃の跡を興す。
 廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
5 他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い
 異邦の人々があなたたちの畑を耕し
   ぶどう畑の手入れをする。
6 あなたたちは主の祭司と呼ばれ
 わたしたちの神に仕える者とされ
 国々の富を享受し
 彼らの栄光を自分のものとする。
7 あなたたちは二倍の恥を受け
 嘲りが彼らの分だと言われたから
 その地で二倍のものを継ぎ
 永遠の喜びを受ける。
8 主なるわたしは正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。
 まことをもって彼らの労苦に報い
 とこしえの契約を彼らと結ぶ。
9 彼らの一族は国々に知られ
 子孫は諸国の民に知られるようになる。
 彼らを見る人はすべて認めるであろう
 これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。


10 わたしは主によって喜び楽しみ
 わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。
 主は救いの衣をわたしに着せ
 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。
 花婿のように輝きの冠をかぶらせ
 花嫁のように宝石で飾ってくださる。
11 大地が草の芽を萌えいでさせ
 園が蒔かれた種を芽生えさせるように
 主なる神はすべての民の前で
 恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。
                  イザヤ書 61章1〜11節



 1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
6 『ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
             マタイによる福音書 2章1〜12節


 クリスマスのよろこびのうちに2010年度最後の礼拝を迎えました。先主日のクリスマス礼拝には、私たちの教会に新しい兄弟姉妹が与えられました。私たちの目の前で生まれた新しい命、新しい信仰者の誕生を祝うと共に、先週はまた、一人の姉妹を天に送らねばなりませんでした。60年前のクリスマスに洗礼を受けられた姉妹でした。洗礼を受けて与えられた命は消えません。クリスマスに灯された光は、私たちの中に輝いています。教会は伝統的に、1月6日の公現日までの間をクリスマスの12日として数えます。目に見える形でのクリスマスは、公現日を迎えると終われてしまいますが、しばらくの間、私たちはろうそくの灯をご一緒に灯し続けて、クリスマスの灯が私たちの中に消えない光とされていくことを確かめてまいりましょう。

 先週は、姉妹の葬儀と共に、クリスマスの礼拝が導かれました。23日に教会学校の子どもたちとご家族の皆さんでご一緒にCSクリスマスを祝いました。CSクリスマスでは恒例のページェント(降誕劇)があります。クリスマスの物語は子どもたちが、最もよく知っている、最も大好きな聖書の物語の一つだと思います。ページェントの役決めは、子どもたちにとってなかなかデリケートな問題です。年によって多少違いはありますが、やはり人気の役と不人気の役があるのです。子どもたちの演じる愛らしいページェント見、クリスマスの物語の中に身を置くことは特別なイベントです。今年は誰が何役をするのか、裏方がいいのか、教師会のミーティングはひと盛り上がりします。子どもたちのページェントを思い描きながら、はたと、もし教会の大人の私たちがページェントを演じたら、どのようなことになるだろうかと考えました。毎年見聞きしているクリスマス物語、そのただ中にわたしたちがもう一歩足を踏み込んで行くことができたなら、私たちの身に何が起こるでしょうか? すでにもう、私たちは踏み込んでいるのかもしれません。アドヴェント(待降節)には、福音書のマリアの物語に耳を傾けてまいりました。マリアのもとを訪れた天使ガブリエルが御子の誕生を告げるあいさつに耳を傾けました(ルカ1:26~38)。そのことを受け止めたマリアの応答の讃歌、ラテン語で「マニフィカト」(頌える)と呼ばれる讃歌に耳を傾けてまいりました(ルカ1:46~55)。そして私たちは、クリスマスの礼拝を過ごして降誕節を迎えました。

