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降誕節第3主日礼拝説教「洗礼が開く道」

日本基督教団藤沢教会 2011年1月9日


ヨルダン川を渡る
 1ヨシュアは、朝早く起き、イスラエルの人々すべてと共にシティムを出発し、ヨルダン川の岸に着いたが、川を渡る前に、そこで野営した。2三日たってから、民の役人は宿営の中を巡り、3民に命じた。
「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。4契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる。」
 5ヨシュアは民に言った。
「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる。」
 6ヨシュアが祭司たちに、「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。
 7
主はヨシュアに言われた。
「今日から、全イスラエルの見ている前であなたを大いなる者にする。そして、わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいることをすべての者に知らせる。8あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の木陰に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止れと命じなさい。」
 9ヨシュアはイスラエルの人々に、「ここに来て、あなたたちの神、主の言葉を聞け」と命じ、10こう言った。「生ける神があなたたちの間におられて、カナン人、ヘト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人をあなたたちの前から完全に追い払ってくださることは、次のことで分かる。11見よ、全地の主の契約の箱があなたたちの先に立ってヨルダン川を渡って行く。12今、イスラエルの各部族から一人ずつ、計十二人を選び出せ。13全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう。」
 14ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にしたとき、契約の箱を担いだ祭司たちは、民の先頭に立ち、15ヨルダン川に達した。春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、16川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、アラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた。17主の契約の箱を担いだ祭司たちがヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まっているうちに、全イスラエルは干上がった川床を渡り、民はすべてヨルダン川を渡り終わった。
                (ヨシュア記 3章1〜17節)


 15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」18ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。19ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、20ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。


イエス、洗礼[バプテスマ]を受ける

 21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
           (ルカによる福音書 3章15〜22節)




  本日は、主イエスの公現日(エピファニー)後の最初の主日、教会の伝統で「主の洗礼の主日」と呼ばれる日曜日です。主イエスが洗礼をお受けになる場面は、マタイ、マルコ、ルカの3福音書が共通して伝えるお馴染みの記事です。主イエスは、洗礼を受けられて、「公生涯」と呼ばれる伝道の生活へ進んで行かれます。主イエスの誕生から「公生涯」に入るまでのことは、福音書にはあまり触れられておりません。ただ2章に、当時12歳の少年イエスと両親の神殿での出来事が伝えられるばかりです。主イエスは、この後、故郷のナザレで「両親に仕えてお暮らしになった。・・・知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2:51,52)とあります。長い年月が経ち、主イエスは、律法で定められた神に支える公の職務を果たしていくほどの齢30歳になられました。「洗礼」は、主イエスの公にささげられる歩みを証する出来事であるとも言えるでしょう。洗礼を受けられた主イエスに、天が開けて聖霊が証します。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえたとあります。しかしながら、ルカが伝えるこの主イエスの洗礼の場面は、わずか2節(3:21,22)です。


  本日の福音書は、前半(15〜20節)と後半(21〜22節)に分かれていますが、前半で丁寧に語られているのは、主イエスに洗礼を授けた「洗礼者のヨハネ」と呼ばれる人物についてです。福音書の最初にさかのぼりますと、ルカは冒頭の献呈の挨拶に次いで、洗礼者ヨハネの誕生にまつわる記事から物語を始めています。ヨハネは、エリサベトとザカリアの子でした。主イエスの誕生の予告に戸惑ったマリアが、「どうしてそのようなことがありえましょうか」と問うたときに、天使ガブリエルは答えます。「・・・あなたの親類のエリサベトも、年を取っているが、男の子を身ごもっている。・・・神にできないことは何一つない」(ルカ1:36〜37)。そこで、マリアは急いでエリサベトを訪ねて出かけて行くのです。マリアがザカリアの家に入り、エリサベトに挨拶すると、エリサベトの胎の子はおどりました。大変印象的な場面ですが、この出来事は、主イエスが、母マリアの胎内にあって、初めてご自分の民を訪問された物語とも言われています。逆のことを考えてみますと、救い主イエスを最初に礼拝した人たちは、羊飼いたちとも、東方の占星術の学者たちとも言われているのですが、さらにさかのぼること、エリサベトの胎内では、ヨハネが一番先に、主を礼拝したと言うことができるかもしれません。先々週、私たちの教会の姉妹が、無事に女の子を出産されました。クリスチャンホームに育った方が、しばしば、自分は母親のお腹の中にいたときから礼拝しているとお話されることがありますが、本人は何の意識がないにしても、説教を理解していなくても、すでに胎内で礼拝が始まっているとは、すてきなことだと思います。いにしえの預言者は、神の召命を受けたときにこのような言葉を聞いています。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた」(エレ1:5)。洗礼者ヨハネの全生涯にもまた、この言葉が響いています。ヨハネもまた、エリサベトの胎にあるときから、主を喜ぶ生涯を約束されており、マリアと共に訪れた主イエスを誰よりも早く喜ぶ者とされました。そして再びヨハネが登場するのが、本日のルカ福音書3章の箇所です。


