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主日礼拝説教「よろしい、清くなれ」

日本基督教団藤沢教会 2011年2月27日

 1またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。2主はサタンに言われた。
 「お前はどこから来た。」
 「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。
 3主はサタンに言われた。
 「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」
 4サタンは答えた。
 「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。5手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
 6主はサタンに言われた。
 「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」
 7
サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。8ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。
 9
彼の妻は、
 「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、
 10ヨブは答えた。
 お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
 このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。
                   (ヨブ記 2章1~10節)


重い皮膚病を患っている人をいやす
 12イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。13イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。14イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」15しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。16だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。


中風の人をいやす

 17ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。18すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。19しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。20イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。21ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」22イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。23『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。24人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。25その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。26人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。
            (ルカによる福音書 5章12~26節)

 昨日私は、神奈川教区総会で按手礼(牧師の任職)をいただくことをゆるされました。昨年9月に正教師のための試験を受けましたが、同時に受験した同期の先生方は、遣わされた地域で次々に按手礼を受けられました。神学生時代に私たちの教会で奉仕された齋藤真行先生(別府不老町教会)は、昨年11月に按手礼を受けられ、ご息女に幼児洗礼を授けられたというお話を伺いました。齋藤先生から遅れて3か月ですが、私もまた、<牧師>として聖壇に立つことをゆるされました。試験の合格をいただいてから按手礼までの間、神さまから「まだ」と言われているようでもありました。正教師試験の会場は大阪でしたが、試験が終わった日の晩、親しくさせていただいている先生が牧会される教会を訪ねて、祈祷会の席に加えていただきました。試験を終えて、まずはほっとしているという夜でしたが、按手礼を受けたら安心して前に進めるようになったといったことをお話くださいました。按手礼を受けるまでは、「いつ辞めようか・・・?」とそういうことばかり考えていらしたというのです。私には、その先生はそういった悩みとは無縁に見えていたので意外なお話でした。実は、同期の中でも試験準備が始まる春に会った時に、マジメな顔でこのようなことを言い出す友人がありました。「試験を受けるべきかどうか、迷っている。」すると、それを聞いた友人の一人がこのように言ったのです。「それはサタンの試みだから、大丈夫」と。サタンは、神の福音が広がることを阻もうとして、あなたに試みを働いているのだと言うのです。本人は、その一人の言葉を聞いて急にリラックスしたような表情になって、「そうなのかもしれないね」と言いました。今その友人は、すでに按手礼を受けて<牧師>として立てられています。

 私たちの意志で、あるいは私たちの努力で何かをするのではない、神がしてくださるからこそ、神がゆるしてくださるからこそ、私たちの今があります。神が私たちに近づき、手を差し伸べてくださるからこそ、私たちは神の御前に立つことができます。私たちは度々、この礼拝堂に集められる不思議を思わされます。私がではなく、神が招き、神が導いてくださるのだということを、同じく集められた人たちとの礼拝堂での出会いを通して深く知らされます。同時にまた、やはりこの私が、私たち一人ひとりが、神の招きに応えてここにいるということを確かめたいと思うのです。

 本日の福音書は、キリストの癒しをテーマとする2つの物語です。一つは、重い皮膚病の男性に注目した物語です。もう一つの物語は、中風の男性でありますが、その男性本人というよりは、男性を運び込む仲間たちが物語に大きな役割を果たしています。重い皮膚病の男性も、中風の患者を運ぶ男性たちも、主が近くに来てくださったことを知り、非常に大胆な仕方で自分たちの方から主の前に進み出ます。

