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復活節第2主日礼拝 説教 「私たちの明日は明るい!」

日本基督教団藤沢教会 2017年4月23日

【旧約聖書】イザヤ書      65章17〜25節
【新約聖書】マタイによる福音書 28章  1〜10節

「私たちの明日は明るい!」(要旨)

 復活の主と共に過ごす私たちの暮らしが、その支えと守りの内に置かれているのは明らかです。しかし、その一方、私たちの周辺には、抗いがたい現実があるのも確かです。そして、そうしたものの多くが、私たち人間に起因するもので、その人間の罪ある現実が諸々の問題を引き起こし、私たちを苦しめ、また悲しませることとなるのです。それゆえ、そうした諸々の事柄に、私たちは対処せねばなりませんが、ただ、こうして信仰を得ていようとも、そうした現実に対して、私たちの大半が無力なままであるのも確かなことです。

 けれども、そこで、一つ、はっきりしていることがあります。そのような中で、私たちに語りかけられているものが、御言葉であるということです。このことはつまり、こうして御言葉に聞く私たちクリスチャンの立ち位置とは、この自分ではどうすることもできないところでもあるということです。だから、御言葉もまた、私たちがそうしたところに立って、御言葉に聞くことを求めるのでしょうし、また、そこで、私たちが御言葉に聞くからこそ、私たちは、神様の支えと守りを経験することにもなるのです。従って、私たちが、人に対し、説得力をもって御言葉を伝えることができるのは、そうした御言葉に聞く経験を有するからです。

 では、御言葉が御言葉として語られ、聞かれる、この自分ではどうすることもできない場所に、私たちが立ち続けるとは、一体いかなることなのでしょうか。それは、聖と俗とに分け、私たちが聖と思しきところに片足を突っ込み、何かを行うことではありません。なぜなら、そのような形で導き出されたものは、敵と味方とを分ける二項対立の図式でしかなく、そうである以上、そういうところで語られた言葉によって、人は、持続的かつ安定的な慰めや励ましを受けることはないからです。

 復活の出来事の直後に御言葉が語ることは、復活の出来事自体をなきものとする、主イエスに敵対する人々の悪巧みでしたが、それが、復活の出来事を経験した直後の、主イエスを支持する人々の現実でもありました。ただ、私たちが、こうした事態に取り囲まれたとしても、恐らく、上手に折り合いをつけ、大人として対処するのでしょう。しかし、その一方で、私たちの多くは、そうした自らの対応に疑問を感じないわけではありません。折り合いをつけるということはつまり、妥協し、何かに目をつぶることでもあるからです。そして、その時、私たちが目をつぶるものとは、御言葉と御言葉が語られている現実そのものでもあるのでしょう。ですから、御言葉が、このような形で好ましくない人々の姿をここで示すのは、敵対する者をあげつらうことがその目的ではないように思います。

 私たちがイースターで御言葉から聞いたことは、御言葉が主イエスの復活を客観的事実として語っているということでした。ただし、そこで語られている客観性とは、復活の有無、是非を問うものではありません。御言葉が客観的事実として明らかにするところは、主が共にある現実だからです。従って、私たちが、本日の御言葉に聞いていく場合にも、この現実に立って、聞く必要があります。なぜなら、ここで語られている事柄にも、主イエスを復活させた神の威光が確かに置かれているのは間違いないからです。

 ただ、私たちが先ず知らされることは、十字架と復活の出来事を経ても、現実は、何も変わってはいないということでもあります。それゆえ、この変わっていないという事実に、時に、人は苛立ちを覚え、あるいはまた、そうした現実に果敢に挑み、結果破れ、この世の非情さに幻滅し、絶望を覚えたりもするのでしょう。それが、復活の出来事に対し、何か大きな期待を寄せる人々の姿であり、また、それぞれの体験に基づくそのような思いが、復活に対するネガティブな理解を導き出すことにもなるのでしょう。従って、そのような中で語られる御言葉に、人が幻滅させられたとしても、それは不思議ではありません。ですから、そういう世の中の声を打ち消そうとして、私たちがいくら躍起になったところで、それは、不毛な議論の繰り返しということにもなるのでしょう。

