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主日礼拝説教「今日も あなたを 救いたい!」 日本基督教団藤沢教会 2011年2月13日 十戒(20章1〜22節) 今日の福音書の物語。安息日の主イエスを巡る出来事です。 安息日。ユダヤ人の社会では、週の終わりの日、七日目の土曜日にあたります。正確には、ユダヤ人の習慣では日の入りから日の入りまでを一日としたそうですから、金曜日の夕方から土曜日の夕方までが、安息日でした。「安息」と訳されているとおり、その日は仕事を休むのです。休まなければいけない。今日朗読を聞いた旧約聖書・出エジプト記20章に伝えられていました。神がモーセを通してお与えくださった律法の中心、十戒の第四で、安息日を守ることが命じられていたのです。 安息日を心に留め、これを聖別せよ。…七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。… 安息日には、仕事を休む。仕事を休む日だから、「安息日」です。では、どんなことが仕事に当たるのか。給料をもらって働くことでしょうか。無給の奉仕は、仕事に当たらないのでしょうか。家事や育児はどうでしょうか。最近は男性が堂々と「専業主夫」を名乗るような時代です。いわゆる「主婦業」も見直されるようになりました。だからというわけではありませんが、家事や育児なども立派な仕事だと思います。そういう仕事は、「安息日」に休むべき仕事に当たるのでしょうか。 ユダヤ人の社会では、それらの仕事も、安息日に休むべき仕事に数えられたようです。食事は、前日のうちに準備しました。さすがに育児は休むわけにはいきません。子どもが成長すれば、「お母さん休業」を宣言してもよいでしょうが、赤ん坊や幼子が相手では、休む暇はありません。週に一日どころか、一日の内に一時間だって、休んでいられないという時期があります。過ぎてしまえば懐かしい思い出ですが、そういう時期の乳幼児を抱えた親、特に母親が、ときに深刻な鬱状態になるというのも、分かる気がします。わたしも父親として相応に育児を引き受けたつもりでしたが、どう考えても母親のように休み無く向き合っていたわけではありません。少しばかり慢性的な寝不足になっただけです。いずれにしても、育児は、一つの仕事には違いないかも知れませんが、たとえ安息日といえども休むわけにはいかないことのある仕事であった。命に関わる仕事だからです。休んでしまっては、命に関わる。ただお腹がすくという程度のことではなくて、本当に命に関わる。そういう仕事は、たとえ安息日の定めがあっても、休むわけにはいかない仕事であったでしょう。 矛盾するようですけれども、安息日に仕事を休まなければいけないという定めそのものが、本来、命に関わることのようです。安息日を定めた十戒を伝える出エジプト記には、十戒に続いて神がモーセに与えた諸々の律法や掟が記されています。その中に、安息日の定めを補足するこういう御言葉があります。 あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。(出23:12) 安息日は、元気を回復するための日。毎日働き詰めに働かないといけない人が、休みを得て、その子や家族、寄留者も元気を回復するための日。 主イエスの安息日の行動が、どの福音書にも伝えられています。特に、ルカ福音書には繰り返し、安息日の主イエスの行動が伝えられている。あらためてその物語を繰ってみると、主イエスが安息日に取られた行動は、まさに「元気を回復するため」の行動です。 安息日に、主イエスは、弟子たちと麦畑を通って行かれました。礼拝のために会堂に向かわれていたのでしょうか。それとも、礼拝を終えて、会堂から帰る道すがら、麦畑を通られたのでしょうか。一行は、食事の前だったのかもしれません。あるいは、その日は、食事の当てがなかったのかも知れません。主イエスと弟子たちは、お腹がすいていたのでしょう。麦畑を通っていくときに、刈り取りの後に残されていた麦の穂を摘んで、手でもんで食べたのです。大人たちです。こんなものでお腹が満たされたとは思えません。でも、この様子、何かとても楽しそうではないでしょうか。主イエスと弟子たちが、わずかな麦の穂を摘みながら、手でもんで食べながら、和気あいあいと本当に親しい交わりを楽しんでいる。そんな様子を想像させられます。 別の安息日に、主イエスは、会堂で礼拝にあずかっていらっしゃいました。いつものように、そこで教えを語っていらっしゃいました。そこに、一人の右手が萎えた人がいた。