  主イエスより半年ほど早く生まれたと言われる洗礼者ヨハネでありますが、「荒れ野」で隠遁者として修道生活を送っていたヨハネが、やはり30歳になり、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(ルカ3:3)とあります。ヨハネの宣教は、「荒れ野で叫ぶ者の声」と言われました。「荒れ野」は、聖書の中で特別な意味合いを持っています。神がご自分の民に結んでくださった契約を思い出させる場所です。モーセの時代、神はエジプトで奴隷状態にあったご自分の民を導き、荒れ野の道を行かせました。神の民は、荒れ野で主の律法を得て、救いの道に入りました。長い歴史の中で、神の民は幾度も厳しい荒れ野を行かねばなりませんでした。私たちの歩みもまた、荒れ野を行くようなものです。人生の年月は、60〜70年、80年、あるいはそれ以上ですが、神の民が祖国を失ってさまよい歩いた年月は70年。人生のすべての段階において、だれもが経験しなければならない「荒れ野」は、少なくない労苦を意味するかのようです。かつて荒れ野の歩みの中で、預言者イザヤは救いの到来を告げました。イザヤの語った「荒れ野の声」、すなわち「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる、曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」(ルカ3:4〜6)この預言の成就として、ヨハネは人々に急進的に影響を与えていきました。人々は、単に、何かスターを見るような眼でヨハネを見ていたのではありません。ここに至るまでの長い歴史の中で救い主を待ち望む思いでヨハネを見、ひょっとしたらこの人が救い主ではないかと、心の中に思うほどでした。しかしヨハネは、自分に向けられた人々の期待の眼差しに気づいて、はっきりと告げます。「わたしはあなたたちに、水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる」。ヨハネは、自らの授ける洗礼と、主イエスの授ける洗礼について語っています。


  ヨハネは、「水」で洗礼を授けます。それは、ちょうど私たちが、身の汚れを洗うようにたしかに、罪のけがれを清める、罪の赦しの洗礼です。罪の赦しを得させるために、ヨハネは繰り返し悔い改めを求めました。そしてヨハネはさらに、主イエスの洗礼に言及します。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」「そして手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(ルカ3:16)。麦と籾殻とをより分ける火は、聖霊の炎であり、救い主が来られる終末に起こる審きを暗示しています。


  ヨハネは、人々を主イエスの到来に備えさせるために、繰り返し悔い改めを説きました。ヨハネの説教の一部は、大変有名です。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」(ルカ3:7,8)このような厳しい言葉を大音量で叫ばれたら、身が縮んでしまいそうです。しかし、意外にもこのヨハネの説教を聴いた群集は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」とヨハネに問い返しています。人々には、このままではいけないという自覚があったのです。それは自分たちの現状への不安であったかもしれませんが、真実に歩みたいという願いを、一人や二人でない、多くの人々が持っていました。ヨハネもまた、問いかけに対して非常に親身にアドヴァイスを返しています。主イエスの来られるときが近いことを知っていたからです。「斧は既に木の根元に置かれている。よい実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(ルカ3:9)さばきが起こります。その方は、聖霊と火で洗礼をお授けになるからです。


