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受難節第5主日礼拝 説教
  「真実であろうとするがゆえに犯す過ち」

日本基督教団藤沢教会 2017年4月2日

【旧約聖書】創世記       25章29〜34節
【新約聖書】マタイによる福音書 20章20〜28節

「真実であろうとするがゆえに犯す過ち」(要旨)

 レントの時を過ごす中で、御言葉に聞きつつ思わされることは、私たち人間の救いようもない姿です。それは、単に私たち人間が未熟で不完全であるということではありません。ゼベダイの子、ヤコブとその兄弟ヨハネの母が、我が子二人の安定を願い、イエス様に確固たる地位を求め、また、それを知った他の弟子たちが怒りを露わにしたと御言葉にあるように、自分だけは、との拘りをなかなか捨て去ることのできないのが私たち人間なのだと思います。それは、ペトロが、鶏が三度鳴いたときに、自分自身の救いようもない姿に気がつかされ、涙したと御言葉にあるように、その卑しさは理解しつつも、この根源的な問題に対し、為す術ないのが人間だからです。つまり、救いようもない姿とは、この、どっちつかずのままでいる私たちの姿であり、今年も十字架へと進み行く中で、改めて、そのことを思い起こさせられたということです。

 しかし、救いようもない者に救いをもたらすのが、神様であり、イエス様です。ヤコブとヨハネの母は、そのことが分かっていた。だから、我が子のため、親としての役割を積極的に果たそうとしたのです。しかも、イエス様が三回目の受難予告を行った直後、他の弟子たちに先んじて、母親は、その思いを直接行動に移したわけです。このことはつまり、ゼベダイの家族は、この時点では誰よりも早く十字架の意味を分かっていたということです。そして、この親子をして、そのように求めさせたのは、十字架以後もイエス様と一緒にいたいと思ったからです。だから、イエス様の「この私が飲もうとしている杯を飲むことができるか」との問いに対し、ヤコブとヨハネの兄弟は、すぐさま、「できます」と応えたわけです。ですから、その必死な思い、素早い行動は、一定の評価を得たとしてもおかしくはありません。ところが、イエス様は、彼らの、この「できる」との返答を評価しませんでした。それは、彼らの、自分は正しく理解していると思うその姿の中に、イエス様は、また、別の姿を見ていたからです。

 イエス様が、彼らのことを「分かっていない」と仰ったのは、彼らの身勝手さだけを指してのことではありません。人のそうした卑しさを糾弾したいなら、神様が、兄エサウを出し抜いたヤコブにイスラエルという名を与えられることもなかったでしょうし、また、父祖の一人に数え上げられることもなかったでしょう。しかし、人を出し抜いてまでも、という、この卑しさを、神様が全く無関心であったわけでもありません。それぞれの御言葉を通し、大半の人々が先ず感じるであろうその卑しさについては、ヤコブがやがてそのトラブルメーカーとしての姿を露わにし、行く先々で爪弾きの憂き目に遭うように、神様は、その結果についてはその人自身に引き受けさせているのです。ですから、そういう意味で、それぞれの御言葉にあることは、余り表立って言えることではありません。しかし、御言葉は、それでも人々の記憶を敢えて正直に残すのです。それは、彼らの、この救いようもない姿の中に、神様の救いがはっきりとした形で示されているからです。

 私たちが、その人生において、安定した時や場を求めてやまないのは、生きるということが、それだけ思うに任せないものだからです。ですから、長子の権利など、人間が特別な地位を求めるのは、この世に生きる人間の、その長い経験が生み出した知恵だと言えますし、だから、古今東西を問わず、同様なものを認めることができるです。ただ、聖書は、この人間としての経験知を必ず守るべきこととして絶対化してはいません。それは、神様が救いようもない人間に与えられる救いが、人間が折り合いをつけるところで、実現し、維持されるものではないからです。しかし、だから、単純に横並びがいいと言っているわけでもありません。「あなた方の中で偉くなりたいもの・・、一番上になりたいものは・・」とイエス様が仰るように、順序、序列を否定し、その上に秩序だった暮らしが成り立つものではないからです。このことはつまり、「上だ下だすべては同じだ」という、そのような人間の経験知の及ばないところに置かれているのが、 私たちが求めてやまない救いであるということです。だから、御言葉は、御心を最優先することを私たちに求めます。また、最優先すればこそ、ヤコブや弟子たちのような収まりの悪い者も、神様は、長子として認め、また、弟子としても用いられ、その約束通りに将来が開かれることになったのです。

