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復活節第4主日礼拝 説教 「恥を知るがゆえに」

日本基督教団藤沢教会 2017年5月7日

【旧約聖書】ネヘミヤ記       2章  1~20節
【新約聖書】ヨハネによる福音書 11章17~27節

「恥を知るがゆえに」(要旨)

 「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」ということわざがありますが、ルース・ベネディクトがそんな日本人の特徴的行動パターンを指して、「恥の文化」と規定したことはよく知られているところでもあります。そして、この「 恥」については、今日のネヘミヤ記で「もう恥ずかしいことはない」とあるように、聖書においても度々取り上げられていることでもあります。ところで、この「恥」ということについて、 聖書の中で、 最初に言及されているところはどこでしょうか。それは、創世記2章24-25節です。そこには、こう記されています。「こういうわけで、男は父母を離れ、女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」と。そして、その上で、聖書が取り上げているのが、人間の罪の問題です。それは、素のままの状態を恥ずかしいと感じるところに、この問題の本質的理由があるからです。それゆえ、素のままでいられない人間は、神を恐怖し、その呼びかけにも答えず、神に背を向けることになるわけです。

 けれども、この「恥」という事柄について、私たち日本人は、また違った形で受け止めています。私たちにとって、恥とは、世間やその周辺の人々との関係性の中で捉えられるものであり、だから「旅の恥はかきすて」と言わんばかりに、周囲の目を気にしないですむような所では、平気で恥ずかしい真似を行えるわけです。しかし、その一方、目が届く所では、世間体を気にするがあまり、 恥をかかない、恥をかかせる、ということが、社会生活を営む上での重要な要素ともなる。それゆえ、恥知らずとの烙印を押されることを極端なまでに恐れをなすということが起こってくるわけです。ただ、社会の移り変わりと共に、最近では、以前と比べるとそういうことも大分薄まってきているようにも思いますが、しかし、歴史的に築かれてきたことが、たかだか数十年の変化によって失われることはありません。

 では、日本に生きるクリスチャンとして、恥の文化と罪の文化とその双方に係わる私たちは、どんな振る舞いをなせばいいのでしょうか。それは、いずれか一方の文化を選択するということではありません。なぜなら、私たちは、日本人であることを止めることはできませんし、私たちの歩んできたこれまでの歴史の中にも、神様の御心が、聖霊の働きを通し与えられていたのは間違いないわけです。ですから、自らの歴史を否定し、そこで手にしたことをあたかも御心だと叫ぶような恥知らずな真似が、私たちに求められている姿勢でないのは明らかです。

 ネヘミヤ記にあるように、神の民は、恥知らずな民ではありません。恥を恥として、主にあって引き受けることのできる、信仰故のたくましさをもっている民なのです。だから、一時の恥などものともせずに、異邦人の王に仕え、その庇護の下、神殿再建という目的を果たすことができたのです。それは、絶えず、彼らが祈りの中に神様の御声を聞くことができたからであり、そして、それは、ネヘミヤだけに限ったことではありませんでした。族長物語におけるヨセフ然り、バビロン捕囚を経験したエレミヤ然り、立場を失うような経験をしたとしても、主に信頼するイスラエルの民は、この世からどんなに後ろ指を指されようとも、神の民として、自分らしく生きようとしたのです。それは、彼らが、世間が言うように恥知らずであったからではありません。神に背を向けたその罪と真摯に向き合い、まさに罪を罪として、恥を恥として受け止めたのがイスラエルでもありました。そして、このことはまた、イエス様が、「私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と仰っていることにも相通じ合うところがあります。

 イエス様は、信じることができるかと、神の奥義への信頼を問うのですが、ただ、そう問われたとして、にわかにそれを受け入れられる者はおりません。なぜなら、今日の最後のところで、ラザロの姉マルタが、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております」とそう言いながら、今日の箇所の少し後では、そのマルタが「主よ、四日も経っていますから、もうにおいます」と語っていることからも明らかです。ですから、そう意味で、イエス様の仰っていることは非常識なものであり、それこそ人身をたぶらかす恥知らずな行為と思われても仕方ありません。しかし、信じられない人たちがまた、やがてイエス様の言葉を信じるようになったのです。それは、人々が、イエス様の十字架と復活の出来事を経験するに及んだからでもありますが、人々にこうした変化がもたらされたのは、神様に背を向けた自らの姿を自分のこととして受け止めることになったからです。罪を罪として、神様に背を向けてしまったという恥を恥として、人々は我がこととして経験し、そして、信じるという、この厳かで平安な気持ちを手にすることになったのです。