 本日、ご一緒に朗読を聞きました旧約聖書の御言葉は、イザヤ書です。イザヤ61章には、「エルサレムのマニフィカト」とも呼ばれる讃歌があります。「わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ 花嫁のように宝石で飾ってくださる。」(イザ61:10)マリアのマニフィカト「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1:47)マリアの讃歌を思わせるような歌が、預言者の中に響き渡っています。神の都エルサレムの人々が、辛い喪失と屈辱の経験を経て、神の祝福を受け継ぐものとされるという約束を聞いて、それに応えて歌う詩が、この「エルサレムのマニフィカト」です。祝福の約束は、「彼らの一族は国々に知られ 子孫は諸国の民に知られるようになる。・・・これこそ、主の祝福を受けた一族である、と」(イザ61:9)「あなたたちは主の祭司と呼ばれ…国々の富を享受し…」(イザ61:6)というものです。異邦の民に知られ、諸国の宝がささげられるのだ、と預言者は語ります。そして今や、その預言が成就するのだ、と福音書は語るのです。

 本日の福音書は、毎年この主日に読まれる東方の占星術の学者たちの物語です。クリスマスを導く美しい星の物語、ページェントでもお馴染みの、なくてはならない物語です。しかしながら、登場人物に目を注ぐと、どちらかというと感情移入しにくいような人々であるように思います。東方の学者たちは、いったいどのような人たちだったのでしょうか。何人で現れたのかも知れない、私たちが知ることのできる彼らの情報はわずかです。この短い物語に、私たちの想像は膨らむばかりです。古くから、この占星術の学者たちの来訪の物語は、多くの画家によってさまざまに描かれてきました。西洋の名画では多くの場合、その贈り物の数から3人か、その他に従者たちです。3人は、異邦人の代表であり、しばしば人種を異にするアフリカ、アジア、ヨーロッパの代表として描かれます。民族を超えた全世界の人々が、この3人によって表されているのです。彼らは、中世の早い時期に、バルタザール、ガスパール、メルキオールという聖人名が与えられました。その典型的なイメージは、異なる人種であるのと同時に、年代の違う、老年、中年、青年の3人の男たちです。この3人は、単にさまざまな年代の人々が集まるということだけでなく、私たち自身の人生の三段階を象徴していると言います。主の御前に参じるということは、他の誰かではない、いつも私たちの人生に起こることです。あるときは青年として、あるときは壮年として、そしてあるときは年長者として、私たちは毎年、齢を重ねながらもこのクリスマスの御子を礼拝するのです。

 しかしこの裏では、暗い嘆きの物語が進んでいます。さらに、主の天使がヨセフに夢で現れて言います。「エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」家族は言われたとおりに、ヘロデが死ぬまでそこにとどまりました。「死ぬまで」と言われているように、ヘロデという人は、その死の間際まで、猜疑心と失脚や暗殺に対する異常なまでの恐れにとらわれていました。ヘロデが冷酷な王であったことはあまりにも有名ですが、晩年は複数の病気を患い、床に伏して苦しんだと言われています。死の間際で、ヘロデは、ユダヤ全土から著名な人を集めて競馬場に幽閉し、自分が死んだならばその人々を皆殺害するように命じておいたと言います。ヘロデは、ユダヤ人が、自らの死を喜びこそすれ誰一人悲しまないであろうことを知っていたのです。結局そのことは実行されなかったのですが、彼は死の直前までもがきました。密告組織を張り巡らして、あらゆる謀反を事前に察知して処罰する体制が整えていたにもかかわらず、彼はさらに、亡くなる数日前に息子のアンティパトリスを処刑したと言います。家族さえも、自分の息子や愛する妻でさえも信じられなくなり手にかけていくヘロデの心は、深い憎しみ、孤独で覆われています。

