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主日礼拝説教「このテストでは落としません」 日本基督教団藤沢教会 2011年3月13日 唯一の主(6章1〜15節) 一昨日(3月11日)、わたしたちは皆、この地で、あるいはそれぞれの出がけ先で、あの大地震の不気味な揺れの中にいました。何年か前の新潟中越地震のときと同じような、ゆっくりした横揺れから始まりましたから、少し離れた地域で大きな地震が起こっているであろうことは、皆さんもすぐに想像なさったでしょう。けれども、ただの横揺れにしては、大きかった。わたしは、そのとき、東京の神学校で卒業式に参列しておりました。ちょうど学長が告辞を述べられているときでしたが、礼拝堂いっぱいの参列者の中には、横揺れが大きく長く続くことに驚いて、慌てて外に飛び出していく人たちもいました。わたしも、荷物を手にとって身構えていました。学長の告辞、そして、続く式典が、繰り返される揺れで度々中断しながら最後まで進められる中、わたしだけではない、そこにいた多くの人たちは、恐らく気もそぞろ、壇上から語られる言葉を心に刻む余裕もなく、そのときを過ごしていたと思います。皆さんも、それぞれの場所で、同様のときを過ごされたのではないでしょうか。 そうであっても、わたしたちは、今日、その大きな地震は過去のことであったかのように、平常どおりの生活の中で、日曜日を迎え、教会に集い、礼拝にあずかっています。当たり前のように、ここにいます。けれども、あの同じ揺れの中に置かれていた多くの地域の人たちが、今日は、たとえ願っても教会に集うことができない日曜日を迎えているのに違いありません。教会堂を失ったところ、教会の群れに連なる人々を失ったところ。まだ、断片的な知らせしか入ってきません。けれども、そのことに思いを深く致さないわけにはいかないのです。 わたしたちは、この国や世界の各地で大地震が起こるたびに、その被害の大きさに言葉を失ってきました。たとえ、自分の身内や知人が被災していなくても、わたしたちは、その現実に、深く悲しみをおぼえ、心のうちに嘆き入らずにはおれずに、過ごしてきました。今また、わたしたちは、そのような現実の中に置かれている。わたしたちのすぐ近くで起こっている大きな災害に接して、悲しみ、嘆きを深くしないではいられずにいます。 いいえ、こういうときでさえ、わたしたちは、電車が不通になったり遅れたりすることに不平を言い、店頭からおにぎりやパンが無くなっていることのほうが気になったりする者であるかも知れません。それでも、テレビをつけ、新聞を開けば、わたしたちのすぐ近くで起こっている現実に、わたしたちは心乱さないわけにはいかない。そして、「どうして、こんなことが?」と思わずにはいられません。「これも神の御心なのか?」と問わずにはいられません。 わたしは、いつも、このような現実を突きつけられるとき、自分が試されているような思いになります。「お前は、この現実を見て、どう思うのか。」「お前の信じる神は、この現実を、どうしてお許しになっているのか。」「お前は、今、この現実の中で、どうするのか。」 わたしは、確かに、16年前の阪神淡路大震災の現実を突きつけられて、伝道者として献身する道に押し出された者です。あの現実によって、わたしは、自分が試されたと、そう思いました。そして、地震に限りませんが、さまざまな心乱される現実を突きつけられるたびに、自分が試されていると思わされてきました。だから、祈らずにいられない中で、思わされるのです。「自分たち、生きている者は、今こそ、行動しなければいけないのではないか。」そう、「パンを、助ける力を、命を、あの人たちのために」と。 けれども、同時に思うのです。「あの、被災した人たち、命を落とし、家族を失い、すべてを失った人たちもまた、今、試されているというのか?」。 神は、わたしたちに試練をお与えになる方でありましょう。わたしたちが本当の命に至るために、神は、わたしたちに試練をお与えになられる。でも、神は、意地の悪い試験官のように、わたしたちが応えられないような難しいテストを用意して、わたしたちを試されるのでしょうか。落胆して、力を落として、うなだれるしかないような仕方で、神はわたしたちを試されるのでしょうか。 わたしは、断じて申し上げますが、神は、そのようなお方ではありません。神は、わたしたちを失意のどん底に陥れるようなテストを出して、試されるようなお方ではありません。断じて、そうではない。わたしたちを試そうとするのは、神ではなく、悪魔なのです。悪魔が、わたしたちを誘惑して、試そうとする者です。主イエスが荒れ野で悪魔から誘惑を受けられたように、わたしたちは、悪魔から誘惑を受けて、試される。