 「重い皮膚病」(レプラ)とは、以前の聖書では、長い間「らい病」(ハンセン病)とされていました。最近の研究では、いろいろな症状をもつ重い皮膚病の総括的表現とされています。その患者は「汚れた者」とされ、その「汚れ」は「死者のよう」(民12:12)とも言われるほどでした。もっとも「死者」が汚れているということもまた、私たちには馴染みが薄い律法の一つかもしれません。日本の古くからの宗教的感覚を考えてみましても、そのようなことはあったようです。神前に出ることや、勤めにつくことをはばかる出来事として、死の汚れ「死穢(シエ)」や、「産穢(サンエ)」と言われる、出産のときに産児の父母の身にこうむると言われている汚れ(江戸時代の制では、父親は7日間、母親は35日間慎まねばならない、触れてはいけない→触穢)というのがあったそうです。レビ記の12章にも「出産についての規定」がありますが、やはり大量に出血する産婦は、出血の汚れが清まるのに必要な一~二月(レビ12:4,5)の間、家に留まらねばならない、とされています。出産をめぐる汚れは、家族にとって避けることのできないものです。「死体」の汚れもまた、近親者の遺体に触れない人はいませんから、この「汚れ」と疎遠な人はありません。同じく「汚れ」として身を慎むよう定められている、男女の身体に起こる変化の期間のこともまた、特別に忌み嫌われることではなく身近なことです。けれども、「重い皮膚病」の汚れは、その感染が恐れられたために、患者たちは、人々から離れた場所に隔離されて住むことを強いられました。伝染病患者が完治するまで隔離されることは、私たちの間でも必要なこととして行われていることです。被害を最小限に抑えるためにです。けれども次第にそれが社会的な差別や懲らしめに結びついてしまい、時代が降るほどに、重い皮膚病が「神の罰」と結び付けられるようになっていったと言います。身体的にも、社会的にも大きな苦痛を引き受けねばなりませんでした。

 主イエスの前に進み出た男性は、全身が重い皮膚病でした。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」顔を地面にこすり付けて、主イエスに懇願するのです。主は目の前にひれ伏すこの男性にすぐに手を差し伸べて、触れ「よろしい、清くなれ」とお応えになりました。「御心ならば」という言葉は、「あなたがお望みであれば」(テレース)と言う意味合いです。「わたしは望む」(テロー)「清くなれ」と宣言されます。「よろしい」と、主はその祈りに共感し、うなずかれると、たちまち男性の重い皮膚病は去りました。主イエスはさらに、律法に従って、祭司に体を見せ、清めの献げものをして、周囲の人々に証明しなさい、と言われます。この病の問題が、身体的なことに留まらない、社会的な病であり、その人が復帰して、共同体の中で生きていけるようにです。主は、私たちがただ癒されることだけでなく、一人の人格として、人格的な交わりの中で、生きることに導かれます。私たちが望む「生きる喜び」以上の、「共に生きる喜び」を望んでいてくださるのです。

 本日は、もう一つの物語を聞いています。中風の患者を、その仲間たちが担いでいき、主イエスの下に近づこうとしています。主イエスのいらっしゃる家についたところで、群衆に阻まれてしまうのですがその屋根を剥がして床ごとを吊り降ろしてまで、その中風に苦しむ仲間を主イエスの前に連れて行きます。「中風」という病は、脳出血による半身不随や麻痺状態と言われています。「床ごと」とあるように、身動きが取れない、はっきりと言葉が発せられない状態にあったのでしょう。この男性を運び込み、家の中が騒然となっていたところで、患者を担いできた仲間たちの信仰を見て、主イエスは「人よ、あなたの罪は赦された」と言われます。そこで、この男性に何か変化したといった様子は記されていません。

 ただ、黙って見ていた人々の心の反応が前面に出てきます。「神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(21節)と心の中でつぶやきます。主は、彼らの心を見抜いて言われました。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか?」(23節)と問われます。「罪の赦し」か? 「病の癒し」か? こう2つに並べられると、やはり「罪の赦し」こそが重大な問題に違いないと思います。罪を赦す権限は神にのみあり、神の領域に人間は立ち入ることができないからです。この神の領域の線引きをはっきりと持っていた人たちが、ファリサイ派や律法の教師と呼ばれるユダヤ教の指導者たちです。私自身も、最初にこの聖書の物語を聞いてから、主イエスのこの問いの答えを盲目的に言い聞かせておりました。それは神様の領域に人間が踏み込むことができないのだから「罪の赦し」の方が重大であり、「病の癒し」は容易とは言わないまでも、「罪の赦し」と比べることではないのではないか、と思えていました。

