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復活節第3主日礼拝 説教 「あなたの口にある主の言葉は真実か」

日本基督教団藤沢教会 2017年4月30日

【旧約聖書】列王記上      17章17~27節
【新約聖書】マタイによる福音書 12章38~42節

「あなたの口にある主の言葉は真実か」(要旨)

 信仰生活において、忘れることのできない人が必ず何人かはいるもので、列王記に登場するこの女性にとって、それがエリヤであったのは間違いありません。ただ、この女性にとってエリヤが忘れ得ぬ人となったのは、春風のような心地良さが理由ではありませんでした。一人息子を失うという経験は、言葉で言い表すことのできない苦しみをこの人にもたらしたのですが、列王記上17:18で、御言葉は、その整理できない苦しみを「神の人よ、あなたは私にどんな関わりがあるのでしょうか。あなたは私に罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」と語らせます。そして、その怒りの矛先をエリヤに突きつけるのですが、そこで、もし、私たちが、エリヤのようにこのような鋭い刃を人から突きつけられたとして、どんな態度を取るのでしょうか。

 その人との距離が近ければ、その人の悲しみが自分自身の悲しみとなり、言葉を失うのでしょう。けれども、その人との距離が、自分の中で遠かったらどうか。恐らく、何もせぬまま、安全なところへと退き、そして、真面目な私たちは、その場を後にしたことへの負い目を感じるのでしょう。しかし、そこで、自らの力不足をいくら嘆いたところで仕方ありません。「しなかった」ということがすべてであり、ましてや、良きサマリア人の譬えをも知る私たちは、自らが神様に喜ばれていないとの思いにも至るのでしょう。それゆえ、後悔の念だけがその後も残り続け、普段は蓋をして見ないようにしていても、時々、その蓋が開いて、隠していたはずの正直な自分の姿が顔を覗かせることにもなるのです。私たちの長い人生の中で、そういうことが必ず一つや二つあり、結果、解決のつかない問題に、私たちはどこまでも追いかけ回されることになるのです。

 そこで、葬儀の際によく読まれる詩編23編を思い起こします。詩編23編6節には、「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う」とありますが、そこで言われている恵みと慈しみとは、必ずしも、うれしいばかりではありません。向き合うことを避け、問題を先延ばしにするしかないことが、私たちが生きていく中には、いくつもあって、そして、その中の多くは、時間が解決してもくれるのでしょう。けれども、いつまでもその心に棘のように突き刺さって残り続けるものもあるのです。そして、ありがたくないことに、神様は、私たちをどこまでも追っかけ回し、棘のように突き刺さった問題を私たちの目の前に置くのです。先ほどの詩編23編の御言葉は、この有り難くないことを含め、恵みと慈しみと呼んでいるわけですが、ただ、このことは、裏を返せば、私たちが避けたいと思うことも、私たちの人生にとっては不要ではないということです。つまり、神様の恵みと慈しみを経験する上での大切なものなんだと、そう信じて、大事に抱えておいていいということです。

 一人息子を失ったこの女性は、エリヤに対し、神の人と、二度、呼びかけているのですが、初めは、エリヤのことを呪い、拒絶し、自らの定めに絶望したその時でした。そして、次が、「今私は分かりました。・・・」と感謝の思いで一杯になった最後のところでした。ただ、この女性が、この直前でエリヤの奇蹟を経験していることを考えますと、エリヤのことを恨む以前に、「もう一度、奇蹟をお願いします」と素直に頼んでもよかったはずです。ところが、それをしなかった。それは、以前の経験に頼ることができないほどに、この母親の絶望が深かったからなのでしょうが、しかし、そのような状態にありながら、この母親は、エリヤのことを神の人と呼ぶのです。

 エリヤに対する神の人よとの呼びかけは、その絶望の深さと同時に、それに左右されることのない一貫した信仰を言い表しています。従って、私たちは、この母親の矛盾する気持ちと向き合わなければならないのですが、けれども、矛盾と向き合うことを避け、私たちは、一貫的整合性を求めてしまう。破れたものではなく、整ったものを求めてしまう。甦りの事実に感謝するこの母親の気持ちばかりに目が向くのは、そのためなのでしょう。けれども、この母親は、感謝で一杯になったその時にだけ、エリヤのことを神の人と呼んだわけではありません。絶望と喜びと、まったく正反対の心持ちの中で、この女性は、エリヤのことを神の人と呼んでいるのです。

