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受難節第4主日礼拝 説教 「神様の正しさ」

日本基督教団藤沢教会 2017年3月26日

【旧約聖書】出エジプト記     24章3〜11節
【新約聖書】マタイによる福音書  17章1〜13節

「神様の正しさ」(要旨)
 

 本日の御言葉が語るところは、礼拝を献げる私たちと神様とは、イエス様ゆえにとても近いということです。そして、この近さは、抽象的なものではなく、具体性を帯びたものであり、それゆえ、私たちの信仰は、理屈を積み上げるようなものとはなりません。一般的に家族が、理念を共有することで成り立ってはいないように、私たち神の家族もそれは同じです。命の分かち合いの許された、神の家族としての歩みが、この近さを近さとして、私たちをして、そう感じさせることになるのです。しかし、それは、理屈ありきではないがゆえにまた、そこで様々なことが起こります。そして、そこで起こったことを、私たちが恵みとして捉え直すからこそ、家族としての関係性は強められ、様々な思惑や不快とも思える出来事にも負けない、緩やかで穏やかな、そして、心地よい関係性を築き、保つことができるのです。イエス様と弟子たちとの関わりが、その具体的な有様とそこに至るための道筋とを私たちに教えてくれいているように思います。

 そこで、御言葉が先ず私たちに語ることは、イエス様が自由な方だということです。神様を礼拝するため、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて、イエス様は山に登られたのですが、どうしてこの3人であったのか、どうして他9人ではなかったのか。9節で、ここでの出来事について、弟子たちに対し箝口令が敷かれているように、3人ということに特別な理由があったわけではありません。しかし、残された人々にとっては、面白くはありません。けれども、イエス様が、その他の弟子たちに配慮している様子も見受けられません。 すべては、イエス様の自由に基づき、この3人との礼拝が行われたからであり、このことはすなわち、私たちが献げる礼拝とは、私たちの事情によって左右されるものではなく、すべては、イエス様の自由に基づき、なされるものでもあるということです。

 ただ、だから、イエス様は人の気持ちも分からない方だの決めつけは誤りです。ペトロの素直な気持ちについては、しっかりと受け止めておられたからです。なぜなら、17章1節以下にあるように、イエス様が、この世の事情を忖度し、イエス様のことを諫めたペトロに向かい、「サタン、引き下がれ」との厳しい言葉を浴びせかけた時とは違い、モーセ、エリヤ、イエス様と、それぞれに配慮し、ここに三つ仮小屋を建てましょうと言ったペトロの発言については、イエス様は何一つ発言してはいないからです。それは、その気持ちだけは受け止めたということなのでしょう。しかし、その一方、忖度し、誰も傷つかないような方法も取られてはいない。ペトロのその申し出の直後、光り輝く雲が彼らを覆い、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」との宣言を、弟子たちが聞いたように、神の近さとはつまり、自由に振る舞うイエス様に聞くことで、直接経験すべきものだからです。それゆえ、礼拝において、私たちの与る喜びとは、感動にむせび、個人的感情に溺れることではありません。天よりの声を聞き、恐れおののき、ただひれ伏すしかない弟子たちに、イエス様は何をなさったのか。「イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることない。』」とあるように、弟子たちは、聖なるものに触れていただく経験をしたわけですが、私たちは、この一点において神様との近さを見ることができるのです。

 出エジプト記で、神が、イスラエルの人々に向かって「手を伸ばされなかったので」と敢えて記しているのは、神様との直接的な近さは、そのまま死に直結するものでもあったからです。しかし、神の家族である弟子たちは、神の子であるイエス様に直接触れていただく経験をそこで許されているのです。それぞれがそれぞれの事情を忖度し、言わずもがなの関係性の中で、神の家族の近さが成立しているわけではなく、イエス様自らが自由に近づき、神様との近い関係性が作り上げられている。神の家族が破綻することのない理由は、このイエス様の自由によるものでもあるということです。

 従って、そのような交わりの中へと招かれている私たちは、神様に手を伸ばされることのなかったイスラエルの人々と同じように、「食べまた飲んだ」とある交わりをまさに交わりとするために、命の分かち合いを経験するのです。人間の実情だけしか目に入らない交わりを築くのではなく、恵みを恵みとして互いに分かち合う豊かな交わりを築くことになるのです。しかし、それは、だから、それで良かったという単純な話ではありません。8節に「弟子たちが顔を上げて見ると、イエスの他は誰もいなかった」とあるように、神様もイエス様も自由であるがゆえに、私たちの意に反することをなさることがあるからです。

