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受難節第1主日礼拝 説教 「私たちの命」

日本基督教団藤沢教会 2017年3月5日

【旧約聖書】申命記       30章15〜20節
【新約聖書】マタイによる福音書   4章  1〜11節

「私たちの命」(要旨)
 

 私たちが、イエス様のことを救い主と、そう肌身で感じることができるのは、私たちの生きる低きところにイエス様が遣わされ、しかも、私たちと同じ人として歩み、そして、今も私たちと共にいてくださるからです。荒野で悪魔と対峙するイエス様の姿が、そのことを伝えてくれているように思いますが、ただ、救い主について、また別のことをイメージする人たちには、今日のイエス様の姿は、いささか物足りないものとなるのでしょう。悪魔を懲らしめるでもなく、また、叩きつぶすでもないからです。 けれども、私たちがイエス様を救い主として信じ、お従いし、共に歩み続ける上で、この「期待外れな姿」にこそ、意味があるのです。

 神様は、イエス様を一つの試みに置くため、神様の守りからは遠いと思える荒野へと導かれました。すると、それに乗じて、悪魔がイエス様の前に現れ、イエス様に様々な働きかけを行ったのですが、それは、イエス様を神様から引き離して、自分の側に取り込もうと目論んだからです。けれども、イエス様は、悪魔の誘いに乗るようなことはありませんでした。ただ、それについては、神の子だから当然だ、と言えるのでしょうが、しかし、御言葉が、そのようなできて当たり前のことを伝えようとしているのなら、ここでのことは、敢えて記憶に留める必要もなかったことでしょう。また、そうした視点に立つなら、私たちの信仰の生涯についても、そのようなイエス様が共にいてくださっている以上、楽観していればいい、という、いわば、お気楽なものということにもなるのでしょう。しかし、神様がイエス様に遭わせられた試みは、生半可なものではありませんでした。生半可なものでないだけに、また、私たちは、ここでのイエス様の姿を通し、試練の中に置かれた際の、自らの具体的な有様を学ぶことができるのです。

 主の祈りに、「日毎の糧を与えたまえ」とあるように、日毎の糧は、私たちが生きる上での重大事です。ですから、それを無視して、「人はパンのみに生きるにあらず」といくら言ったところで意味はありません。イエス様が悪魔の誘惑に耐えることができたのは、イエス様が、御言葉を糧として生きていたからですが、御言葉を糧とするということはつまり、肉体的にも精神的に追い詰められた中で、イエス様が、なお神様との関係性の中にしっかりと身を置いていたということです。信仰の思いもよらぬ力は、そういう弱く、低く、愚かな自分を誤魔化さずに受け止め、それでも、神様が共にいてくださるというところで与えられるものでもあるということです。

 そこで、次に悪魔がしたことは、イエス様を神殿の高い屋根の上に連れて行くということでした。そして、イエス様に向い、「ここから飛び降りてみろ、必ず神様が守ってくださる」と語るのですが、これは、実にうまいやり方です。神殿の外でもなく、中でもない、そういうぎりぎりのところを探し出し、そこにイエス様を立たせ、神様への疑念を生じさせようとしたのですから、「賢い」としか言いようがありません。ただ、ここでのことは、私たちにとっては、また、別の意味を持っているようにも思います。つまり、神様との関わりに生きる私たちが、神様のその支配領域の中にあっても、危険だと思う場所がある、ということです。そして、悪魔が、イエス様をそういう危険な場所へと連れて行ったように、安心安全への疑念を生じさせることが、神様との関係性に破れを生じさせるための一番有効な手立てでもあるのです。しかし、イエス様は、そんなことはものともしませんでした。ここでも、神様と離れることなく、その関わりの中にしっかりと自らを置き続けていたからです。

 しかし、悪魔が賢いのは、ここからです。イエス様には敵わないということが分かった悪魔は、妥協し、取引してでも、自分の側に取り込みたい、そう考えたわけです。つまり、ただ闇雲に突き進むのではなく、ちゃんと退くところも知っている。こういうところに、また、悪魔の賢さが現されているということです。 そして、そのやり口ですが、また、それが、相手のことを実に良く見ています。そこで、悪魔は、世界中を見渡せるところにイエス様を連れて行き、その繁栄ぶりを見せて、「どうだ、俺と手を結べ。そうすれば、すべては俺とお前のものとなる」と言ったというのです。ただ、そこで、一つお断りをしなければなりませんが、悪魔が、イエス様の前に人参をぶら下げたのは間違いありません。でも、それは、欲得に駆られる、人の素朴な弱みにつけ込んでのことではありませんでした。悪魔の誘いに対し、これまで冷静だったイエス様が、「退け、サタン」と声を荒げていることからも、それが分かります。

