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主日礼拝説教「何が残るものか?」

日本基督教団藤沢教会 2011年1月30日

新しい神殿の栄光と祝福
 ダレイオス王の第二年、1七月二十一日に、主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。2「ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者に告げなさい。
3 お前たち、残った者のうち、
 誰が、昔の栄光のときのこの神殿を見たか。
 今、お前たちが見ている様は何か。
 目に映るのは無に等しいものではないか。
4 今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと、
 主は言われる。
 大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。
 国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。
 働け、わたしはお前たちと共にいると、
 万軍の主は言われる。
5 ここに、お前たちがエジプトを出たとき、
 わたしがお前たちと結んだ契約がある。
 わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。
 恐れてはならない。
6 まことに、万軍の主はこう言われる。
 わたしは、間もなくもう一度、
 天と地を、海と陸地を揺り動かす。
7 諸国の民をことごとく揺り動かし、
 諸国のすべての民の財宝をもたらし
 この神殿を栄光で満たす、と万軍の主は言われる。
8 銀はわたしのもの、金もわたしのものと、
 万軍の主は言われる。
9 この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると、
 万軍の主は言われる。
 この場所にわたしは平和を与える」と、
 万軍の主は言われる。
                (ハガイ書 2章1〜9節)


やもめの献金
 1イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。2そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、3言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。4あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」


神殿の崩壊を予告する

 5ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。6「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」


終末の徴

 7そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。9戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
           (ルカによる福音書 21章1〜9節)



主イエスは目を上げて見ておられる

 日曜日の朝、教会堂の玄関から入ってこられた皆さんは、ある方は靴を履き替え、また別の方は泥を落とすだけで靴のままで、階段を一歩一歩上って来られるでしょう。二階までたどり着くと、コートを掛けて、受付で記名表にご自分の名前を書かれて、週報などを受けとられるでしょう。そして、また、この教会では、多くの方が、その受付で、月定献金などの献金を献金箱にささげられるでしょう。

 その様子を、受付の脇に立って見させていただくとき、わたしは、ここでやたらと挨拶など交わしてはいけない、という思いが強くいたします。そこに立っていらっしゃる皆さんは、礼拝堂の座席を目指して、ご自宅から、仕事場から、まっすぐに進み出てこられた皆さんです。すでに礼拝をささげていらっしゃる。礼拝を守っていらっしゃる。神の導きの御手に身をゆだねて、神の御声を聴こうと信仰の耳を開いて、そして、神の御前に頭を垂れていらっしゃる。そのような、すでに神との深い交わりに身を置きはじめていらっしゃる皆さんに、わたしが不用意な挨拶など差し挟んではいけない。そう思わされるのです。

 主イエスは、十字架に架けられる前、エルサレムの神殿の境内で、弟子たちや集まってきた民衆に教えを語り、またファリサイ派やサドカイ派といったユダヤ人グループの人々と論争を重ねていらっしゃいました。その主イエスが、ふと押し黙られて、その神殿で礼拝をささげようとやってきた人々に目を向けられている。今日の福音書で物語られているのは、そのような主イエスのお姿です。

 イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。

 金持ちたち。そう紹介されています。「皆さんはお金持ちでしょうか」と尋ねたら、ほとんどの方は、「いえいえ、とんでもない」とお答えになるでしょう。けれども、皆さん、ここでルカ福音書が「金持ち」と紹介しているのは、皆さんのことです。礼拝に来て献金をささげることができるような人。それは、わたしたちのことです。皆さんは金持ちたちの一人。礼拝にやってきた金持ちたちの一人。その皆さんを、主イエスは目を上げて、ご覧になられている。

 もちろん、皆さんの中に、実は今日、献金をささげることができないという方がいらっしゃるかもしれません。ただ単に財布を忘れたということではなくて、家計状況からいって、とても献金をささげる余裕などない、という方がいらっしゃらないとは限らない。そういう方があるとしたら、わたしは、少し失礼なことを申し上げたかも知れません。そういう皆さんは、「金持ち」とは言えないかもしれません。そういう方は、貧しいやもめの一人、と言うべきかもしれません。たとえ夫に先立たれた「やもめ」ではなくても、この物語の登場人物の中からいえば、「貧しいやもめ」の一人と言ってもよい。けれども、そういう皆さんにも申し上げたい。皆さんを、主イエスは目を上げて、ご覧になられている。


「だれよりもたくさん入れた」

 主イエスは、今、この礼拝堂にいらして、わたしたちをご覧になられています。わたしたちは、そう信じています。金持ちたちであろうと、貧しいやもめであろうと、わたしたちが礼拝をささげようとして神の御前に進み出てくるとき、主イエスは、その目をお上げになって、わたしたち一人ひとりをご覧くださっている。

