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受難節第2主日礼拝 説教 「喜びと楽しみが私たちを迎える」

日本基督教団藤沢教会 2017年3月12日

【旧約聖書】イザヤ書       35章 1〜10節
【新約聖書】マタイによる福音書  12章22〜32節

「喜びと楽しみが私たちを迎える」(要旨)
 

 御言葉は告げます。「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を討ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』」(イザヤ35:3-4)と、言葉を失うような経験をした時にも、私たちには、語るべき言葉がないのではなく、あるのだと。それゆえ、私たちはまた、喜びを旗印として、共に生きる人々と共に主の御前へと進み行くことが許されるのです(イザヤ35:10)。

 6年前の東日本大震災直後、語るべき言葉を失った私たちが求めたものは、御言葉でありました。そして、そこで、御言葉を通し示されたことは、「神様が私たちと共にいてくださっている」という事実でありました。それゆえ、私たちはその時に知ったのです。たとえ、どんなに言葉を失うような経験をしたとしても、私たちには語るべき言葉が与えられているのだと、大災害の全貌が未だ明らかとなっていない状況の中で知らされたことは、このことでありました。ですから、希望を見失った人々の立つべきところは、神様の希望を告げる御言葉の上しかありません。だからこそまた、「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」とのイエス様のお言葉も、言葉を失うような経験をした者を大いに励ますことにもなるのです。ですから、東日本大震災を覚えつつ礼拝を献げるこの日、御言葉を通し、おおいに励まされた経験を持つ私たちが、いまだ悲しみの癒やされずにいる人々に語るべきことは、「雄々しくあれ、恐れるな。・・・」との、この神様の御心ということにもなるのでしょう。

 ところが、私たちの多くは、そう語れと言われることに二の足を踏んでしまいます。それは、私たちが語るべき言葉を持っていないからではありません。語るべき相手のことも、語る自分のことも、それぞれのことがよく分かっているから、だから、「強く、雄々しくあれ」などと語ることができないのです。それは、どうそれを伝えればいいのかが分からないからです。けれども、だからこそ、この日与えられている御言葉にもう一度立ち帰り、二の足を踏む自らを誤魔化すことなく、神様の御心を受け取り直したいと思うのです。

 イザヤが「その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳は開く。その時、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる」と語る「その時」は、まだ訪れてはいませんでした。つまり、御言葉を通し、私たちが目にする希望は、未だ実現してはおらず、言葉の上においてのみ、その形が整えられているだけであったということです。それゆえ、この御言葉を目にし、この御言葉を耳にするだけでは、それで何かが動き出すことはありません。むしろ、それだけでは、語られていることへの期待値が大きい人ほど、希望とは正反対の方向に気持ちを振り向けることでしょう。そして、信じられない、との思いに駆られることにもなるのです。しかし、希望を見出すことすらできない人々に向かい、語りかけられているものが、また、御言葉というものでもあるのです。

 従って、御言葉が向かうところは、強く、雄々しくあることのできる人々ではありません。語ることに勇気を持てずにいる私たちと、強く雄々しくあることができずにいる人々と、二の足を踏むしかないすべての人々に語りかけられているのが御言葉なのです。ですから、神様の御心を知るために、私たちは、その語られている現実にしっかりと立たねばなりません。と同時に、私たちが立つところに同じように多くの人々を招く必要があるのです。もし、そうでなければ、私たちの願う神様の御心が現されることもないからです。

 では、そこで、私たちはどうすればいいのか。御言葉と私たちと、私たちと人とを繋ぐために、私たちは何をすればいいのか。それは、必要以上に勇ましくあろうとすることではありません。御言葉が、神棚に飾っておくためのものでもなく、また、現実を誤魔化し、都合よく解釈するための道具でもないように、私たち自身が味わい、感じ、経験すべきものとして、御言葉は、私たちに備えられているのです。私たちが、時に、御言葉を飲み込みにくいと感じ、また飲み込むことすらままならないと思うのは、まさにそれ故のことなのです。けれども、そこで、私たちは、その御言葉を「甘い」とさえ感じることがある。それは、御言葉が語るそのままを私たちが歩むからであり、だからこそ、そこで、私たちは、御言葉の味わい深さを知らされることになるのです。

 全く経験したことのない出来事に遭遇し、私たちはうろたえるものですが、それは、してはいけないことではありません。熱いものに触れて、熱くないということほど危なっかしいものはないからです。ですから、熱いものを熱くないと言うことが信仰ではありません。ただ、このことは同時に、神様への不信感を引き起こし、そして、やがてそれが高じると、私たち自身、「神の死」をも宣言するに至るのです。しかし、だからこそ、御言葉は信頼を置くことができると、私はそう思うのです。そして、それは、御言葉を私たちに伝えてくれた人々もまた、同じであったように思います。なぜなら、御言葉が私たちに語りかけてくれていることは、「ただ信じろ、信じることができる」との一面的で一方的な自己主張ではないからです。神様への信頼を語る人々とは、「信じられない、神も仏もあるものか」との思いに包まれた経験を有する人々であり、そのような人々が語る「神様は私たちと共にいてくださっているのだ」との証言だからこそ、御言葉は真実を私たちに伝えてくれていると言えるのです。

 それゆえ教会というコミュニティーには、御言葉に従い歩んできたそのような経験が数多く蓄積されています。ですから、 御言葉の味わい深さを知るためにも、御言葉の語るそのままを歩んだ共同体、コミュニティーの経験として語られていることを、私たちは知っておく必要があるのです。 そして、教会をしてそれを可能にさせたものは、人々の努力もさることながら、教会を外より支え、導く力、つまり、聖霊の働きを通して、教会というコミュニティーが支えられてきたからです。ですから、イエス様が、聖霊への冒涜を固く戒めているのは当然のことです。教会というコミュニティーを根底から支える神様の働きがあるからこそ、そこに身を置く私たちは、神様の力を受け、信じられない者が信じる者へと変えられることになるのです。また、悲しみと苦しみの中に置かれ、信じることができずにいる人々のことを、信じる者が教会の力を信じるからこそ、励ましを与えることができるのです。

 私たちが生きるこの世界は、私たちが信じられない、信じたくない、と思えることがたくさんあり、その点において、私たちも蚊帳の外に置かれているわけではありません。それゆえ、私たちも、多くの苦難と直面させられもするのですが、十字架という、たった一回の出来事ゆえに、教会に生きる私たちを、神様は、キリストを頭とする教会を支え、導いてくださるのです。ですから、そうである以上、教会にこうして生かされている私たちの向かうこの先から、希望が失われることはありません。従って、そのような私たちがなすべき事は一つです。キリストを頭とする教会を信じ、こうして互いに繋がっている人々との暮らし、分かち合いを大切にしていくということです。 何か大変なことが起こったときだけ騒ぐのではなく、こうして御言葉の前に立たされているこの時から、御言葉の上にしっかりと立ち、御言葉に従い、教会に蓄積されている経験を分かち合おうとする。だから、大きな出来事に見舞われた際にも、先達がそうであるように、いつも通りに振る舞うことができるのです。

 ですから、普段から、少しだけ背伸びをしてみることが大事であり、また、隣人に向かって、手を広げ、互いに繋がりあっていることを日頃から確かめ合うことが大切なのです。語るべき言葉を失うような状況に立たされたとき、私たちが、語るべきことを相手に対しても、また、自らに対しても、きちんと語ることができるのは、私たちが普段からそのように御言葉の求めに従い、歩んでいるからです。付け焼き刃ではない信仰を互いに身につけ、最後の日までを共に歩み通して参りたいと思います。

祈り





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