 この母親は、自分のちっぽけな経験など通用しないほどの悲しみに包まれたからこそ、呪うし、恨むし、腹が立ったわけです。にもかかわらず、エリヤに向かって神の人よ、と訴えているのは、自分の思いに押しつぶされそうなこの時も、神による外からの守りがあると信じていたからです。だから、結果、この有り難くない出来事を通して、神への感謝を新たにすることができたのですが、 このことはつまり、仮に信仰があったとしても、経験がなければ、直ちに感謝の言葉には繋がらないということであり、また、一度経験したからそれで信仰のすべてが分かるものでもないということです。 私たちの信仰とはつまり、新たな恵みの経験を積み重ねていくものであり、恵みの経験を新たにすることなくして、信仰の醍醐味を味わうことはないということです。

 私たちに安心をもたらすはずの秩序が崩壊し、突如として、死と背中合わせの場所に置かれることがあります。私たちが絶望を感じるのは、ちょうどそのようなときであり、だから、そうならないための安全装置が必要なのです。律法学者らが、ここでイエス様に徴を求めるのは、彼らの固定した考え方が、−彼らはそれを信仰と理解していたのですが−、それがイエス様によって脅かされるのを感じたからです。ただ、イエス様に脅威を感じるのは、彼らだけに限ったことではありません。何かを信じるということには、そういう面が必ずついて回るもので、従って、その信仰が脅かされたとき、そこで徴を求めるという点では、私たちもまた例外ではありません。 死と背中合わせの状況の中で、私たちが、「奇跡を、神風を」と、そればかりを願うことからも、それは明らかです。

 聖書は、私たちが絶望しないとは言いません。十字架の上の主イエスが深い絶望を味わい、復活後もまた、その絶望の傷口を弟子に示したように、主を信じつつも絶望を味わうことがあるのです。この母親にとって、それは、愛する我が子を失うということでありましたが、けれども、神様は、絶望する母親に我が子の命を返し、また、絶望する弟子たちに対しては、復活の主イエスとの出会いを与えたのです。それは、主を信じ、主と共にある命が、絶望を抱いたままで終わることはないからです。つまり、私たちの思い願う秩序が崩壊し、その安心のよりどころが失われたとしても、私たちの命は神様によって守られているということです。ですから、この母親の感謝の言葉は、エリヤに対して、というよりも、エリヤに言葉を与えた神様への感謝です。それゆえ、私たちもまた、この御言葉が語れている方向へと目を開かれていかなければならないのです。

 そこで、御言葉へと目が開かれた私たちは、神様の恵みを新たに経験すべく、御言葉に従うことになるのですが、このことはまた、イエス様が、御言葉を語ったヨナやソロモンよりも、御言葉に聞き従ったニネベの人々とシバの女王の方を評価していることからも明らかです。なぜなら、御言葉に聞き従うからこそ、恵みの経験を積み重ね、私たちは、神様の外からの守りを具体的なものとすることができるからです。ただし、それは、新たな宗教的固定観念を生み出そうとして、そのように語られているわけではありません。従うから、だから、支えと守りがあるのではなく、私たちが、キリストの命にすでに生かされているがゆえに、私たちの命は、神様によって常に絶えず外から守られているということです。パウロが、「キリストを着る」と言っていることは、つまりは、そういうことなのです。しかし、私たちは、イエス・キリストではありません。従って、そうではない以上、身に纏う主イエスが、初めから私たちの身の丈にピタッと合うことはありません。だぶだぶだと感じることもあるでしょうし、ぴちぴちだと感じることもあるでしょう。そもそも、着ていること自体我慢ならないということもあるのでしょう。けれども、そこで、それでも恵みの経験を積み重ねていくからこそ、着ていることへの違和感が少しずつ薄まり、身の丈に合っていくことにもなるのです。ですから、不愉快なことも、絶望的なことも、イエス様の命に生かされている私たちにとって、神様の御心を恵みとして信じるためには必要なことなのです。

 共にいる、共にある、ということは、直ぐにその意味のすべてが分かるものではありません。それだけに、苦しく辛い思いを重ねていかなければならず、またそのために、絶望感を深めることもあります。それゆえ、私たちも、こうあるべきだとの固定観念を求めてもしまうのです。けれども、イエス様がその身をもって明らかにしてくださったように、私たちの命は、神様によって守られているのです。ですから、私たちの命を支え導かれる方の声のする方に常に心を開き、感謝して、そして、堂々と、イエス様のように、これからも御言葉を口にする私たちでありたいと思います。

祈り





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先週満開だった八重桜は、葉桜になっていた