 そう、主イエスは、礼拝をささげようとして進み出てくる者を選別して、金持ちたちを重んじて貧しい者を軽んじるとか、逆に、金持ちたちを蔑ろにして貧しい者ばかりに注目されるとか、そういうことはなさいません。主イエスは、わたしたち、ここに進み出てきた者のだれのことも、分け隔てなくご覧くださっている。それは、神がわたしたちを導いてくださって、教会に招いてくださり、この礼拝までお連れくださったのでなければ、わたしたちは、誰も、ここにいることなどあり得ないからです。神が目を留めてくださったので、わたしたちは皆、今日、ここに共に集うことが許されました。もちろん、神が目を留めてくださったのに、その導きの御手に素直に従わなかった人たちも多くあるでしょう。そういう人たちがあるとしても、現に今、ここに、この礼拝に共に集わされているわたしたちは皆、神が今日、目を留めてくださって、導かれてきた者たちです。そういうわたしたちを、主イエスが選別なさるはずがありません。誰かを重んじ、誰かを軽んじる、というようなことをなさるはずがありません。

 ただ、主イエスは、礼拝に集まってきたわたしたちの、心の向きどころをご覧になられるのです。わたしたちの心の向きどころがどこなのか。主イエスは、礼拝の中で、わたしたちにお尋ねなのです。

 ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

 やもめの献金。どこか健気なやもめの姿を想像いたします。主イエスも、このやもめが「だれよりもたくさん入れた」と言われます。

 レプトン銅貨二枚。高く見積もっても百円くらい。もしかしたら、十円、五十円という単位かも知れない。パンかおにぎり一個の値段。うっかりしたら会計係が数え忘れて、ほったらかしにされてしまうかもしれないような金額。

 どうして、こんな額の献金をしたのでしょう。もちろん、それしか持っていなかったのです。少なくとも、このときには、それしか持っていなかった。だから、わたしは、この物語を読むと、いつも同じ想像をするのです。この人は、レプトン銅貨二枚だけが入った財布を持ってきて、賽銭箱の前でその財布をひっくり返して、財布の中身全部を賽銭箱に投げ入れたのではないか。少し乱暴な想像です。この場面を描く絵画やイラストでは、そんな乱暴な女性が描かれることはありません。むしろ、か弱い女性が、そっと隠れるように献金を済ませて、そそくさと去って行こうとする、そんな想像をする人のほうが多いかもしれません。大切なことは、このやもめの女は、レプトン銅貨二枚を献金して、主イエスにほめてもらおうなどと、微塵にも考えていなかったと言うことです。ただ、現にそれしか持ち合わせが無くて、その持ち合わせの全部を献金としてささげた。その様子を主イエスに目撃された。だから、この女の献金をささげる心がどうだったのか、本当は分かりません。でも、主イエスは、その、持ち合わせの全部を献金としてささげた、その態度を見て、その女の態度を弟子たちに示して、「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れた」と、そうおっしゃられた。

 わたしは、もっと想像を逞しくして言いますが、このやもめの女は、主イエスが自分のことをそんな風に言われたということを聞いたら、困った顔をしたかもしれないと思います。本当は、家に帰れば、もう少し蓄えがあって、今夜の食事代も取ってある。そんな家庭の主婦だったかもしれない。でも、たとえそうであったとしても、わたしは、主イエスのおっしゃられたことの価値が無くなるわけではないと思います。主イエスがおっしゃられたのは、このやもめの女をほめるためではないのです。そうではなくて、主イエスは、わたしたちの本当に豊かになる道を、思い起こさせようとしてくださっている。「あなたの生活費=生活の全部を、神に預けなさい。そうすれば、そこに無限の神の豊かさが広がる道、神の国に生きる道が、拓けている。わたしイエスがその道をもう拓いているのだよ」と、わたしたちを誘ってくださっているのではないでしょうか。

 神殿の見事な石、奉納物。それは、金持ちたちが有り余る中から献金した結果です。それに価値がないとは言いませんが、それはいずれ朽ちて崩れていくものです。主がお教えくださったのは、そのようなものを求める道ではない。わたしたちの生活の全部、人生の全部を神にお預けしたときに拓かれていく、神の国に至る道。主イエスの道。神の恵みの豊かさを分かち合う道。金持ちであろうと貧しい者であろうと、主イエスによってお拓きいただいている道です。ただ、主がかつて「財産のある者が神の国にはいるのは、何と難しいことか」(ルカ18:24)とおっしゃられたことを心に留めたいのです。確かに、多く与えられている者ほど、すべてを神にお預けする生き方は難しい。それでも、主は、「不可能だ」とはおっしゃいません。「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ18:27)のです。

 そう、神にはできるのです。神は、わたしたちをここにお集めになることがおできになる。一人ひとりを導いて教会へと連ならせることが、おできになる。ずいぶん身勝手なわたしたちを、一つに集めて一つの礼拝を守らせることが、神にはおできになる。わたしたちが、もう少し抵抗する心を取り払っていただくことができるならば、わたしたちは皆、財産のある者も、そうでない者も、それぞれの生活の中で、自分の生活のすべて、人生のすべてを、神にお預けする道、神の国に至る主イエスの道に、歩ませていただくことができるでしょう。

 そう、だから、主イエスは、わたしたちの礼拝の中で、わたしたちに、そっと、おっしゃられるかも知れません。

 「確かに言っておくが、あなたは、今日、だれよりもたくさん入れた。あなたは、自分の生活の全部を、今日、神に預けたからである。」


祈り
主よ。あなたは何でもおできになります。ここにお導きいただきました私どもを、本当にあなたの豊かさのうちにすべて預ける者とならせてください。アーメン