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受難節第3主日礼拝 説教 「愛することに理由はない」

日本基督教団藤沢教会 2017年3月19日

【旧約聖書】ヨブ記         1章 1〜12節
【新約聖書】マタイによる福音書  16章13〜28節

「愛することに理由はない」(要旨)
 

 受難節第三主日を迎え、主の十字架に近づいたことを思いますが、レントの時を過ごすということはつまり、私たちがこの世の様々な執着から解放されるため、今のこの時を歩んでいるということでもあります。従って、私たちの信仰とは、しがみつくものでもなく、また、囚われ、縛りつけられるものでもありません。そういう意味で、多くのものに囚われ、また、執着している私たちが様々な拘りから解放されるということは、結果、私たちに大きな安らぎをもたらすことになります。けれども、限られた器を大きなもので満たすためには、それに見合う器も必要です。従って、満たされる以前の私たちは、心の中にぽっかりと穴が空いたような状態に置かれるということでもあります。

 先週の木曜日、教会付属幼稚園の卒園式が行われ、今年も大勢の子供たちが巣立っていきましたが、その子供たち、親御さんにこれまでお伝えしてきたことは、ただ一つのことでありました。それは、「神様が共にいてくださる」ということです。そして、卒園に際し、さらに付け加えてお伝えしたことは、「神様は、幼稚園の時だけでなく、この先ずっといつまでも一緒にいてくださっていますからね」ということでした。ですから、そういう意味で、「みくに幼稚園での楽しかった生活を振り返り、懐かしく思う必要はない」とも申し上げました。神様の恵みは、振り返り懐かしむために与えられているものではなく、私たちが、具体的に神様の希望に生きるために与えられるものだからです。

 それにしても、旅立つ子供たちに向かい、私たち大人は、どうして激励の言葉を口にするのでしょうか。それは、成長することが必ずしもいいことばかりでないことを知っているからです。ただ、私たち教会に生きる者の言葉は、世間一般のものとは少し事情を異にします。私たちが励ましの言葉を口にするのは、将来の不安を払拭し、人生に負けないようにするためではなく、共にいます神様が、理由なしに私たちの歩みを導き支えてくださっている、このことを知っているからです。それゆえ、 荒波にもまれながらも、沈むことはない、励ましの言葉を口にする際の私たちの立ち位置は、「主が共にいます」ゆえのこの幸いの上であるということです。

 けれども、サタンが、神様に向かって、「利益無しに、理由無なしに」と問うているように、信じるということも、愛するということも、多くの人々にとっては、すべて理由あってのことです。しかし、御言葉が求めることは、その立ち位置であって、理由、根拠ではありません。だから、ペトロも、イエス様より最大限の賛辞を受けることになったわけです。ペトロが理由を問わず、また、求めず、ただ、イエス様のことを『あなたはメシア、生ける神の子です』と言葉にしたからです。そして、ペトロがそう告白したのは、イエス様を通し、神様との近さとを我がこととすることができたからです。そして、そこで受けた祝福は、言葉の上だけのことではありません。ヨブが数々の試練の後、旧を倍するがごとき祝福に与ったように、ペトロもまた、具体的なものを手にすることになったのです。それが、天の国の鍵と陰府の力すら対抗することのできないほどの大きな権能でした。それゆえ、ペトロは、天と地との近さをその身をもって現すことが許されたのです。しかし、それが許されたのは、ペトロが特別優れた存在であったからではありません。

 イエス様が、「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる」と仰る「岩」とは、ペトロだけでなく、こうして主の御前に置かれている私たちすべて、一人ひとりのことです。そして、その私たちを、神様は、何か特別な理由があって、その御前に呼び集めたわけではありません。イエス様がペトロのことを「シモン・バルヨナ」と、敢えて、ありきたりな名前の方を用いたように、特別で優秀な者だけを招き、特殊な集団を形成する意図は、神様にはありません。むしろ、私たちのような小さく、弱く、欠け多く、罪深い者を、理由を問わずに招き、祝福を与え、一つとなし、教会というコミュニティーを築こうとしているのが神様の御心でもあるということです。
 ただ、それは、だから、私たちが、物事を深く考えなくてもいい、ということではありません。理由を問わないでいい、というのは、私たちが、どうしても理由を問わずにはいられないものであり、それだけこの世が混沌としているからです。だから、この世の現実の中で、私たちは、何度となく、神様に向かい、「どうして」と問うことにもなるのですが、それは、私たちが、物事を弁えない、不見識な者だからではありません。ペトロと同じように、イエス様と神様との近さを実感していればこそ、神様に向かって、まさにヨブのように、その思いの丈を打ち明ける者でもあるということです。