 ですから、もし、私たちがクリスチャンとしてそれを同じように真摯に願うなら、罪を罪として、恥を恥として、主にあって、恥多き自らの姿と向き合うしかありません。ただし、それは、自らに対し、ネガティブなレッテルを貼ることではありません。恥を恥として受け止めるということは、辛く、苦しいことでもありますが、けれども、そこで、私たちは、主にあって知るのです。主にあって、罪多き、恥多き私たちは、主に受け止められ、そして、主のものとされているがゆえに支えられていると。従って、自らのその信仰を深めたいと願うのであれば、私たちは、この経験を積み重ねていくしかないのですが、けれども、それは、ごてごてといろいろなものをぺたぺた自分自身に貼り付けていくことではありません。むしろ、その逆です。神様に与えられている、私たちの命本来の輝きを取り戻すために、御手に委ね、削り出していただくということです。ですから、そういう意味で、私たちの信仰とは、足し算のようなものではなく、引き算のようなものなのかもしれません。

 ピエタやダビデ像など、誰もが知る作品を数多く世に残したミケランジェロは、その制作過程において、石の中に初めから完成品の姿が見えていたそうです。従って、ミケランジェロのなすべきことは、石の塊の中からすでにある完成品を取り出すことでもありましたが、私たちの信仰も、それと相通じ合うところがあるように思います。

 私たちは、もしかしたら、あれがないから、これがない、だから、自分の信仰はダメなんだ、とそう考えているところはないでしょうか。それは、私たちが信仰を足し算のように考えているからです。けれども、もしそうだとしたら、そのような思いは、正さなければなりませんが、マルタがそうであったように、罪深く、恥多い石の塊に過ぎない私たちが、神様に背を向けたまま、その体裁だけを整えようとしたところで、それで何かが変わることはないのですが、しかし、その石の塊の中に、神様の作品としての完成された姿を見ておられるのが私たちの神様でもあるのです。ですから、そういう意味で、神様ののみ裁きによって、必ず完成へと導かれているのが私たちクリスチャンであり、そうである以上、私たちの取るべき態度は、それをただただ信じることだけです。

 ただ、忖度のない神様のノミさばきは、時として、私たちに痛みをもたらすことがあります。けれども、そこで、罪を恐れ、恥を隠し立てするのではなく、堂々と神様の御心にお任せするのが、罪と恥を知る私たちクリスチャンでもあるということです。だから、私たちもまた、ネヘミヤのように、逆境に遭っても、御心を御心として、我が身に引き受けることができるのです。罪深く、恥多き私たちの命を、イエス様がご自分のものとしてくださったわけですから、その罪と恥を、何かができないことの理由とすることもしないわけです。つまり、神様の作品としての自らの完成を神様の御心に委ねつつ、待ち望むことができるのが、私たちであるということです。

 私たちが共にあること、イエス様と共にある私たちが世間と係わっていくこと、それは、この世の理屈では推し量れないほどの難しさがあります。けれども、だからこそ、常に覚えたいのです。私たちは、神様の作品として完成を待つ、神様に愛され、その御心のままにその生涯を共に過ごす者なのです。つまり、神様が望んでいることは、私たちの卑屈な態度ではないということです。一緒にいて嬉しいし、楽しいと思って欲しい、そう心から願っておられるのが、私たちの神様だということです。

 従って、私たちが目指すところは、みんなと楽しく、明るい毎日を過ごすということです。だから、神様に背を向けるような恥知らずな真似は慎まなければなりませんし、私たち一人一人が神様の子供であり、その家族である以上、神様とイエス様と、そして、イエス様が招くすべての人々と共に、その日々の暮らしを喜び多いものとするためにも、御心に問いつつ毎日を過ごさなければならないのです。それは、神様とイエス様に愛されているという素のままの歩みをなすということであり、聖書の御言葉と与えられている信仰のみを大切にするということです。つまり、私たちがこの国においてこれまで大切にしてきたことをこれからも大切にしていくこと、この国に活きる私たちに対し、神様が求められるのは、このことに尽きるように思います。

祈り





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