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復活節第5主日礼拝 説教 「命を守り育む方と共に」

日本基督教団藤沢教会 2017年5月14日

【旧約聖書】サムエル記下      1章17~27節
【新約聖書】ヨハネによる福音書 14章  1~11節

「命を守り育む方と共に」(要旨)

 「わたしは道であり、真理であり、命である」と、イエス様が仰るように、イエス様との出会いを経験した人々の、その進むべき道が閉ざされることを、イエス様が望むことはありません。従って、イエス様との出会いの場でもある教会を、その場にふさわしく整えることは先に召された私たちの使命であり、そのためにはまた、すでにイエス様と出会った私たちが、イエス様とどこまでも同じ一本道を共に歩み続けなければなりません。ところが、その道が突然断たれたとしか思えないような経験をすることがあります。イエス様と出会い、イエス様ご自身によって、 場違いな場所に置かれたと感じているのが、この時イエス様と共にある弟子たちでもありましたが、そのイエス様が、弟子たちに向かい、心騒がせるな、と仰るのです。それは、イエス様といつまでも一緒にいたいと願うその思いがイエス様には届かず、弟子たちが、取り残されるとのその不安に支配されることになったからです。ただ、心騒がす弟子たちに、「心騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい」とのイエス様の言葉が、果たしてどこまでその心に響いたことかと思います。むしろ、イエス様ご自身によって、進むべき道が閉ざされたと思い込む弟子たちには、イエス様の発言自体が、場違いな印象を与えただけだったに違いありません。

 ですから、トマスの「分かりません」との問いかけも、また、フィリポの「そうすれば満足します」との要求も、これまで、何度となく場違いだとしか思えない所に、一人ぽつんと取り残された経験を持つ私たちには、分からぬことではありません。愛する者との別れなど、生を切り裂くような深い悲しみに包まれた経験を持つ者にとって、命に至る道は、最も知りたいことでありましょう。また、それを約束する神との出会いは、何にもまして望まれることでもありましょう。ただ、そこで、イエス様が伝えることが事実であるとしても、その実感が伴わなければ、伝えられた身としては、それはないに等しいことでありますし、結果、場違いな場所に置かれているとの印象だけが際立つことにもなるのでしょう。ですから、トマスやフィリポの問いかけは、イエス様の言葉への期待値の大きさだけが、彼らをしてそのように語らせたわけではないように思います。イエス様の言葉が信じられない以上、出会いそのものをなかったにしたいとの思いが、彼らをして、そのよう言わしめているとも考えられるのではないでしょうか。なぜなら、イエス様がいなくなるとの彼らの思いは、それだけ、絶望的なものでもあったからです。

 しかし、ここでイエス様が仰っていることのすべてが真実である以上、私たちが聞くべきことは、そのイエス様の真実な声だけです。けれども、悲しいことに、私たちは、そこで、イエス様の気持ちと自分自身の気持ちとをピタッと重ね合わせることができないのです。それゆえ、イエス様の真実な声に耳を傾けようとすればするほど、イエス様と何一つ交わることのない現実しか、私たちは見出すことができません。ですから、弟子たちの気持ちに引き寄せられる私たちにとって、イエス様の御前にこうして置かれているということは、場違いな印象を与えるだけでなく、出会いそのものがそもそも無意味であったとの印象を受けるだけなのかもしれません。ただ、また、だからこそ、道であり、真理であり、命であると言われる一本道をまっすぐに脇目も振らずに突き進むことが求められているとも言えるのでしょうが、しかし、必死になって最後の一歩を踏み出そうとしてしている弟子たちに向かって、イエス様が繰り返し語ったことは、彼らを説得するに足ものではありませんでした。

 弟子たちは、イエス様がどこに行くかを知っており、そのイエス様が向かう先にいます父なる神様もすでに見ているのだと、イエス様は、すべてを分かったこととして語るのです。そして、弟子たちがすでにイエス様と出会っている以上、イエス様からすれば、それは事実その通りのことでもありました。ですから、分からない弟子たちになぜ分からないのか、なぜ、私と神様とが一体であることを信じないのかと、イエス様もまた畳みかけることにもなったわけです。ここに、去って行くイエス様と取り残される弟子たちとの埋めがたい溝を見ることができるのですが、それにしても、どうして、イエス様は、意固地なまでに自らの主張を通そうとするのでしょうか。その意図するところは分かるのですが、イエス様がなさっていることは、現実問題として、意味のないことです。愚か者に向かって、どうしてお前は愚かなのかと言って、それで、愚か者が賢い者になれるでしょうか。つまり、イエス様の仰っていることは無いものねだりに等しいことでもあったということです。ところが、イエス様は、それを繰り返し言い続けるのです。このことはつまり、イエス様には、弟子たちとの溝を自ら進んで埋めるつもりはなかったということでもあります。