 クリスマスが大好きな子どもたちに知らせてはいけないような冷酷極まりないヘロデのクリスマス物語があります。「ユダヤ人の王」の誕生の知らせを聞いて「不安を抱いた」とあるヘロデの恐れは、その後の幼児虐殺という事件の萌芽となっています。その恐れは、生命を死に至らしめるものです。私たちの世界では、今なお、独裁者の恐れが、深い心の闇が、生命を踏みにじり殺めています。しかし、その恐れは独裁者だけでない、「エルサレムの人々もまた同様であった」と福音書は伝えているのです(3節)。先週水曜日の聖書研究祈祷会では、この「エルサレムの人々」とは、一体誰なのだろうか、ということが話題になりました。占星術の学者たちは、ヘロデ王に謁見する前に、エルサレムのあらゆる人々に尋ねて回っていたのだろうか。詳しくは書かれてありませんが、おそらくエルサレムの都市に住む王の恩恵を享受している人々、特にヘロデ王の周辺にいた人々を思い浮かべます。ヘロデは、ギリシャ文化の復興に努めた王としてもよく知られ、エルサレムをギリシャ的な都にするための記念碑や神殿等建築活動では功績を残しています。ヘロデのために栄えた都には、そこで何不自由なく暮らす人々がありました。何不自由なく過ごしていたある日、ヘロデの命を受けて集められた人々がありました。民の祭司長たちや律法学者たちです。民の「祭司長たち」というのは、サンヘドリン(最高法院)と呼ばれる指導者集団です。「律法学者たち」とは、聖書の専門家であり、教師です。これらの人々が集められるのは、主イエスの受難物語です。「ユダヤ人の王」として、主イエスさまを受け入れるか否かを問われているのは、ヘロデという特殊な人物だけではありません。「エルサレムの人々も皆、同様であった」のです。神などいないと言って、自らを神とするような生き方をしている者でない、神を信じる者たちが、私たちが、「新しい王」をお迎えすることに恐れを抱くことはないだろうかと、福音書は問うているのです。「新しい王」は、「古い王」によって拒まれてしまいます。「古い王」はかたくなであり、「新しい王」の誕生を想像することができません。

 「新しい王」は、思いがけない人々によって見出されました。聖書を知らない占星術の学者たちです。おそらくバビロニアからの訪問者であろうと言われている彼らは、彼らの仕方でしるしが与えられ、そのしるしを見極める者とされます。異邦人の学者たちが、この出来事をどのように受け止めていたのかは未知数です。聖書とはまったく違う文化の中に暮らし、違う神を信じていたような人たちが、「新しい王」をひれ伏して拝むということは、いったい彼らに何が起こっているのでしょうか。真の王を礼拝する実感があったのでしょうか。ずっと後の日本人の私が申すことでもないのですが、学者たちの心の中をのぞいてみたいと思うのは私だけではないと思います。しかし、たしかに彼らは、高価な贈り物を持参して「拝みに」来ており、民の祭司長たちや律法学者たち、聖書の専門家の言葉を信じて進んでいきました。そして、その星を見つけると大きな喜びに満たされたのです。彼らは、黄金、乳香、没薬、限られた地域でしか採取できない高価な宝をささげました。すなわち、王の職務を示す黄金と、祭司の職務を示す乳香(祭儀の香)、没薬(ミルラ)は、ミイラにするときに使用され、また当時は医療行為にも用いられたものであるそうです。多くの人をおいやしになった主イエスのご生涯を思わせ、また十字架の死と葬りとを思わせる贈り物です。それは、古の預言者によって語られていたことでしたが(イザ60:6)、どれほどの人たちがそれに気づいていたでしょうか。聖書の民は約束のみ言葉を与えられていましたが、「新しい王」が小さな命として訪れていることに気づくことができないのです。

 占星術の学者たちの去り方もまた印象的です。「ヘロデのところへ帰るな」という夢でのお告げを聞いて、別の道を通って帰って行ったというものです。学者たちの喜び、そして現れたしるしとお告げに従って歩む姿は、クリスマスの知らせに従順に歩んだマリアとヨセフ、聖家族と一つとされています。占星術の学者たちも、聖家族もまた、旅の途上であり、本日の場面は、その二つの長い旅が交わった一つの出来事です。それは仄暗い空の下で起こりました。これから更なる嘆きの出来事が起こらんとしている仄暗い空の下に、星が先立って進み、その場所の上に止まったのです。星は、その場所に「留まった」(ヒステーミ)とあります。それは暗闇の中の消えんばかりの光ではありません。そこに留まり、人の手によって消されることなく、たしかに輝き続ける星の光なのです。それは、いくつもの星を見てさまよい続けてきた者の、どの星の光とも違う、明けの明星となり、喜びとなったのです。神は私たちに偉大な喜びをくださいました。御子イエスさまのほほえみと、私たちの目には見えない内側に、消えない星を留まらせてくださる偉大なプレゼントです。私たちはこのクリスマスの喜びをいただいた者として、その幸いを与えられた隣人へともたらすものとされたいと願うのです。