主日礼拝説教「労苦よりも、聞き入れる心を」 日本基督教団藤沢教会 2011年1月16日
13翌日になって、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた。14モーセのしゅうとは、彼が民のために行っているすべてのことを見て、「あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか」と尋ねた。15モーセはしゅうとに、「民は、神に問うためにわたしのところに来るのです。16彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです」と答えた。17モーセのしゅうとは言った。「あなたのやり方は良くない。18あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。19わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、20彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。21あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。22平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。23もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう。」24モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにし、25全イスラエルの中から有能な人々を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。26こうして、平素は彼らが民を裁いた。難しい事件はモーセのもとに持って来たが、小さい事件はすべて、彼ら自身が裁いた。
27しゅうとはモーセに送られて、自分の国に帰って行った。
(出エジプト記 18章13〜27節)
漁師を弟子にする
1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。6そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
(ルカによる福音書 5章1〜11節)
イエスは…舟に乗り…
今日の福音書の御言葉は、シモン=ペトロをはじめとする漁師たちが主イエスの弟子として従い始めた出来事。マタイ福音書にもマルコ福音書にも同じように伝えられている出来事です。四人の漁師が主イエスに弟子として召し出された物語として、皆さんもよくご存じでしょう。有名な主イエスの「わたしについて来なさい」(マタ4:19)という呼びかけの言葉は、今日のルカ福音書では主イエスの御言葉として語られていませんが、同じことです。主イエスが「わたしについて来なさい」とお呼びくださったので、弟子たちはすべてを捨ててイエスに従った。
皆さんの中にもいらっしゃるかもしれませんが、私は、この漁師たちが主イエスに従った出来事の物語が大好きです。「大好き」と言うと、おかしいかも知れません。私にとって、掛け替えのない御言葉の物語なのです。私は、このペトロたちが主イエスに従ったという御言葉を頼りに、高校2年生で洗礼を受けました。私は、いわゆるクリスチャンホームで育ちました。姉も兄も高校生になって洗礼を受けたのを見ていて、自分も、もう間もなく洗礼を受けるだろうと思っていました。ただ、自分の中から「洗礼を受けたい」という思いが湧き上がってくるわけではなかった。むしろ、当たり前のように受けることに反発する思いさえあった。にもかかわらず、私は、ある日曜日の教会が終わった帰り際に、牧師から、さりげなく「そろそろどうですか」と呼びかけられて、ペトロのごとく即断即決、心にも思っていなかったのに、「はい、ぼくもそう思っていました」と答えてしまったのです。ペトロのような慌て者、というよりも、私の場合は格好付けなのです。相手に言われるよりも先に自分でも分かっていた、と言いたかった。今振り返れば、そう言うことです。ですから、「受けます」と言ってから実際に洗礼を受けるまでの間、悩みました。これで良かったのか。もっときちんと自分の決心を固めてからがよいのではないか。悩みに悩んで、その悩みを誰にも打ち明けられないまま、洗礼式のあるクリスマス礼拝の日を迎えたことをおぼえています。
でも、洗礼を受けることになったときの、そういう経緯は、本当はどうでも良いことです。心から願って洗礼を受けることを申し出る人もいれば、行きがかり上やむをえず申し出る人だっていないわけではない。友達や家族が受けるということを知って、自分も乗り遅れまいと申し出る人だっているでしょう。けれども、大事なことは、そういうことではなくて、主イエスが呼びかけてくださったという事実です。主イエスの呼びかけ無くして、だれも洗礼を受けたりしないということです。実際にどのような言葉かはわかりません。けれども、主イエスが「わたしについて来なさい」と呼びかけてくださる事実があった。だから、わたしたちは主イエスに従うことができるのです。洗礼を受けることができるのです。
ルカ福音書のこの物語を見てみると、主イエスは、弟子となる漁師たちを、舟に招き入れるということを通して、呼びかけているように見えます。「わたしのいる船にあなたも一緒に乗ろう」、あるいは、「あなたの舟にわたしも乗せて欲しい」。どちらとは言えませんが、主イエスは、漁師たちと一緒の舟に乗ることで、彼らがご自分に従ってくるように呼びかけているのではないでしょうか。