 イエス様の呼びかけに応じ、顔を上げた弟子たちは、その時何を思ったのか。きっとがっかりしたに違いありません。なぜなら、そこにあるイエス様の姿は、光り輝くものではなく、今まで通りの普通のイエス様であったからです。ただ、御言葉はそんな弟子たちの心の動きについては、直接触れてはおりません。けれども、語るに落ちるとはこのことなのでしょう。イエス様が、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」と弟子たちに命じ、そして、それを聞いた弟子たちが、すぐさまイエス様に「なぜ律法学者は、先ずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねているように、喜び覚めやらぬ弟子たちは、イエス様が普通の姿で一人いることにがっかりし、別のものに目移りしてしまったのです。このことはつまり、弟子たちが、イエス様との近さというものを具体的に自分事とすることができなかったということであり、また、聖なるものに触れることの許されている近さとは、人の認識レベルの事柄ではないということです。よく痛い目を見て初めて分かると言われるように、そこで求められることは、経験そのものであるということです。

 モーセ、エリヤが、ペトロの前から消えたとしても、そこには、イエス様お一人だけは残っておられました。そして、弟子らの問いかけに対し、そのイエス様が「確かにエリヤが来て、すべてを元通りにする。言っておくが、エリヤはすでに来たのである」とお答えになり、その普通の姿をもって、この後、十字架へと向かわれたのです。それは、イエス様がそこで「すべてを元通りにする」と仰ったように、イエス様の十字架は、万物が神様の作られた姿に完全に回復されるためのものでもあったからです。しかし、弟子たちには、それが最後まで分かりませんでした。けれども、復活のイエス様と出会った弟子たちは、やがて神様との近さを経験することになるのです。それは、その時初めて、神様と弟子たちとの近い関係性が成立したということではありません。何一つ分からずにいたこの時にも、誰にでも分かる、触れることさえ許された、その普通の姿をもって、イエス様は弟子たちと共にいてくださったのです。慮り、忖度し、気兼ねしいしい、私たちと共にいてくださるのではなく、神様の子として自由にそのありのままの姿をもって、近づき、接し、交わりを築こうとしてくださっている。それが私たちのイエス様なのです。

 それゆえ、現にここに起こっていることは、抽象的なものとはなりません。神様と特別な関係に導き入れられたイスラエルの人々が、見て、食べ、飲んだように、イエス様とすぐ近くにある私たちは、大勢の友と、イエス様と共にある交わりの豊かさを分かち合うことになるのです。それゆえ、このイエス様ゆえの豊かさは、私たちをして、おおらかに、穏やかに、くつろいだ関わりを築かせることとなるのです。そして、それが、私たちの献げる礼拝において実現しているのです。ですから、この豊かな交わりを築くために、私たちは、慮り忖度する必要はありません。イエス様が招き、近づいてくださっている以上、イエス様が再臨されるその時までをそこに留まり、歩み続けることになるのです。従って、イエス様ゆえの豊かさを繰り返し経験し、その経験を積み上げる私たちは、だから、そのイエス様のことを絶対に分からなければならないという、狭い、閉じた世界にしがみつくことはしません。弟子たちが分からなかったように、分からなくても信じるのが私たちの信仰だからです。私たちの信仰の豊かさは、すべてが分かっているからそれでいいということではなく、私たちが生きる上で、生きるに必要なすべてことが与えられているという、この豊かさに基づくものだからです。それは、神様が、その独り子を惜しまず私たちに与えてくださったことからも明らかです。

 愛する者を失い、神様の御心が分からず、「神様、それはないでしょう」と叫ぶしかない経験をする私たちではありますが、恐れおののき、希望すら見出すことのできなかったペトロに向かって、イエス様ご自身が、今私たちと共にいてくださるそのままの姿をもって近づき、手をさしのべ、触れてくださっているのです。私たちには、その深い悲しみをもたらす理由が分からずとも、私たちと別れ、イエス様の御許へと向かうその人とは、イエス様は間違いなく共にいてくださっているのです。そして、そのような私たちの歩みを支えるものが、神様と出会うことの許されたこの礼拝であり、藤沢教会という命の分かち合いの許されたこの豊かな交わりでもあるのです。間もなく、新しい年度を迎えます。信仰ゆえの豊かさにさらに与るためにも、礼拝を大事にし、主にある兄弟姉妹との交わりを大事に思い、新たな歩みを共にする私たちでありたいと思います。

祈り


  


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