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受難節第6主日 棕櫚の主日礼拝 説教
  「様々な人々の思いの中で」

日本基督教団藤沢教会 2017年4月9日

【旧約聖書】ゼカリア書      9章 9〜10節
【新約聖書】マタイによる福音書 27章32〜56節

「様々な人々の思いの中で」(要旨)

 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声を上げよ」、預言者ゼカリヤは、苦難の中にあるイスラエルの人々に対し、将来の確実なる現実、救い主の到来とそれに伴う平安な日々とを主の言葉として伝えました。そして、棕櫚の主日を迎えた私たちは、この「喜び、喜べ」との宣言をイエス様の出来事と重ね合わせ、聞くのです。ゼカリヤが語る通り、神に従い、高ぶることのない方がイエス様であり、それゆえ、このイエス様の姿を通して、ゼカリヤの言葉が実現したと信じるのです。このことはつまり、神様の造られたこの世界もそこに生きる人間も、神様に見捨てられることはなかったということであり、それゆえにまた、私たちが今、御言葉を通し、聞き、見ていることが、神様の正しさをそのまま現していると、私たちをして、世の人々は知ることになるのです。

 従って、ここで明らかにされていることは、紙の上こととして終わることはありません。イエス様の願いが、人間の平安な日々とその幸福なる暮らしにあるように、具体性を伴うものとして経験させられるのが、私たちの聞いている御言葉なのです。また、それが、私たちをして、世の人々にもたらされることになるのは、イエス様が、神様から賜った豊かさに生き、その豊かさをすべての人々と分かち合おうとされているからです。ですから、それが証拠に、イエス様はその豊かさをご自分のためだけに用いられることはありませんでした。「他人を救ったのに自分は救えない」との心ない人々の言葉からも分かるように、分かち合うために備えられているものが、イエス様ゆえの豊かさなのです。だから、イエス様と命を分かち合うことの許されている私たちは、イエス様を通し、同じように豊かなものとされており、また、豊かであるがゆえにまた、神様の正しさを世の人々に明らかにすることができるのです。それが、王なるキリストを歓呼をもって迎える私たちでもあるということです。

 ですから、イエス様ゆえの豊かさに与る私たちは、自らの安心立命のためだけにこの豊かさを用いることはしませんし、また、そのような形でこの豊かさを求めることもありません。その賜物を用いて、神様の正しさを、イエス様と共に明らかにしていくことが、私たちの使命、ミッションでもあるからです。特に、私たち藤沢教会の歴史が、メソジストの伝統によって築かれ、また、そのメソジストの大切にしてきたものが、「伝道、教育、交わり」であることを考えますと、私たちの藤沢教会の使命とは、具体的には、福音を福音として宣べ伝え、幼い魂と深く関わり、養い、そして、命が喜びに満ちあふれたものとなるため、ふさわしい形で交わりを築くこと、これらのことが私たちの使命ということです。

 先週、幼稚園の入園、進級式があり、子供たちとそのご家族と接し、牧師として、私たちに与えられている使命を新たにさせられるものがありました。ただ、現実問題として、子どものたちの在園期間が二、三年であることを思いますと、どんなに意気込んだところで、限界があるのは間違いありません。けれども、式に参列し、気がつかされたのです。式には、今年卒園した子どものご家族、ご自身も卒園生という方、かつて職員として働かれた方が、その保護者として参列くださったのですが、このことはつまり、教会、幼稚園の使命とは、その時、その場限りで終わらない、イエス様の豊かさに与るがゆえの広がりの中に置かれているものだということです。

 ただし、この使命は、イエス様の豊かさに与るがゆえに与えられた課題であり、目的ではありません。私たちの目的は、神様の御前に集まる人々と交わりを築き、神の家族として、神の御前へと最後の最後まで共に歩み続けることだからです。ばらばらになり、気がついたら、あの人がいない、この人がいないと言い出しかねないのが、世の交わりの常なのでしょうが、だから、後は野となれ、山となれ、という空しさを、特に、今の時代、いろいろと難しい問題が、人がこうして集まっていることの背後には、必ずついて回るので、どうしても、交わり、共同体というとネガティブに評価しがちです。また、だからこそ、その場しのぎの、表面を取り繕うことばかりがまかり通ることにもなるのでしょう。ただ、その場しのぎのことが絶対にあってはならないことだなどとは申しません。来客の際、見られては困るものを慌てて隣の部屋に隠すということはよくあることで、けれども、そういうことがありながらも、そこで、イエス様ゆえの広がりというものを意識するからこそ、その場しのぎになりがちな一面をも、私たちは、積極的に受け止めることができるのです。

