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受難節第3主日礼拝説教「あなたのために祈っています」 日本基督教団藤沢教会 2011年3月27日 執り成しと嘆き(63章7〜19節) 大震災の発生から二週間が過ぎました。いつの間にか、わたしたちの周囲の生活は、すでに落ち着きを取り戻しています。停電や品不足の不便があるにしても、わたしたちは、当たり前の日常に否応なく引き戻されているように思います。 けれども、大地震、大津波、そして原子力発電所の事故、この現実は、わたしたちの前から消えて無くなったわけではありません。多くの被災者の方々。たくさんの亡くなられた方々、安否が分からない方々。数え切れないほどの避難生活中の方々。そして、原発のことも含めて、この災害に対して救援活動、支援活動、捜索活動に取り組んでくださっている無数の方々。離れた土地で、平時の生活の中に戻ったわたしたちは、あの人たちと共にいることができるのでしょうか。あの人たちと共に歩む道を選び取っていくことができるのでしょうか。そんな勇気を、わたしたちは持つことができるのでしょうか。 わたしは、「できる」と信じています。自分に「できる」という自信があるわけではありません。「自分にできるか」と問われれば、わたしには自信がありません。かつてはあったかも知れませんが、そのような自分の持つ自信は、あの大震災によって吹き飛んでしまいました。むしろ、自分の中では、臆病の風が吹いている。けれども、それでも、わたしは、「できる」と信じています。日曜日に、教会に集められた皆さんのお姿を見て、わたしは、ますます確かに、「できる」と信じています。「神にはおできになる」、そう信じています。「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ18:27)。こうして教会の群れが一つに集められてくる姿を見れば、確かに信じることができる。そう信じています。 皆さんは、礼拝においでくださった。今日初めておいでの方もあるかも知れませんが、ほとんどの方は続けて礼拝においでくださっている皆さんです。礼拝を大切に守り続けてくださっている皆さんです。でも、もしかしたら、皆さんの中には、たとえば今日は、「今日が上竹牧師の最後の日曜日だから」と、お別れのために、送別会のために、おいでくださった方もあるのではないでしょうか。どんな動機で来てくださったって、わたしはよいと思います。その思いを与えてくださったのも、神なのですから。でも、そういう思いを持っていると、だんだん、「早く終わらないか」と時間が気になりだします。礼拝に集中できない。気が散る。他のことを考える。神に心を向けるよりも、他のことに心を用いてしまう。本当は、だれだって、礼拝の一時間半、ひたすら礼拝だけに集中しているとは言えないと思います。司式者や牧師だって、人のことを言えません。わたしは、礼拝中に、次のこと、その次のことと、いつも気になって仕方ない質なのです。礼拝の後の予定が、どうしても気になることがある。聖壇からは、正面に大きな壁掛け時計が見えるのです。午後の予定を考えて、わたしは聖壇の上の説教卓に隠れたところで、本当はソワソワしていることがあるのです。 けれども、たとえそうだとしても、わたしはなお、皆さんと共に、ここにいるようにされています。皆さんも、ここで、わたしと共にいるようにされている。神がそのようにしてくださっているからでしょう。主イエスが、御手を伸ばしてわたしたちの手を引いてくださって、ここまで導き入れてくださったからでしょう。わたしたち自身ではなくて、わたしたちを招き導き入れてくださった方が、わたしたち皆を、ここで、共にいるようにしてくださっているのでしょう。 主イエスが祈ってくださればこそ… 今日の福音書の物語の場面。有名な、ペトロが信仰告白をしたり、主イエスがご受難の予告をなさったりする場面です。 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。(18節) 主イエスがいらして、弟子たちが共にいる。ただそれだけの場面ではありません。主イエスはひとり祈っていらっしゃる。主イエスは、ただひとり、祈っていらっしゃる。祈っていらっしゃる主イエスの傍らに、弟子たちが共にいる。祈っていらっしゃる主イエスが、弟子たちを共にいるようになさっている。 わたしたちの献げている礼拝は、本当は、こういうことなのではないかと、わたしは思います。わたしたちが、熱心な祈りを献げたり、心からの讃美を歌ったりしているというよりは、主イエスが祈っていらっしゃる。主イエスこそが一人祈っていらっしゃって、そこに、わたしたちは招かれて共にいるようにされている。主イエスが、祈りによってわたしたちを覆い包むようにしてくださっている。 