そのことから逃れることはできない。主イエスと結ばれる洗礼を受けた者は、一層のこと、そのことから逃れることはできません。 しかし、そうだとすると、あの甚大な被害をもたらしたのは、悪魔の仕業なのでしょうか。悪魔の仕業を、神は止められることがなかったというのでしょうか。 試されていた! わたしたちは、本当のところ、神の御心がどこにあるのか、正確に知ることはできません。ほとんど誤解してばかりだと言った方がよいかも知れません。大きな地震が起こることも、言葉を失うほどの大きな被害が生じることも、そこに、どんな神の御心があるのか、わたしたちには分からない。 そうであっても、わたしは、皆さんに申し上げたい。今、この大変な災害の中、命を失い、家族を失い、すべてを失った人たちの中にいるのは、悪魔ではなく、神です。今、あの人たちと共にいるのは、悪魔ではなく、主イエス・キリストです。あの人たちにも、悪魔が近づいてきていたときがあったかもしれません。わたしたちのところに悪魔が近づいてきて、わたしたちを誘惑し、試すように、あの被災者の人たちのところにも、かつて悪魔が近づいてきて、誘惑し、試すことがあったことでしょう。けれども、今、あの人たちのところに、悪魔はもう近づけない。神がいらっしゃるからです。主イエスが共にいてくださるからです。 わたしは、思います。わたしたちは、本当は、順調なときにこそ、悪魔の誘惑にさらされているのでしょう。健康が与えられ、家が与えられ、家族が与えられ、信仰生活が与えられ、教会生活が与えられ、何もかも満たされているときにこそ、悪魔は巧妙にわたしたちのことを誘惑し、試そうとする。 わたしたちは、今まで、試されていたのではないでしょうか。わたしたちは、自分たちに知恵と資力があると思っていて、教会でも、地震は必ず来るだろうからと「地域防災」の取り組みを積み重ねていて、会堂の耐震補強工事もして、何でも自分たちの力でしてきました。一所懸命取り組んできました。けれども、わたしは恐れるのです。そのような取り組みを、自力で為しているときにこそ、本当は、悪魔の巧妙な誘惑に乗せられ、試されていたのではないか、と。 主イエスは苦しみの中に 主イエスは、荒れ野で悪魔の誘惑を受けられ、そして、その誘惑を振り切られました。でも、その先に進み行かれたのは、十字架に至る道、ご自分の力を失っていかれる道です。無力な姿をさらして、苦しみを受けられ、悲しみと嘆きを訴える。そのような者として十字架につけられていったのが、主イエスです。 大地震と大津波で、命を失い、家族を失い、すべてを失った被災者の人たちは、そのときも、今も、自分の力では何かを為し得ることなどほとんどない、まったく無力な状態に置かれていた。けれども、わたしたちだって、大きく大地が揺れ動くとき、何も為し得なかったのです。何も為し得ない無力な者であったのです。だからこそ、わたしは思うのです。わたしたち、このように平常の生活をまだ保たれている者には、被災した人たちのために為しうることがたくさんあるでしょう。「あの人たちのために、パンを、助ける力を、命を」と行動することができるでしょう。でも、その行動を起こす前に、いや起こしてからも、わたしたちは、何よりもあの人たちと共に、もう一度、自分たちがいかに無力な、自分の力では本当は何も為し得ないものであることを、心に刻みたいのです。なぜなら、そのような、無力な、何も為し得ない者のところにこそ、何も為し得ないまま、ただ悲しみ、嘆きに暮れ、苦しむしかない者のところにこそ、主イエス・キリストは、共にいてくださるのです。「何かを為し得る」と自分を信じるときには、悪魔が近づいてきます。「何も為し得ない」ことを悲しみ、嘆き、痛み苦しみにもだえるしかないところには、必ず、主イエスが共にいてくださる。十字架へと至る道を進まれて、悲しみ、嘆き、痛み、苦しみを深められた主イエスが、悲しみ、嘆き、痛み、苦しむわたしたちの近くに、いてくださるのです。 わたしたちは、今、この大変な現実の中に置かれているすべての人たちと共にいる者でありたいのです。だからこそ、わたしたちは今、何よりもまず、主イエスが共にいてくださることを深く心と体に刻む者でありたいと思います。何かを為す前に、まず、何も為し得ない者として、深く悲しみと嘆きと、痛みと苦しみとを、今自分に与えられたものとして、受けとめたいと思います。そこに、主は必ず共にいてくださるでしょう。主が共にいてくださるならば、わたしたちは、すべての人と共にいる者となる道を拓かれるのです。 祈り 主よ。わたしは悲しみ、嘆きます。苦しいのです。主よ、共にいてください。わたしどもがすべての人と共にいることができるようにしてください。アーメン |