手の力が入らないのです。体の力が入らないのです。元気がない。どうしてでしょうか。手の病気だったのでしょうか。それとも、一週の仕事に疲れ果てて、会堂に来たのはよいけれども、皆と一緒に礼拝をする元気もなく、隅っこでうなだれて、小さくなっていたのでしょうか。教会にも、ときに、皆と一緒に立ったり歌ったりする気力が湧いてこないのか、会堂の隅っこや別室で、あるいは独り自宅で、ひっそりと過ごしている人がいたりします。安息日の会堂に、まったく元気のない、手の力が入らない人がいた。この人を、主イエスはお呼びになられて、真ん中に立たせて、そして、元気を回復させてくださった。 「手を伸ばしてごらん。手を伸ばして、わたしの伸ばした手に触れてごらん。手を伸ばして、わたしとつながる命、他の人とつながる命を、確かめてごらん。そう、手を伸ばして、天を仰いで、一緒に神を賛美しよう。手を伸ばして、一緒に神の恵みを受けとめよう。」 安息日に、主イエスは、ご自分に触れる人の元気を回復させてくださる。安息日に、主イエスは、ご自分と共にある人を立たせて、命を回復させてくださる。そんな安息日の主イエスのお姿を、わたしは、御言葉から想像いたします。 「立って、真ん中に出なさい」 安息日。キリスト教会の伝統では、いつの頃からか、土曜日にあたる安息日を守ることよりも、日曜日の礼拝を守ることのほうが、大切にされるようになりました。日曜日は、皆さんご存じだと思いますが、主イエスが、金曜日に十字架で死なれてから三日目、復活なさった日です。主の復活の記念日ということで、キリスト教会の最初の時代から、日曜日を「主の日」と呼んで、共に礼拝にあずかる習慣が定着しました。もちろん、今でも安息日に当たる土曜日の礼拝を大切にしている伝統の教会は少なくありません。カトリック教会でも、東方正教会でも、土曜日に行う礼拝の習慣がきちんと残っています。プロテスタント教会の中にも、土曜日を安息日として守る教会があります。けれども、そういう教会であっても、日曜日の「主日」を守ることのほうが中心になりました。 そういうことであれば、わたしたちにとっての安息日は、日曜日のことだと言ってもよいのでしょう。何も日曜日が決まった休日だからということではない。安息日を日曜日に変更しました、ということでもない。日曜日に、「主の日」に、わたしたちは、主イエスに招かれて、教会堂に導かれ、礼拝に加えられているのです。自分の意志で来ているつもりかもしれないけれども、本当は、わたしたちは皆、一人残らず、日曜日に復活なさった主イエスに招かれて、ここに来ている。 月曜日から土曜日までの歩み。わたしたちは、元気はつらつ過ごしたかも知れないし、疲れを覚え、弱りを覚えて、ようやく一週を終えたかも知れない。 皆さんの中には、毎日、主イエスが共にいてくださることを強く覚えながら過ごした人がいらっしゃるでしょう。そういうあなたを、主イエスは、まっすぐにここ教会まで、日曜日の礼拝まで、導いてきてくださった。「ここに立ちなさい。教会の群れの真ん中にしっかりと立ちなさい」と、招いてくださった。 皆さんの中には、毎日の生活の中では、主イエスが共にいてくださることも、神が恵みを与えくださることも、少しも感じることができずに過ごしてきた方があるでしょう。そういうあなたに、主イエスは、この日曜日、目を留めてくださって、「立って、出てきなさい」と呼び出してくださった。「教会の群れの真ん中まで出てきなさい」と、そっと御手を伸ばして、手を取って、導いてくださった。 だから、わたしたちは皆、一人残らず、今、ここに来ている。主イエスに招かれて、導かれて、手を取っていただいて、共にいるようにしていただいて、ここに来ている。礼拝にあずかっている。聖餐で、キリストの御体と御血にまであずかろうとしている。世の中の人から見たら、ずいぶん変わり者の集まりです。一歩引いて自分を見つめたら、何かおかしく思うかも知れない。それでも、わたしたちは、主イエスがお招きくださったから、神がこのように導いてくださったから、今ここにいます。ここに集って、礼拝にあずかっています。 そう、安息日の主イエスがここにおいでなのです。「手を伸ばしてごらん」。安息日の主イエスが、わたしたち一人一人に、そうお告げなのです。「手を伸ばしてごらん」。手を伸ばして、主の手に触れ、主の群れの人々に触れ、共に天を仰いで神を賛美し、あふれんばかりの神の恵みを受けとめさせていただきましょう。 祈り 主よ。ここで、私どもに元気、命を、回復させてくださいます。手を伸ばします。主に触れさせてください。神を賛美し、恵みを受け取らせてください。アーメン |