一人祈っておいでの主イエスの傍らに、弟子たちは共に置かれていました。福音書を順に読んでいくと、実にこういう場面が、何度も描かれています。主イエスが一人祈っておられて、その傍らに、弟子たちが共にいるようにされている。 弟子たちは、主イエスの祈りに覆われ、包まれ、共にいるようにされています。その弟子たちは、信仰を告白するのです。「主よ、あなたは神からのメシアです」。一番弟子ペトロの、模範解答です。主イエスの祈りに覆い包まれているからこそ、ペトロは、そう答えることができたのだと思います。 聖書をよくお読みの皆さんは、この出来事を同じように伝えるマタイ福音書では、このとき、ペトロは、主イエスからお褒めいただいたと伝えられていることをご存じでしょう。ペトロの本名はシモンです。主イエスは、シモンに言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタ16:17)。そして、主イエスは、シモンに「ペトロ」という名をお与えになって、「あなたの上にわたしの教会を建てる。…あなたに天国の鍵を授ける」(マタ18〜19)とまでおっしゃられた。ちょっと褒めすぎでしょう。わたしがペトロだったら、有頂天になって、天狗になるところです。もともと天狗なのに、ますます天狗になる。ペトロも、そうだったのではないでしょうか。だから、この後、主イエスがご自分の受難をお語りになられたときに、ペトロは、主イエスに向かって「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(マタ16:22)と諫めようとさえしました。そして、逆に、主イエスから「サタン、引き下がれ」と、厳しく叱責されてしまいました。 この、わたしたちがよく知っている逸話を、今日開いているルカ福音書は、どうして少しも伝えないのでしょう。それは、この福音書が、主イエスの祈りにこそ、わたしたちの目を向けさせようとしているからなのではないでしょうか。 わたしたちの行うことは、信仰のことにしろ、そうでないことにしろ、善かったり悪かったり、いろいろなのです。あるときには、主イエスにお褒めいただき、人からも認められるような、立派なこと、善きことを、行うことができるでしょう。けれども、そういうことの中で、わたしたちは天狗になり、サタンに惑わされて、主イエスから叱られなければならないようなこと、人から批判されなければならないことを、してしまう者でもあります。わたしたちの行うことに目を向ければ、上がったり下がったり、アップダウンの激しい姿を描くしかない。 けれども、主イエスは、そういうわたしたちを、祈りによって覆い包んでくださる。わたしたちの行う善きことばかりではない、もしかすると、過ちを犯し、天狗になり、サタンに惑わされていることさえ、主イエスは、一人祈られているその祈りによって、覆い包んでくださっている。わたしたちが、過ちを正し、サタンから離れることができるように、祈り続けてくださっている。 大事なことは、わたしたちの行うこと一つ一つの良し悪しではない。もちろん、善いことを行い、悪から離れるべきです。でも、それが、もっとも大切なことなのではない。良いことも悪いことも行うわたしたちを、主イエスはご自分の祈りのうちに招き入れ、覆い包んでくださる。ご自分の祈りによって、ご自分のもの、ご自分に等しい者、神の子としてくださる。このことこそ、わたしたちが知るべき最も大切なことなのではないでしょうか。 だから、わたしたちも祈る 主イエスが、最後の晩餐の席でペトロに向かっておっしゃられた言葉を、皆さんご存じでしょう。「あなたは今日、鶏が鳴く前に…」と言われた場面のことですが、主イエスが言われたのは、それだけではありません。こう言われたのです。 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」(ルカ22:31〜32) 主イエスは、わたしたちのためにも祈ってくださっているのです。わたしたちが、神の恵みの御業を信じて、主イエスに従って、自分の十字架を背負い、行くべき道を進むことができるように、主イエスは、祈ってくださっている。 「あなたのために祈っている」。そうおっしゃってくださる主イエスの祈りの中に、わたしたちは、留まらせていただきましょう。主がお建てくださった教会で、共にあずかる礼拝で、わたしたちは、主の祈りの中に留まらせていただきましょう。ここで、主が祈ってくださっています。わたしたちの祈りが貧しくとも、わたしたちの讃美が力弱くとも、主が、ここで祈ってくださっています、わたしたちを覆い包むように、わたしたちが立つことができるように。 祈り 主よ。主の祈りのうちに共にいさせてください。立たせてください。自分を捨てて、自分の十字架を背負い、主の道に従う者とならせてください。アーメン |