 御言葉が現に私たちに語りかける真実が私たちの背後に後退しているのを見るとき、人が御言葉が語る客観的事実に目を向けることは簡単ではありません。そして、それは、私たちキリスト者にとっても、時に同じことが言えるのでしょう。それゆえ、そうした現実の中で、御言葉を信じ、御言葉の語る客観的事実を明らかにしようとすると、世の人々からは、時に、空想家、理想主義者、できもしないことをできると言っているお利口さんと、そんな陰口をたたかれることにもなるのでしょう。ですから、そこで、私たちがいくら論争を挑み、自らの正当性を主張したところで、何かが改善されることはありません。恐らく、そうした果敢な挑戦は、空想家、理想主義者、お利口さんという陰口に、もう一つ別の陰口を新たに生み出すだけなのだと思います。従って、手をこまねいて見ているしかない現実の中に、ただ漫然と立ち続けることは、復活を信じる多くの人々にとっては、過剰なストレスを与えることにもなるのでしょうが、しかし、そうであるだけに、御言葉が、この復活の出来事の直後に、何一つ変わってはいないというこの事実を、誤魔化すことなく明らかにしていることが大事なのです。

 復活と永遠の命が語られつつも、人の死を経験し、その悲しみに打ちのめされるしかないのが私たちキリスト者でもあります。けれども、それを喜んで受け入れているのも私たちキリスト者です。それゆえ、世の中の私たちに向けられた批判に対しても、それが事実でもある以上、誤魔化すような愚かな真似はしません。それは、私たちキリスト者が、十字架と復活の出来事の上にしっかりと立っているからです。主の十字架の上に立ち、上へ上へと飛び上がるのではなく、下に下にと深く根を張り、じっと同じ所に立ち続ける、それが私たちキリスト者なのです。まただからこそ、この世の抗いがたい現実の中にあって、共にいます主と出会い、自らの将来が、共にある主によって約束されていることを知るのです。ですから、御言葉は、そのように主の約束の許にある私たちの姿を天へとその枝を大きく大きく伸ばしていく木の一生に譬えるのですが、木の一生とはすなわち、私たちにとっては、こうして教会に生きている姿そのものでもあります。

 先週末、愛する姉妹を天へとお送りする私たちに対し、姉妹の人生を振り返る中で、神様が明らかにしてくださったことは、姉妹のその生涯が、その初めよりその終わりまで、主の祝福の中に置かれていたということです。そして、その祝福は、姉妹の上だけに留まるものではありません。五代目のクリスチャンであった姉妹の家族、世代世代でその家族と関わったすべての人々にも同じように与えられているものでありました。そして、それが、教会に生きる私たちの姿そのものでもあると言うことです。御言葉が「そこには、もはや若死にする者も年老いて長寿を満たさないものもなくなる。100歳で死ぬ者は若者とされ、100歳に達しない者は呪われた者とされる」と語るように、私たちの立つところに、祝福を惜しまず与えるこの神様の御心は、変わらずに置かれているのです。

 この世の抗いがたい現実ゆえに、私たちもまた、その受け入れがたさから現状を見つめ、それを全否定したり、また全肯定したりと、自分の気持ちの上を行ったり来たりするものです。そのためにまた、結果、数々の過ちを犯してしまうこともあるのです。けれども、十字架と復活の出来事を信じ、神様との関係性に生き、そこに留まる私たちのことを、神様は、それでも、その祝福から除外されることはありません。過酷な現実に飲み込まれ、私たちが神様との関係性の外に身を置いてしまったと後悔するその時にも、神様との祝福された関わりは失われてはいないのです。従って、イスラエルが荒廃の極みにおいて聞いている神様の創造される新しい世界は、空想、理想の世界ではありません。それが、主と共にある私たちの現実であり、やがて私たちの誰もが経験するものなのです。今はまだ、その完成を見るに至ってはおりませんが、完成を見ないこの時にも、私たちが新しく創造されるこの世界へと歩み続けるため、神様の祝福は豊かに与えられているのです。悲しみ、苦しむ私たちが心から喜ぶ者へと変えられることになるのは、それゆえのことなのです。 ですから、このことをもう一度心に留めて、主にある希望の内に留まり、喜びをもって新しい歩みへと進み行くその姿を明らかにする私たち藤沢教会でありたいと思います。

祈り





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