 しかし、それだから、何でも噛んでも、先ずは神様とイエス様ということではありません。ゼベダイ親子も弟子たちも、情報として伝えられたことを自らの経験知によって判断し、この方しかないと考えたわけですが、イエス様は、彼らのこうした態度を「分かっていない」と仰っているわけです。それは、この方しかいない、この方と共にいたいと、その人をしてそう思わせているものが、仮に信仰的な姿を取ったとしても、それが、自分だけの拘り、自分だけへの拘りに過ぎないものだとしたら、御心を最優先とするということにはなり得ないからです。ですから、御心を最優先し、分かっていると思いつつ、分かっていないと言われることは、イエス様を信じる私たちにとっては、とても辛いことで、救いようもない気持ちにさせられるものでもあります。しかし、私たちの信仰において、この救いようもない姿の自覚こそが、また、私たちの救われているとの自覚を深く促すことになるのです。

 説教の後、私たちは、主の食卓へと招かれ、イエス様の命そのものを分かち合おうとしています。そして、その食卓へと招かれている私たちは、自らの救いようもない姿を顧み、自らに対し、イエス様の救いにふさわしい者だとは思えません。身綺麗どころか、救いようもない姿をイエス様の御前にさらしているのが私たちでもあるからです。ところが、イエス様は、私たちをその食卓へと招いてくださっているのです。誰が上だ下だということではなく、信仰を通し、その罪を知る私たちに、イエス様はご自分の命そのものを差し出し、分かち合おうとされているのです。そして、恵みを等しく分かち合い、私たちは知るのです。私たちの命を主であるイエス様が、私たちの足下から命そのものを支えようとしてくださっていることを。

 収まりのつかない不安定な状況に生きる私たちは、この不安定さを自力で解決しなければならないと考えています。自分への拘りを捨て去ることができないのはそのためなのでしょうが、だから、神様の御前において、ヤコブや弟子たちのように、その救いようもない姿を曝すことにもなるのです。しかし、身綺麗ではいられない私たちが、その救いようもない姿をさらすその場所に、神様の御心は間違いなく置かれているのです。だから、その御心に従うことを、私たちは最優先事項としなければならないのですが、ただ、それは、「誰が上で、誰が下か」というところでなされるものでもなく、また、「あなたどうぞ、いえいえ、あなたこそお先にどうぞ」と、横並びの麗しい譲り合いによってなされるものでもありません。私たちの主であるイエス様が、私たちの足下でその命を支えようとしてくださっているという、このことへの気づきが、私たちをして、イエス様が仰るように、主に仕え、隣人に仕える者とさせるのです。そして、そこでまた、私たちが、実際にイエス様のお言葉に従うからこそ、救いようもない自らの置かれているところがどこなのかを知り、自らに与えられている救いを喜びをもって実感させられることになるのです。

 やがて父祖の一人として数えられるヤコブの家族も、その末裔であるイエス様の弟子たちも、そして、神の家族である私たちも、神様とイエス様を前にしたとき、常に身綺麗でいられるわけではありません。そのため、神様とイエス様に対し、また、世間に対しても、みっともない姿をさらすことにもなるわけです。けれども、この惨めさの中で、私たちは、その信仰ゆえに共にいますイエス様と出会うことが許されているのです。新年度を迎え、この一年がどのような形で主の喜ばれるものとされるかは分かりませんが、物事がうまくいっているときだけでなく、うまくいっていないときも、私たちとイエス様は共にいてくださり、多くの隣人とこの恵みの分かち合いを願っているのです。私たちが祝福から祝福へと導かれるためにも、主と共にある歩みを喜びつつ歩んで参りたいと思います。

祈り





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