 先週水曜日の聖書研究祈祷会で本日の箇所を読み、参加された皆さんで黙想したときに、やはり私はこの23~24節の主イエスの問いがひっかかっており、皆さんはどのように受け取られるか伺いたいと思いました。その中でおもしろいことをおっしゃった方がありました。「罪の赦し」は目に見えない出来事であるので「あなたの罪は赦された」と言われても変化が見えない、つまり、「あなたの罪は赦された」と言うことは証明できないので(証明しなくてよいので)見た目には、より易しい。一方、「病の癒し」は目に見える出来事であるので、「起きて歩け」と言って、本当に起きて歩き始めなければならないので、こちらの方が信じがたいことかもしれない、というようなお話をしてくださいました。確かに、「罪の赦し」こそが、神の領域ですが、けれども「病の癒し」の方が、よりランクは下だと言ってみたところで、私たちには手放しでそれができないのです。私たちは、病に苦しむ人を救う力を持っておりません。どちらも易しくはないのです。

 主の癒しのみ業を、ユダヤ教の指導者たち人々は見ているしかありませんでした。主イエスの教えを聞き、その御業を見ることを望んで、「ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来た」(17節)とあるように、評判の主を目の前にして、喜んで目を輝かせていた者もあれば、主イエスのカリスマに嫉妬心に駆られる者もあったでしょう。彼らは、主の御業をじっと見つめていたのですが、一人の中風患者を前に「人よ、あなたの罪は赦された」という言葉を聞くと、反射的に激しい憎悪をおぼえました。「神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(21節)  主はそのつぶやきと、彼らの抱いている思いの矛盾点を指摘されます。「病」が治してくれるのは結構だが、「罪」まで赦されるとは聞き捨てならない、と。

 「罪の赦し」を形骸化して、あるいは、まるで「罪の赦し」が自分たちの生活に直接響いてこないものとして、内面的な生活と外的な生活を区別するかのようにして、「罪の赦し」を考えてしまう・・・そういう面が私たちにはないと言えるでしょうか? 

 ある先生が、留学先のドイツの家庭で食卓に着いたとき、その家の子どもが食前の祈りをしたそうです。「主よ、わたしたちに必要な二つのものを与えてください。すなわち、罪の赦しと日毎の糧を」。伝統的な食前祈祷だと言います。身体的に空腹をおぼえるのと同様に、私たちは罪の責めを負い、それが赦されることを希う、それがなければ、今日一日生きることができないものとして、神の赦しを願い求める祈りです。身体的なことと精神的なこと、霊的なこと、私たちは、そのすべてが揃って「わたし」であり、すべてが満たされなければ、どこかで叫び声をあげます。私たちの信仰の言葉は、霊的な言葉ですが、しかし、身体的なこと、物理的なことを抜きにした言葉ではありません。主は、病に深く関わられました。病には患者やその家族の身になってみなければわからない、と私たちは思っておりますが、しかし、主イエスは、タブーとされている病に御自ら近づき、直接触れられました。皆の前ではっきりと宣言されました。見て見ぬふりせずに、外からではなく、病の現実の内側に深く入って行かれたのです。聖書では、病はむしろ神に近づくため神からの賜物です。あるいはそれによって主の栄光を現す賜物です。それが与えられるからこそ、主に大胆に近づくことができます。そして主が深く触れてくださるのです。私たちは、どのような病を負っているでしょうか? 私たちは健康でしょうか? 病の床にある人も、そうでない人も、どの人も皆、罪の重荷を負っています。赦されること、愛されることを待ち焦がれています。主のまなざしは、そのような私たちの心の根深い問題を、まっすぐに見つめられ、本当に必要ないのちへと回復させてくださるのです。私たちを主のものとして、主の聖められたものとして、新しく歩むことを得させてくださるのです。