 ところが、この絶対的な近さが、ある瞬間を境に、乗り越えることのできない隔たりとなって、私たちの前に立ちはだかることがあると、ペトロの有様を通し、御言葉はそう語るのです。それゆえ、私たちは、だからこそ、イエス様を信じて、神様としっかりとつながっていなければならないと思うのです。けれども、そこで、神様が私たちの気のすむようなことを何もしてくださらなかったとしたら、どうでしょうか。それでも、人は、神様にお従いすることができるのでしょうか。サタンの神様に対する問いかけは、不安から逃れるために何事にも理由を問わずにはいられない、そんな私たちの心を見透かしてのことであり、また、ペトロの行き過ぎた行為も、信じる根拠が失われるのを恐れるあまりのものであったのです。

 そのペトロに対し、イエス様が仰ったことは、「サタン、引き下がれ」という厳しいものでもありましたが、しかし、このイエス様のこの一言は、ペトロとの関係を断つために語られたものではありません。逆から見れば、この一言は、「理由など求めずとも大丈夫なのだ」と、イエス様が感情を露わにし、そう言っているということです。つまり、その言葉の与える印象に反して、ペトロとイエス様とは、依然近いままであるということです。そして、この近さでありますが、それは、人の物差しによって計ることのできるものではありません。ペトロのその後についてはよくご存じのように、サタンとまで言われた者でさえ、イエス様は、理由を問わず、ペトロとの近さを維持し、その後も大事に大事に思い、関わり続けられたのです。

 ですから、この今日の話は、イエス様とペトロが思い思われているというところで終わるものではありません。イエス様がペトロと関係を断つことのなかったように、イエス様との近さを知る者は、理由を問わず、条件を問わず、イエス様と共に教会というコミュニティーを築かねばならないのです。そして、それは、理由を問わずということですから、気の合う仲間だけの集まる閉鎖的で特殊な集団を作りさえすればいいということではありません。ですから、そのために「己が十字架を負え」と仰るイエス様の一言も、負う負わないといった、個人的次元での解釈に留まるものではありません。教会は、それを担うことのできる、担いたいと思う、奇特で風変わりな人たちだけが集まる所ではないからです。もし、教会がそういうところであれば、担う理由、能力が失われたなら、どうなってしまうのでしょうか。

 幼稚園の卒園式が今年で83回目を迎えることが許されたのは、私たち藤沢教会が、教会を教会とすべく、イエス様と共に十字架を担い続けてきたからです。ですから、十字架を担いつつ恵みの時をこれからも歩み続けるためには、そこで重要なことは「共に」ということです。イエス様と兄弟姉妹と共に、交わりを築くべく汗を流す。みくに幼稚園の保護者の皆さんが園の活動に協力的であるのは、そういう私たちの信仰と伝統に加えられたがゆえのことであり、ですから、幼稚園の子供たちとそのご家族も、そういう意味では、私たちと共に歩む神の家族の一員であるのは間違いありません。

 多くの不安、恐れに囲まれている私たちは、信仰ゆえにまた、正しく生きるための理由や根拠を求めてやまないものなのかもしれません。けれども、私たちが求めるそうした正しさは、ペトロのように破れざるを得ず、また、それに対しては神様も、ヨブに対したように、時に何も答えようともしないこともあります。だから、また、人は理由を問い、求めてしまうのかもしれません。しかし、御言葉が語ることは、教会という交わりに留まる中で、私たちが求めるものは、必ず与えられるということです。それは、ヨブとペトロが、神様との関係性が決して破綻しないことをその身をもって明らかにしてくれていることからも分かります。従って、私たちは、そのようにイエス様にあって、イエス様と共に、神様の御手の中にあって、理由なく愛され、そして、その交わりの中に、主が招かれるすべての人々と共に歩み、「教会」という世にはなき、豊かな交わりに生きることを許されているということです。それが、私たちであり、ですから、理由を問い、根拠を求めたくなったとき、主という、ここにしっかり立ち、立つことで与えられる主の御声に、理由を問わず、家族として、「共に」従いつつ、復活へと向かう恵みの時を今週もまたご一緒に過ごして参りたいと思います。

祈り





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