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イースター(復活日)礼拝 説教 「復活の主と出会うところ」

日本基督教団藤沢教会 2017年4月16日

【新約聖書】マタイによる福音書 28章1〜10節

「復活の主と出会うところ」(要旨)

 イースターおめでとうございます。イエス様の復活を祝うイースターの祝いの時が、私だけがとか、あの人だけがと、ということではなしに、私たちすべてに許されているのは、私たちとイエス様が共にあるからです。ですから、この幸いを一言で言い表せば、うれしいの一言に尽きるように思います。それゆえ、御言葉が喜び喜べと言うように、この日、御言葉に聞く私たちのなすべきことは、ただ喜ぶだけです。そして、このことはまた、御言葉が、イエス様の復活のプロセスの詳細について、まったく触れようともしていないことからも明かです。

 しかし、そうは言っても、人は理由もなしに喜べるものではありません。そこで、その理由について少し触れると、それは、私たちが何の努力もせずに、イエス様の十字架の出来事を通し、罪が許され、イエス様と同じ神の子とされたからです。このことはつまり、イエス様の父なる神様は、私たちにとって、それだけ気前のいい方だということですが、しかし、すでにイエス様が仰っているように、この気前の良さが人にはなかなか分かりにくいわけです。ただ、もし私たちが神様の御心を求めてやまない者だとしたら、そこで返す言葉は、やはりうれしいの一言でしかないはずです。だから、私たちが、もし、それ以外のことを口にしたとしたら、きっと神様も興ざめしてしまうに違いありません。

 ただ喜べ喜べの一辺倒では、今度は、こちらが興ざめしてしまうことにもなります。けれども、この日、御言葉は、親切の押し売りのように喜べと畳みかけるのではありません。そこにはきちんと距離があり、冷静に喜ぶべき事柄について語りかけてくれているのです。ですから、それが証拠に、復活の喜びに与った二人の女性は、前のめりになって、手放しに喜んではいたわけではありません。復活の最初の証人でもあるこの二人の婦人は、復活のイエス様と会いたくて、その墓まで朝早くに出かけていったのですが、8節に「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」とあるように、喜ぶと同時に、恐れをも抱いたのです。だから、二人の婦人は、イエス様の「おはよう」との呼びかけに際しても、イエス様の体に飛びつくのではなく、足に抱きついて、その前にひれ伏したと、御言葉は伝えるのです。

 このことはすなわち、イースターを祝うということの中には、起こった事柄に対して、きちんと距離を置くことが求められているということです。それは、復活が、個人的な思い込みでもなく、また、体験したその人個人だけに限定されるものでもなく、大勢の人々と分かち合うべきものだからであり、そのことを誰よりも、復活のイエス様ご自身が、強く願っていたからです。だから、この二人の女性に向かって、イエス様は、「恐れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこで、私に会うことになる」と仰ったわけです。そして、そこでまた、私たちが、イエス様の復活を喜び、人と分かち合うためには、このイエス様の一言に注目する必要があります。

 二人の婦人が、弟子たちとイエス様の復活の喜びを分かち合うことは容易なのとではありませんでした。そのため、一定の距離が保たれていなければなりませんでした。なぜなら、伝えるべきその相手に一方的で独りよがりな印象を与えてしまっては、元も子もないことになってしまうからです。ですから、当然、冷静さを失った、ただ「うれしい」という気持ちばかりでは、伝わるものも伝わりません。ですから、そういう意味で、伝えるべき側には、事柄との距離をはっきりさせることが求められることとなり、従って、復活の事実に最初に触れた人々は、できるだけ客観的に自らの経験を伝える必要があったということです。

 しかし、客観的であろうとしすぎると、今度は、返ってそれがうまくない場合があります。距離を取り過ぎるが余り、当事者としての立場が揺らいでしまい、聞く側としては、評論家の話を聞いているような気分になるからです。しかも、この時点での弟子たちほどやっかいな者もおりませんでした。イエス様を裏切っただけではなく、誰一人として、イエス様の復活を信じていなかったわけですから、その気持ちを解きほぐすことは、容易ではなかったはずです。 ですから、そういう意味で、相当気持ちがささくれ立っていたのがこの時点での弟子たちであったということです。けれども、イエス様は、このやさぐれる弟子たちを私の兄弟と呼び、この二人の婦人を弟子たちのもとに復活の証人として派遣するのです。