 そして、そこで、イエス様が、弟子たち、私たちに求めることは、ただ信じるということでもありますが、納得の行く理由すら示さず、ただ信ぜよ、と言い続けるイエス様の態度は、甚だ不誠実だとも言えるのでしょう。しかし、この不誠実だとの誹りを甘んじて受け止め、なお、イエス様は、ただ信じることを求めるのです。それは、私たちにとって、必ずしも心地いいものではありません。けれども、私たちをそうした不安定な場に置いてまで、ご自分の言いたいことを言おうとしているのは、場違いな場所に置かれていると思い込む私たちにとって、この、不誠実しか思えない対応こそが、去って行こうとするこの時、最も必要なことでもあったからです。

 サウルとヨナタンの死を嘆くダビデは、その置かれている状況にもかかわらず、神を呪い、現実を呪うことはありません。愛する者の死を悲しみとして、ただ悲しむだけなのです。このことはつまり、聖書が、喪失感、絶望感など、人間を危機的状況に貶めるネガティブで、場違いとも思える状況を、決して排除していないということです。ただ、それを引き受けることはとても困難なことでもあります。ですから、もし、それを引き受けるなら、人間には外より支える力が必要なのですが、ところが、場違いだと決めつけ、この外よりの力を信じる根拠を失った人間には、この外よりの支えに対する気づきすら閉ざされてしまうことになります。従って、イエス様の拘りは、私たちの限界を超えたところを支える、この外からの力に目を向けさせようとしていたからなのですが、その拘りとはつまり、イエス様と共にある私たちの現実そのものに対してでありました。

 イエス様は、自らの主張するところを、ただ主張したいがために意味もなく、言いたいことだけを言い続けているのではありません。「私がいるところにあなた方もいる」と、弟子たちにこう語るように、イエス様が伝えたかったことは、私たちが生きている場がどういうものであるのかということです。 それは、イエス様が招いてくださっている場所であり、そこは、私たちにとって、何があろうとも場違いな場所などではありません。だから、私たちは、「私がいるところにあなた方もいる」とのこの言葉をただ信じればいいのですが、しかし、ただ信ぜよ、との御言葉は、とてもシンプルで、行間があまりにも広すぎるために、時にとらえどころのないもののように、人の目には映ってしまうのです。けれども、このとらえどころのなさは、イエス様の度量の狭さを現すものではありません。シンプルであるがゆえに、返って、その大きさそのものを現しているのです。従って、まただからこそ、私たちは覚えなければなりません。イエス様も神様の内にあり、私たちもイエス様の内にある、この一体感、この経験は、私たちの狭い考えにそのすべてが収まり切るものではないということを、です。

 私たちは、ここが自分の居場所ではない、そう思うことがありますが、その時、その場所に、イエス様は共にてくださり、そう思う私たちを天の御国へと導こうとされているのです。そして、その場所とは、私たちにとっては、藤沢教会であり、藤沢教会にこうして連なっているということで、私たちは、神様の御心の内にある自らの姿をその中に見出すことができるのです。ですから、私たちに求められていることは、この今に安心し、この今を喜ぶことです。また、私たちがこの今を安心し、喜ぶことができるからこそ、天の御国は、誰に対してでも開かれていることが、私たちを通して、こうして藤沢教会に連なり、係わるすべて人々にも明らかにされるのです。だから、私たちは、この藤沢教会をイエス様が望まない場違いな場所にしてはなりません。イエス様が共にいて、天の御国が訪れるその時まで、イエス様の平安に満たされた場として、自らを用いていただき、イエス様が招かれる一人ひとりと御国へと向かう一本道を、これからも歩み通さなければならないのです。それは、イエス様にとっても、私たちにとっても、イエス様の御心の内に置かれている人々にとっても、藤沢教会が、主の御心から離れた場違いな場所ではなく、すべての人々に開かれた神様に喜ばれる場所だからです。それを誰よりもよく知っているのが私たちであるわけですから、こうしてこの場に生かされていることに感謝し、イエス様と共にまた新たな一歩を踏み出す私たちでありたいと思います。

祈り





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