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主日礼拝説教「御言葉の衝撃」 日本基督教団藤沢教会 2011年1月23日 雲が幕屋を覆う 今日の福音書の御言葉は、主イエスのお守りになられた礼拝の様子が、伝えられていました。主イエスが故郷ナザレで安息日を迎え、会堂に入って礼拝をささげたとき、主イエスは、聖書の朗読をし、またその御言葉の説教をなさった。朗読された御言葉は、イザヤ書61章の聖句です。会堂の世話役の係の人に巻物を渡されて、主イエスは、この預言書の御言葉を朗読なさいました。 「主の霊がわたしの上におられる。 貧しい人に福音を告げ知らせるために、 主がわたしに油を注がれたからである。 主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、 目の見えない人に視力の回復を告げ、 圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」 そして、この御言葉を朗読なさった主イエスは、会堂に集っていた人々の期待に応えるように口を開かれて、こう宣言なさったのです。 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」 本当に確信に満ちた宣言の言葉です。もちろん、主イエスだからこそ口にすることのできた言葉でしょう。大事なことは、主が、この宣言の御言葉を、礼拝の中でお告げになられたということです。神が、聖書の御言葉を通して約束してくださっていた良きこと、福音を、今まさにここで、実現してくださっている。神が、今、ここで、ここにいるわたしたち一人ひとりを、解放し、見えるようにし、自由にし、神の御もとにある者としてくださっている。わたしたちがあずかる礼拝とは、まさにそういう、神の御業の実現しているところなのだと、主は、わたしたちにはっきりとお教えくださったのです。 そうであれば、わたしたちも、主のこの宣言の御言葉を礼拝の中で語ることに、躊躇する必要はありません。礼拝の中で、聖書の御言葉を朗読する。何よりも礼拝の中心に、聖書の御言葉の朗読を置く。その聖書の朗読を、わたしたちが聞くとき、耳にするとき、わたしたちは、主の宣言の言葉を、告げても良いのです。いいえ、今もこの礼拝においでくださっている復活の主イエスによって、この宣言の言葉をお告げいただけばよいのです。 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」 聖書の朗読によって告げられた神の言葉は、今、実現しています。神は、わたしたち一人ひとりを、主イエスを通してキリストの教会へと、礼拝へと、導いてくださり、ここで、ご自分に触れさせてくださる。神の御業に触れさせてくださる。だから、わたしたち皆が、わたしたちの願いや思いによってではなく、神の御心によって本当の意味で生きる者とされます。わたしたち皆が、本当に神の御心を自分の心として生きる者、キリストに似た者とされて、この世にあって、何者からも自由な、ただ神の御心につながれた者として生きるようになるのです。 心の思いがあらわにされる 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」 皆さんが、礼拝のたびに、この主イエスの宣言の言葉を思い起こしてくださればと思います。わたしたち皆が、自分の思いや願いではなく、自分の考える言葉によってでもなく、そういうものからまったく自由にされ、解放されて、神のお与えくださる恵みの御業をはっきりと見る者とされる。普段の生活ではとてもそのようなことを考えている余裕がないとしても、ここに集まってきたとき、礼拝に集められてきたときには、主の宣言の言葉を思い起こして、神がわたしたちにしてくださることの大きさを、もう一度、確かめるのです。週に一度、主の日の礼拝へと招かれてくる。神がわたしたちをここへ導いてくださっている。どうしようもなく神の御心から遠いわたしたちのことさえ、神は、繰り返し、ここに導き集めてくださる。どうしても、わたしたちを、あの捕らわれから、あの盲目から、あの圧迫から、解放し、見えるようにし、自由にしようと、神は本気でお考えくださっているのです。神のわたしたち人間に対する本気度、熱意は、半端ではないはずです。御子を賜ったほど、御子の命をお与えくださったほど、それほどのことをしてまで、わたしたちを、自由にし、解放し、見えるようにして、神のもの、神の御心だけにつながれた者にしようとしてくださっているのですから。 