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主日礼拝説教「あなたの家に迎えてください」

日本基督教団藤沢教会 2011年3月20日  

洪水(6章1〜22節)
 11この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。12神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。13神はノアに言われた。
 「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。
 14あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。
 15次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマにし、16箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。
 17見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。
 18わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。19また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。20それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。21更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」
 22ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。
                 (創世記 6章11〜22節)


ベルゼブル論争 (11章14-23節)
 14イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。15しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、16イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。17しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。18あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。19わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。20しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。21強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。22しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。23わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」

汚れた霊が戻ってくる (11章24-26節)
 24「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。25そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。26そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
           (ルカによる福音書 11章14〜26節)



「あなたと共に生き延びるようにしなさい」

 大震災から十日目。何千人という亡くなられた方々。一万人を越える行方不明の方々。何十万という被災した方々。自ら被災しながら救援活動に従事している多くの人たち。連日報道される被災地の状況に、わたしたちは、涙を溜め、言葉を失うばかりです。なお続いている余震は、被災地からは離れたこの地にあっても、なお、あの大震災の出来事の中にわたしたち引き戻します。大地が大きく揺れたのです。海が大きく溢れ出したのです。それは、決して他人事ではない、もしかすると、いつか、わたしたち自身が被るかも知れない現実なのです。

 被災地の現実を前にして、わたしたちは、今は、ただ呆然と立ちつくしている状態かも知れません。まだ、何を為すべきか、何をできるのか、頭が混乱しているのです。けれども、わたしは思います。ある意味で、わたしたちは、すでに、この震災の現実に対してどう行動すべきか、神によって指し示されている。

 三年間、わたしたちと共に伝道師として歩んでくださった上竹牧師が、残り十日を待たずに、かの被災地の中にある教会に遣わされます。わたしたちの教会から派遣する、送り出すのです。もちろん、上竹牧師の転任地が与えられたとき、このような大震災が起こることなど、だれも想像していませんでした。むしろ、わたしたちは、上竹牧師がご両親のいらっしゃる福島県内の教会に転任されることを知って、ある意味で安心して送り出すことができるとさえ思っていました。それが、この期に及んで、わたしたちは、まったく認識を変えなければならなくなりました。本当に、被災地の中の教会に送り出してよいのだろうか。教会は受け入れてくださるのだろうか。それは、ただ上竹牧師が困難な道に導かれていて、それに耐えられるかどうか、というだけのことではありません。わたしたちもまた、上竹牧師の転任を通して、この大震災の現実の中に関わるように、その被災地の現実の中に足を踏み入れるようにと、神にこのときを導かれているのでしょう。隣人のために生きることに遅く、他者のために命差し出すことから遠い者に、今、神が間違いなく、一つの道をお示しくださっている。キリストの道を、はっきりと思い出させてくださっている。わたしは、そう考えずにはいられません。

 今日の聖書日課、旧約聖書の御言葉は創世記6章から。ノアの洪水の物語の冒頭です。人間の悪が地上に満ちて、神が人間を造られたことを後悔されて、造られたすべての生き物を、一度洪水のもとに滅ぼしてしまわれる、ただノアとその家族と、また共に箱舟に乗った動物たちだけを除いて。そういう物語の冒頭です。

 あらかじめ今日のために定められていた聖書の御言葉です。けれども、どうして、この災害のただ中で聞かなければいけないのかとも思います。しかも、この物語をよくご存じの皆さんであれば、この物語の結末部分で語られる神の言葉を思い起こされるかも知れない。神は、洪水が引いて、ノアたちが箱舟から地上に降り立ったとき、お語りになられたというのです。「このようなことは、二度とすまい」(創8:21より)。神は、そう約束くださったのではなかったでしょうか。

 わたしたち災害を逃れた者が、あるいは死を免れた者が、「われわれは、どうにか箱舟に乗ることができたが、乗ることのできなかった人たちがいた」などと考えるならば、それは、恐ろしいことです。恐ろしくも、悲しいことです。

 わたしは、むしろ、この物語を、こう聞かなければいけないと思います。

 神は、今、震災後の今こそ、今日の箇所でノアに告げられた御言葉を、わたしたちにお告げくださっているのです。「あなたたちは、今こそ、ノアと同じように、家族そろって、箱舟に入りなさい。その箱舟に、すべての命ある者を、そのパートナーと共に、その家族と共に、迎え入れなさい。そして、すべての者と共に、今のこのときを生き延びなさい。生きるようになりなさい。」


《神の指》が触れてくる

 被災地の中にある被災者の避難所、また病院の、大変な状況が、テレビや新聞で報じられたからでしょうか。被災しなかった全国の自治体や病院が、今、被災者や入院患者を、自分たちの地域に迎え入れて、受け入れるということが始まっているようです。あるいは、もっとささやかな活動ですが、NPO組織が、被災者を数ヶ月の期間、ホームステイさせてくれる家庭を募集しているという記事がありました。もともと縁のない人たち、赤の他人であろう人たちを、今、この震災の現実の中で、自分たちの場所に迎え入れよう、自分たちの家に迎え入れようという動きが、起こっているのです。まったく宗教的な背景などない人たちの中で広がっているこのことは、単なる善意ということで語り尽くせない、不思議な大きな何かがあるように思われてなりません。