 人として、私たちと同じように、同じ地平に生きたイエス様にも、弱みはありました。声を荒げたと、御言葉が、わざわざこの事実を伝えるているのは、イエス様にも痛いところがあったということです。そして、その弱みとはつまり、イエス様が神様の使命に生きておられたということであり、ですから、そんなイエス様にとって、悪魔が見せた世界は、イエス様が救うべき世界、ご自分が深く関わって行かざるを得ない世界でありました。欲得だけに訴える戯れ言を言われたのなら、イエス様も声を荒げる必要もなかったことでしょうが、けれども、福音宣教の使命に生きるイエス様にとって、人として、自らなそうとしていることの成就を願わないわけはありません。使命のないところに、試み、誘惑はないからです。

 ですから、このときのイエス様は、人として、悪魔ではなしに、自分自身と戦っていたということでもあるのでしょう。そして、このことはつまり、この難しい状況を、イエス様は神様任せで切り抜けようとしたのではなく、自分の頭で考え、その上で、ただ御言葉に従ったということです。また、イエス様の怒鳴り声が物語るように、自分で考え、神様にお従いするということは、理屈等で説明しきれるものではないということです。救いが、この世界と現実的に、具体的に関わらざるを得ないことである以上、まさに、申命記が、祝福と呪い、生と死と、二つに一つを私たちに求めるように、命の道を自ら生きることによってでしか現されないのが、私たちの信仰であり、従って、イエス様は、この命の道を歩み抜かれたということです。

 神様は、イエス様同様に、時として、私たちを試みに会わせることがあります。そして、その時、その試みに乗じて、悪魔がやって来て、神様と私たちとの関係性に綻びを生じさせることがあるのですが、しかし、荒野が死のにおいがする場所であると同時に、そこが神様との出会いの場所でもあるように、試みを通し、私たちと神様は出会い、また、出会うからこそ、神様との関わりは、深められ、高められることになるのです。ただ、それだけに、私たちを貶める悪魔の働く余地を、私たちは残しておきたくはありません。けれども、イエス様は、悪魔を亡き者とするのではなく、そのままにされたのです。

 試みの中に置かれ、いずれを選ぶかは、信仰のなせる業です。それだけに、そこで何を選ぶかが私たちの最大の関心事ということにもなるのでしょう。また、それだけに、それが心配の種ともなるのですが、ただ、それについては心配するには及びません。神様との交わりに生きることを第一に、イエス様のように御言葉に従って、行くべき方向を定めればいいだけのことなのです。そして、そのために、御言葉は、私たちに一つの大事な事実を伝えてくれているのです。

 この荒野での出来事が、聖霊の働きと天使たちの奉仕によって、形作られているように、神様との関わりに生きる私たちには、必ず神様の守りがその上に置かれているのです。ですから、その時何を選ぶかによって、私たちの置かれている状況が左右されることはありません。イエス様がそうであるように、私たちが、神様の愛の外に追いやられることはなく、また、その中に生きるからこそ、世界とそこに住むすべての人々と共に、その与えられた命を喜び、楽しみ、希望をもって将来に向かい行くことが許されるのです。そして、そうした中で、私たちは、繰り返し、神様の試みの前に立たされることでしょう。また、それは、必ずしも悦ばしいことばかりではないのでしょう。けれども、忘れてはならないことは、その時私たちが出会っているものは、悪魔ではなく、イエス様であり、神様であるということです。ですから、そこで、私たちが、腐らずにイエス様にお従いするから、私たちは、神様との交わりの中に自分の居場所を見出し、自らに与えられた命を本当の意味で喜びの中に歩み続けることができるのです。私たちの命とは、そういうものなのです。それゆえ、罪を憂い、罪を恐れ、自分の力で罪を取り除こうと、自分のことだけを考え悪あがきをするのではなく、神様の守りの内に置かれていることを信じて、主にある平安の内をこれからも一緒に歩んで参りたいと思います。

祈り





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