 ですから、そのためにも、現にその豊かさに与っている今いる人たちをベースに具体的な取り組みをなすということが大切です。その例として、幼稚園に触れましたが、ただ、交わりというものは、ある特定の人々だけで構成されるものではありません。共同体、コミュニティーには、病気の人や高齢者がいるのが普通であり、その中には、交わりに背を向ける者もいれば、放蕩息子のようにどこに行ってしまったかも分からない者もおります。ですから、一度に全部一斉に、そのすべての課題に取り組むことは難しいことではありますが、けれども、そういう様々な人々のすべてが、イエス様と神様の目に映し出され、家族としての歩みを共にしているのです。私たちには分かりにくい神様のご計画を一言でお伝えしたくて、広がり、と申しましたが、また、それを具体的にイメージし、体験するために、使命を果たすことが重要なのです。ただ、そのためにも、その私たちが神様から見てどう映っているかが分かっていなければなりません。

 神様と私たちとの間に置かれているものが、イエス様の十字架であり、この十字架を通し、私たちを見つめておられるのが、神様です。御言葉には、その具体的な有様が、実に様々な姿をもって現されておりますが、その中には、ローマの百卒長や数名の女性たちのように、尊敬すべき人々もおりました。けれども、それ以外の人々は、言語道断、神の子であるイエス様を「エリ、エリ、・・なぜ私をお見捨てになったのですか」と言わしめるまでに追い詰め、あろうことか、そんなイエス様に憐憫すら感じることもなかったのです。そして、それが、イエス様の十字架の前にいる人々でありました。

 そこで、私たちが思うことは、神の怒りとその裁きです。そんな中で、仮にローマの百卒長や女性たちと自らとを重ね合わせたとしても意味はありません。それは、この人たちもまた、イエス様を見殺しにした一人であったからです。このように、十字架の前に立つ者は、私たちも含め、救いようもない者であり、また、十字架上のイエス様の断末魔の叫びが明らかにするように、十字架は、救いようもない場所でもあるのです。そのため、人が神様の御心を推し量ろうとすると、どうしても、この救いようもない現実から考え始めるしかありません。そして、この救いようもない現実に耐えきれず、十字架と復活とをワンセットで捉え、水増しし、誤魔化そうとするのです。しかし、そうした試みは成功した試しはありません。十字架以後、神様はあがくしかない私たちの姿すら、十字架を通し見つめているからです。しかし、この十字架の出来事は、イエス様が、自らの自由に基づき、進んで選び取ったものなのです。このことを、私たちは忘れてはなりません。

 「他人を救ったのに、自分は救えない」との暴言が明らかにするように、イエス様の願いとは、私たちに向けられた徹底した赦しと救いでありました。そして、このイエス様を遣わされたのが、イエス様の父なる神様であり、従って、十字架を通し、神様が私たちに注ぎ出す御心も、イエス様と同じであるということです。そして、十字架の悲惨さ、イエス様が味わった絶望が、私たち人間の側に軸足を置いていることを思いますと、神様の私たちに向けられたその眼差しが、怒りと憎悪に満ちあふれたものでないのは明かです。

 今年も、十字架を共に担うべく、最後の一週間が始まりましたが、その中で、私たちは、誤魔化しようもない自分自身、自らが置かれている救いようもない現実とを思い知らされることでしょう。けれども、この救いようもない私たちを赦し、救うために共にいてくださっているのがイエス様なのです。ですから、十字架の上にうなだれているイエス様の姿がこのことを明らにしていることを、私たちは、忘れてはなりません。なぜなら、十字架の上のイエス様を通し明らかにされた、この神様の御心を私たちが忘れないからこそ、私たちは、絶望の中で希望を、空しさの中にあって、なお、安らぎと幸いを覚えることができるのです。ただ、多くの場合、私たちが望むようにはいきません。それゆえ、神様を呪い、救いようもない自らを呪うこともあります。けれども、そこに、イエス様は立ち、その私たちと共にいてくださり、そして、イエス様ゆえの豊かさに与らせ、神様は、祝福された歩みを最後の最後まで全うさせようとしているのです。十字架のイエス様は、だからこそまた、そのように私たちを用い、世にある人々を神様の御心という陽の当たる場所へと導こうとされているのです。神様の愛と私たちの悲惨さが十字架において交わり、一つとなって溶け合い、生み出されているこの現実、この現実を見つめつつ歩み、感謝の内に復活のイエス様の御前へと進み行く私たちでありたいと思います。

祈り





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