 兄弟とはつまり、同じ屋根の下で暮らし、同じように命の糧を分かち合い、同じように日々生活を共に過ごす存在のことです。イエス様が、やさぐれるその弟子たちを兄弟と呼んでいるということはつまり、この兄弟と呼ぶ者に対し、復活の喜びを届けようと、イエス様ご自身がそう願っていたということです。ですから、イエス様は、復活が分からないからと、その弟子たちのことを全否定されてはいなかったということです。ダメだというレッテルを貼って、分かる人たちだけでうまくやろうよ、と、そういう形で、復活の喜びが分かち合おうとされなかったのが、イエス様であったということです。だから、本気で大まじめに信じた人々を通して
、復活の事実が伝えられ、結果、ダメだと初めから諦めきっていた人たちとも、復活の喜びが、分かち合われることとなった、押しつけるのではなく、受け手の痛みや状況を見て、一定の距離感を測りながら伝えられていく。喜びを分かち合うということは、つまりは、そういうことであり、それゆえ、人から人へと伝えられることにもなるのです。

 このように、イエス様の復活の喜びは、近いがゆえに距離感を見失った弟子たちのような者にまで伝えられることになったのですが、逆に見るならば、遠すぎて距離感をつかめずにいる人々にとっても、それは同じであるということです。御言葉が、イエス様の復活を客観的事実として伝えることに腐心するのは、復活の出来事というものが、分からない人々ともその喜びを分かち合うべきものだからであり、それをイエス様が強く望んでおられるからです。そして、イエス様がそう望むのは、復活のイエス様がすべての者と共にある方だからです。それゆえ、そのイエス様が不在のままで、復活のプロセスをいくら議論したところで、そこで、復活の喜びが分かち合われることはありません。従って、そうである以上、復活の有無、その是非を問うこと自体、無意味だと、客観的な立場に立って御言葉は、イエス様が共にある、この新たな現実を明らかにしてくれているのです。なぜなら、それは、イエス様の復活においての重要な点は、イエス様が復活してから後のことだからです。

 従って、復活の喜びをもって生きる私たちの立場は明白です。イエス様と共に一つの同じ命を生き、神様の御前へと進み行くことです。そして、それは、前のめりになって喜びを表すもののでもなく、一歩退いたところで冷ややかに眺めるのでもありません。復活の喜びに距離を置く人々と、常に分かち合うことを願い、終末までの歩みを続けるということです。そして、それは、しかめ面で面白みのない姿を現すということではありありません。今日の私たちのように笑顔でいることであり、それがまた、人をして笑顔にさせるし、そして、その笑顔を将来にわたって約束するのが、私たちと共にある復活のイエス様というお方なのです。

 ですから、復活を信じる私たちの歩みは、そういう意味で、あなた任せのものとはなりませんし、また、自分だけが、自分だけで、という、独りよがりなものともなりません。神様とイエス様が共にある私たちのことを応援してくださり、応援されている私たちが、こうして共に生きることを許されているわけですから、この二人の女性が、イエス様に兄弟と呼ばれた、ささくれだった弟子たちに復活の喜びをもたらしたように、復活の喜びに背を向ける人々とも、笑みを絶やさずに関わり、神の家族として過ごすのが私たちであるということです。そして、この神の家族としての姿は、イエス様が「それではガリラヤで」と仰るように、イエス様のものとされた人々のいるべき場所で現されることになるのです。

 イエス様の復活を祝う私たちにとって、それは、間違いなくこの藤沢教会であり、イエス様が招くいるべき場所で、神の家族としての姿が形づくられていくことになるのです。ですから、主と共にある私たちは、イエス様と共にある教会で、イエス様と共に新たな目標に向かい、笑顔で歩み続け、そして、歩み続ける中で、愛のある関係を築き、主にある平安の内をこれからも歩み続けるのです。2017年度という新たな一年を、復活の主が共にいます私たちの教会を信じ、笑顔をもってご一緒に歩んで参りたいと思います。

祈り





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