ここには、主イエスのお語りになる神の言葉を聞こうとすぐ近くまで来る大勢の人々、群衆が登場します。ところが、彼らは、主イエスのいらっしゃる舟には乗りません。主イエスは、すでに岸から少し漕ぎ出したところに浮かぶ舟に乗っていらっしゃる。岸にいる群衆は、主イエスの御言葉の教えを、喜んで聞いている。けれども、主イエスと群衆との間には歴然とした距離があります。物理的にはほんの数メートルの距離ですが、大きな隔たりがある。陸地に留まっていて、いつでも自分の安全地帯に帰っていくことができる群衆。いつでも沖に漕ぎ出せる状態で湖に浮かぶ舟に乗っていらっしゃる主イエス。でも、主イエスは、その群衆の中から「この人を」と思う人には、呼びかけてくださるのです、「一緒に、この船に乗ろう」と。あるいは、「あなたの舟に、わたしを乗せて欲しい」と。
シモン=ペトロたちは、自分たちの乗り慣れた持ち船に、主イエスをお乗せしました。主イエスが、「あなたの舟に乗せて欲しい」とお頼みになったからです。あるいは、「この舟に一緒に乗ろう」と呼びかけてくださったのでしょう。
これは、ペトロたちや二千年前の弟子たちだけのことではありません。わたしたちのことでもある。わたしたちにも、主イエスは呼びかけてくださっているのです、「わたしと一緒に、舟に乗っていこう」と。だから、昔から、キリスト者たちは、教会を舟のイメージで語りました。建物も、信者の群れも、教会は舟のイメージで語られる。いいえ、キリスト者一人ひとりも、舟に乗って行く者のイメージで語られるのです。主イエスと共なる舟に乗って、この世を旅し、死を越えて天に至る旅を続ける。それが、わたしたちキリスト者の姿です。
「あなたは人間をとる漁師になる」
主イエスと共に一つの舟に乗りましょう。それは、洗礼を受けて主イエス・キリストと結ばれて一つになるということです。洗礼を受けた者としてキリストの教会に連なって生きるということです。キリストがいつも共にいてくださるところで、キリストに従っていくということです。
日曜日ごとに教会に集まるとき、わたしたちは、主イエスの舟に一緒に乗っていることを確かめます。多くの皆さんは、日曜日から日曜日の間の平日、大きな舟ではなく小さな舟で自分と主イエスと二人だけの舟に乗っているような思いで過ごしてこられたかもしれません。家族が皆そろって、同じ主イエスのお乗りくださっている舟で平日を過ごすことができる人もいるでしょうが、そういう人であっても、一歩家庭を出て、職場や学校や買い物や、その他諸々の場所に行くときには、ただ一人自分と主イエスだけの乗る小さな舟で出て行かなければなりません。そういうときに、わたしたちは、ふと不安になるのです。「今、主イエスは、わたしと一緒の舟にお乗りくださっているのだろうか」、「自分は、主イエスのお乗りくださっている舟に乗っているだろうか」と。いいえ、不安になるくらいなら、まだましです。わたしたちは、うっかりすると、主イエスと一緒の舟に乗っていることなど、忘れてしまう。それどころか、主イエスと一緒に乗っていた舟を捨てて、別の舟に乗り換えてしまうことさえある。
そうなると、それはもう、このルカ福音書の物語で最初に出てくる群衆と同じです。主イエスのお語りくださることを、一時は(日曜日の礼拝では!)神の言葉として喜んで聞くけれども、そこから立ち去って、自分の生活の場に戻ったときには、主イエス抜きの、自分流の生き方しかできないのです。それが絶対にいけないとは言えないかも知れません。けれども、主イエスがわたしたちに望んでくださっているのは、そういう生き方ではないのです。
主イエスといつも一つの舟に乗って、主イエスといわば一蓮托生の生き方をすること。主イエスの御言葉を通して、本当に神の恵みに生きるという生き方を徹底すること。主イエスは、わたしたちに、そういう生き方を望んでくださっているのです。だから、わたしたちは、日曜日ごとに、教会に帰ってきます。教会という、主イエスを中心にした、主イエスを船長とする群れに、帰ってきます。主イエスと一つの舟に乗って生きることの意味を、わたしたちはここで確かめます。そして、もう一度、主イエスの呼びかけを聴き直します。
「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」
一晩苦労して、一尾の魚も獲れなかったペトロに、主イエスは、漁をやり直すよう呼びかけられました。主イエスは、ときに、わたしたちの生活の中でさえ、無理なことをお求めになります。この世の常識に外れたことを、主イエスは、わたしたちにお命じになります。でも、それは、主イエスの生き方、自分の力ではなく、ただ神の恵みによって生きる生き方を、わたしたちに味わわせてくださるためなのでしょう。わたしたちはきっと、主イエスの非常識な求めを、ほとんどいつも無視している。「世間の常識は違う」と言って、主イエスのお求めを拒んでいる。でも、もしも、主イエスのおっしゃることを聞き入れてみたならば、どうなるのでしょう。きっと、ペトロが経験したような驚くべきことが起こるのです。わたしたちがどれだけ努力したか、どれだけ労したか、その対価として何かが与えられるというのとは違う世界。わたしたちの努力や苦労によってではなく、神がお与えくださるあふれんばかりの恵みを受けとめる世界、神の国。それが、今、目の前で起こるという驚くべき経験を、きっとわたしたちもすることになる。
主イエスの舟に乗って行きましょう。この驚くべき世界、神の国に触れながら生きていくのです。そして、この主イエスの世界、神の国の舟の中へと、家族を、友人を、すべての人を招き入れる役割を、担わせていただきましょう。「あなたは人間をとる漁師になる」。わたしたち自身が夜通し苦労することはありません。ただ、主がお命じくださるときを待ちましょう。主イエスが「今」とおっしゃってくださるときにこそ網を降ろすことができるように、主の御言葉を聞く信仰の耳を研ぎ澄ましましょう。わたしたちは、主イエスから離れないで、主イエスのお乗りくださる舟で、主の御心に聴きながら、どこまでも進み行くのです。
祈り
主よ。御言葉を喜ぶだけでなく、主と共にいることを願います。主のときに用いてください。主の恵みの御業を共に味わわせてください。アーメン
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