 わたしたちには、本当に、今まで、関わるべきなのに関わらないで済ませてきた関係というものが、数え切れないほどありました。「自分」とか「自分たち」という、本当に狭い範囲の「屋敷」というか「なわばり・テリトリー」というか、そういうものを必死で守ることばかりに一所懸命で、その枠の外にいる人たちのことは、無意識のうちに見ないようにしたり、突っぱねるようなことをしてきたのです。教会でさえ、そうだった。日曜日の玄関はドアが開放してある。けれども、教会の中にいるわたしたちが、外の人を迎え入れる心の入口を大きく開いていたか。招き入れることを、熱心に、真剣に考えてきたかというと疑わしい。どこかお座なりで、自己満足に終わっていたところがあった。そういう生き方を、わたしたちは、当たり前のように、この社会の中で送ってきたのです。

 この大震災で、多くの人たちが、家を壊され、町を壊され、命を奪われました。その人たちの悲しみ、嘆き、苦しみを思うとき、わたしは、おかしなたとえを口にしてはいけないと思いますが、今ご一緒に聖書の御言葉、キリストのお語りくださった御言葉を聞いている皆さんには分かっていただけると思って、あえて、こういうことを申し上げたいのです。

 今、この災害の現実の中で、わたしたちは、家を壊されたり、町を壊されたり、命を奪われたりはしていません。けれども、わたしは、実は、もっと別の、わたしたちが後生大事にしてきたものを、壊されているのです。わたしたちの心の中にある壁が、激しく揺さぶられているのです。「自分」とは違う者をはねつけてきたバリアが、目の前で打ち壊されているのです。「自分たち」を守るために造り上げてきた重たい扉が、無理矢理にこじ開けられているのです。それを壊しているのは、神です。わたしたちの心の中で、打ち壊されるべきものを打ち壊しているのは、わたしたちの命の源、主なる神です。わたしたちの心の中に、今、無理矢理にも入っておいでになられるのは、わたしたちの主イエス・キリストです。

 わたしたちは、今まで、「自分」を守るために、必死になって心の中に「強い人」を雇い入れていたのかもしれません。ところが、今、「もっと強い人」=イエス・キリストが、わたしたちに襲いかかるような勢いで、おいでです。わたしたちが今まで頼みにしていた「強い人」を、打ち負かそう。わたしたちが今まで頼みにしていたあれもこれも、奪い取って、ご自分のもとにお集めになられて、そして、それをご自分のものとなさるのではなく、分配しよう。わたしたちが自分の手の中に抱え込んでいて、手放すまいと思っていたものを、主イエスは、今このとき、突然おいでになられて、わたしたちの手から取り上げようとなさっている。そして、取り上げられたものを、わたしたち以外の人に分け与えようとなさっている。そういうことを、わたしたちの中で起こそうとなさっている。

 主イエスは、無理矢理にでもわたしたちの中で、そういうことをなさるお方なのです。わたしたちの手の中にあるものを取り上げられて、他の人と分かち合えるようにしてくださる。それは、「神の指」の働きだと、主イエスはおっしゃられています。「神の指」の働きによって、「神の国」が実現することなのだと、そう主イエスはおっしゃられています。


今こそお迎えしよう!

 今回、大震災の被害状況が世界に伝えられるとすぐに、ローマ・カトリック教会の教皇ベネディクト16世がメッセージを発されたことが報道されていました。短い言葉でしたが、とても印象深い一節が含まれていました。「わたしは、被災者の人々と共にいます」。ローマ教皇だからこその語り方なのかとも思いましたが、世界中の人たちから、同じような言葉が寄せられていることに気づきました。

 「日本のために祈ろう」と呼びかける世界中の人たちが、異口同音に言うのです。「わたしたちは、日本と共にある。日本は孤立していない」。

 今、主イエスがわたしたちの中においでくださっているのならば、わたしたちも、同じように言うことができるでしょう。「被災地の皆さん、わたしたちは、あなたたちと共にいます」。この悲しみの深い中で、そういう中でこそ無理矢理にでもおいでくださる主イエスを、わたしたちは、拒んではいけません。お迎えしましょう。主は、わたしたちの内を、変えてくださいます。わたしたちの家を、変えてくださいます。わたしたちの知る最も困難な友を迎え入れる心に、最も弱っている友と共にいる者に、わたしたちは変えられるでしょう。それは、幸いな道です。神の国に生きる道です。主イエスと共に命を保って生きる道です。

祈り
主よ。わたしどもを主をお迎えする家に造りかえてください。とりわけ弱り困難の中にある人を迎え、分かち合うことのできる者とならせてください。アーメン