ただ、そういう神に対するわたしたちの応え方は、本当に心許ないというか、頭で分かっていても、なかなか、本当に心から分かるということにならないのが、わたしたち自身、もどかしいところかもしれません。 主イエスの宣言なさる言葉を聞いた会堂の人々。彼らは、ごく普通のユダヤ人たちだったでしょう。特別熱心ということはなかったかも知れないけれども、安息日ごとに礼拝を守ることを大切にしていた人たちです。そして、多くは、主イエスよりも年長の、聖書の御言葉を何度も繰り返し聞いてきた人たちだったでしょう。何十年も礼拝生活を続けてきた人たちだったでしょう。彼らは、主イエスが会堂であの聖書の御言葉を朗読し、あの宣言をなさったとき、もちろん、そのことの意味の重大さに気づいたと思います。聖書の御言葉をもって、神が今、ここにおいでくださって、御業を実現してくださっている。そう宣言なさった主イエス、「あのヨセフの子であるイエス」を、賞賛し、驚き入りました。「確かにそのとおりだ。そうだった。忘れていたが、そうだった」。そういう思いもあったかも知れません。ところが、彼らは、神の御業が今実現しているという信仰の事実に自分の身を置くことよりも、「あのイエスはヨセフの子ではないか」と、今まで自分の目で見てきた事実に留まらせようとする力に、抗えなかったのです。 その心の思いを、主イエスは、どういうわけか、とても厳しく指摘なさいました。せっかく、人々を惹きつける言葉で説教を始めたのに、主イエスは、疑いを抱く人々の隠れた思いをえぐり出すような言葉を重ねて、説教を終えたのです。そして、大変な反対行動に見舞われてしまいました。 牧師がこんな説教をしたら、どうなるか。やはり、主イエスのように、追い立てられるのではないでしょうか。いいえ、本当は、このようなあからさまな反対行動は起こされないとしても、わたしたちの中には、いつも、主イエスに対して、主イエスの御言葉、その教えに対して、この反対行動を取った人たちと同じような思いが隠れているのではないでしょうか。自分の思いを実現したい。自分の願いを通したい。自分の考えてきた言葉を守りたい。それは、神の目から見れば、本当は、ただ小さなつまらないところに縛られ、捕らわれて、見るべきものが見えていない状態であるのに、わたしたちは、後生大事にしがみつこうとするのです。今までのものがよいからです。自分の中にあったものが安心だからです。 主イエスは先に行かれる! わたしは、牧師である自分自身の教会での行動や言葉を振り返って、本当に恐ろしい思いになります。礼拝で、神の恵みを語り、主の御業にすべてをお委ねする決心を告げていながら、すぐ後の教会の会議やもろもろの営みの中で、まったくそれとは違うことを、語ったり、行ったりしている自分の姿を思い起こすからです。自分ひとりだけではない、もしかすると、わたしは会議の議長をしながら、教会総出で主イエスを追い出すようなことを決めていやしないか。そんなことをしているとしたら、どんなに重い責任を問われることになるのか。 けれども、皆さん、よく聞いてください。主イエスは、わたしたちのそのような反対行動を、お裁きにはならないのです。人々が皆憤慨し、総立ちになって主イエスを追い出し、崖の上から突き落とそうとしたとき、主イエスは、立ち向かわれるのでもなく、お逃げになるのでもなく、厳しく断罪なさるのでもなく、ただ、黙って人々の間を通り抜けて立ち去られた。彼らの真ん中を通り抜けて(口語訳)、主イエスは、そこから出て行かれました。 ぐずぐずと不平を言い、反対行動を起こそうとするわたしたちをご覧になりながら、そのわたしたちの真ん中を通って、主イエスは先に行かれます。そう、わたしたちは、同じ所で足踏みしていても、主イエスは、わたしたちを、どうにかして、前に進ませようと、先に立って行かれるのです。わたしたちの行くべき道、主に従い、自分の十字架を担っていく道を、主は、わたしたちに先んじて最後まで切り拓いていてくださるのです。 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」 今日も、主イエスは、ここで、そう宣言してくださっています。そして、わたしたちに先立って、ここから、わたしたちの歩むべき道に、進み出ていらっしゃいます。ですから、わたしは、礼拝の終わりに言いましょう、「平和のうちに出て行きなさい」と。主は、もう、わたしたちを自由にしてくださっているのです。捕らわれから解放してくださっているのです。見えるようにしてくださっているのです。主の後に従っていくならば、それは、確かなこととして、わたしたちの心と体に刻まれていくことになるでしょう。 祈り 主よ。お語りください。御言葉の実現を悟らせてください。御言葉に信頼して、主に従わせてください。御心のままに、自由な者とならせてください。アーメン |