  ヨハネは、自分と主イエスの決定的な差異を強調します。主イエスの御前に、履物の紐を解くように頭を垂れ、主イエスのために何かをなせるという偉大な力は持ち合わせていない、自分は衰え、消え行くべき洗礼者だと語ります。けれども、ヨハネは、確かに、先に来て主イエスを証する者でした。先に来て、主イエスを迎える道備えをする者でした。生まれる前から、主イエスを喜び礼拝する者でした。同時に、もし生きながらえて、主イエスと共に活動するならば、力を発揮したであろう人物に違いありません。ヨハネはしかし、後に、領主であったヘロデ・アンティパス(ヘロデ大王の息子)の命令によって惨殺されてしまいます。勇敢にもヘロデの悪事を告発し、特に、ヘロデとその兄弟フィリポの妻ヘロディアとの関係を追及したために、ヨハネは牢に入れられて、ヘロディアの策略によって殺されてしまいます。ヨハネの不条理で残酷な最期の場面、盆にのせられた「ヨハネの首」のショッキングな場面は、あらゆる画家によって描かれています。この一人の正しい人の死は、これから起こらんとする主イエスの死を前もって暗示するものでもあります。ヨハネは、世の支配者の力によってその短い生涯を閉じますが、確かに、主イエスの道を最後まで指し示す者とされたのです。


  宗教改革者のカルヴァンは、ヨハネが行った洗礼活動について次のように説明しています。ヨハネの洗礼と主イエスの洗礼の記事は、全く別の洗礼を対照しているわけではなく、召使と主人の洗礼の職務として語られている、主人と召使の特質を互いに比較し、主人に属すべきものと、召使に属すべきものが何であるかを明らかにしている、このように語っています。確かにヨハネと主イエスの差異は際立っています。しかし、ヨハネの施す水による罪の赦しの洗礼と主イエスの「聖霊と火の洗礼」は、召使と主人の共同の職務でもあるのです。キリスト者が授けられた洗礼、クリスマスに私たちが目の前に見た洗礼の出来事は、教会・牧師という召使に託された目に見える洗礼でありながら、召使よりもはるかに優れた方が、私たちの主御自らが目に見えない聖霊を授け、洗礼を成就してくださっているということです。


  何よりも、主イエスが御自ら水の洗礼をお受けになることを望まれました。主イエスのことをよく知っていたヨハネは、自分が主に洗礼を授けるなんて、と戸惑うのですが、しかし主は、ヨハネのもとに来て悔い改め洗礼を受ける人々の間にいることをお望みになりました。福音書は簡潔に、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈って」おられたと伝えています。洗礼を受けた群れに境目なく身を置かれ、静かに祈っておられる主のお姿です。このとき天が開けて、聖霊が鳩のように「目に見える姿で」主イエスの上に降りました。主イエスに降り注ぐ聖霊はが、目に見える鳩のようなものだったという言葉は大変興味深いものです。鳩のような聖霊というのは、恐ろしい焼き尽くす火ではない、柔和で謙遜な聖霊、やさしい、平和を現す聖霊です。天来の声が聞こえます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。今度は天からのみ声が、主イエスを証します。


  時が満ち、どこからともなく現れた荒れ野の声によって示された方は、神の言葉によって、確かに顕されました。荒れ野には、ヨルダン川が流れていました。神が、洗礼の水をその場所に備えていらっしゃったのです。私たちのこの会堂にも、荒れ野が存在します。私たち自身の中に深い心の砂漠があるからです。心は、傷ついて砂漠を拡大させ、時にこの砂漠に人を引きずりこむような、傷つけ方をしてしまう、私たちは弱い者です。このままでよいとは思えません。「このわたしたちはどうすればよいのですか」と、素直に問いたいのです。ヨハネのもとにやって来て今までの生き方の方向を転換し、悔い改めた人々は皆、洗礼を受けました。洗礼は、彼らの生活を本当に方向転換させたでしょうか。そのことは詳しくは書かれていませんが、きっと私たちと同じだったのではないでしょうか。さまざまな葛藤は、やはりあります。ただその私たちの間で、主は祈られます。神の愛される子として、神に自らを委ねて歩む道を、ごく近くでお示しくださいます。神は、私たちにも洗礼の水を備えられます。多くの先駆者との出会いによって救いの道を始めてくださっています。私たちは洗礼の前に一歩踏み出しましょう。その確かな水によって、私たちが心の砂漠を横切って行くことができるよう、神に祈り求めましょう。