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復活節第7主日礼拝 説教 「心の目を開いてください」

日本基督教団藤沢教会 2017年5月28日

【旧約聖書】エレミヤ書    10章  1~11節
【新約聖書】ルカによる福音書 24章44~53節

「キリストにお会いしてから」(要旨)

 武義和先生をお招きし、主の恵みの中に、聖歌隊、子ども聖歌隊によるチャペルコンサートを終え、この度の出来事は、私たちの記憶にしっかりと刻みつけられることになったのでしょう。また、この出来事の中に、今の私たちを語る上でのすべてが現されているとも言えるのでしょう。なぜなら、私たちが教会としての時を刻むということは、そうした主の恵みを一つ一つ積み重ねていくことでもあり、御言葉が「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」と語るように、主の証人とは、そのように主から多くの恵みを受ける人々のことでもあるからです。それゆえ、私たち藤沢教会の可能性の大きさを知らされた先週のコンサートの中に、私たちは、来年の二月には百周年を迎える藤沢教会の、この百年の歴史を見ることができるのです。

 ただ、それについては、私たちは誤解してはならないように思います。なぜなら、歴史の中には、美談もあれば、ゴシップもあり、それ以上に、その歩みの大半を占めるのは、記録に残されることのない、何気ない私たちの日常的なやり取りだからです。また、だからこそ、日々、神様の御前に置くその姿を通し、神の家族としての教会の姿は、具体性を帯びることにもなるのです。ですから、誇らしいものも、また恥ずかしいものも、それぞれの個性がぶつかり合うそうした様をも、私たちは、だから、神様からの恵みとして、感謝して受け止めることができるのです。

 従って、教会の歩みとはつまり、理想化するものでもなければ、矮小化するものでもないということです。御言葉が、神様の御前に立つ共同体の姿を理想化せず、そのありのままを示すのはそれゆえのことであり、私たちもまた、自らの歴史を見つめようとするなら、掛け値ない、主の恵みに満たされたありのままのその姿を見出す必要があるのです。そして、それは、イスラエルが、偶像礼拝を固く禁じられていたにもかかわらず、繰り返し金の子牛を拝むような真似をし続けたように、そこで見出しうるものとは、罪深く、愚かで、滑稽な、神の御前に立ち、時を刻む共同体の姿でもあるということです。そして、御言葉が、その偽らざる様を率直に記すのはまた、人が理想とするものは、時間に耐え得ず、やがて朽ち行く定めにあるからです。

 従って、御言葉が、この日私たちに語りかける「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神を褒め称えていた」と語ることは、私たち信仰者の姿を現すと同時に、しかし、その姿を一つの理想として語ってはいないということです。それは、ローマの支配下にありながら、こうして御言葉に聞くルカの教会にとって、教会としての時を刻み続けるためには、理想などという朽ち行くものではなく、朽ちることのない神様の導きに対する開かれた視点が必要であったからです。それゆえ、この続けるということが、教会にとっての最大の課題となり、また、それ以前に、神様に導かれ歩む神の民イスラエルにとっても、それは同じであったということです。

 エレミヤが、その神様に背く様を語るのは、時を刻み続けるということが、たとえ神の民であっても、理想を語るようにはうまくいかなかったからです。そして、この生々しい現実の中に生きるのは、イスラエルだけでなく、私たちも同じです。ただ、そうした中で、主の日を待ち望み続ける私たちは、こうして福音に聞くことが許されているわけですが、このことはつまり、福音に聞き、語り続けるということは、理想を掲げ、理想を振り回すようなものではないということです。なぜなら、私たちが神の家族として、イエス・キリストの現実に立ち、歩み続ける中で明らかにされる真実こそが福音でもあるからです。

 ですから、私たちのそうした歩みの中には、当然のことではありますが、私たちにとっての不都合なものをも包み込むことにもなります。主の昇天の後、地上に残された弟子たちにとって、共に集まり、礼拝し続けるということは、気分がいいばかりではなかったからです。つまり、礼拝で味わい知る喜びとは、現実を誤魔化し、取り繕うことで得られる快感などではなく、主と共に正直に生きることで与えられる喜びであるということです。従って、気分の悪くなるもの、目を背けたくなるもの、そういうものとも触れ合っているという感覚を同時に含むものでもあるということです。そして、教会が、そのような面倒な歩みを続けることができたのは、何があろうとも、主を間近に感じ、思う経験を、人々は、日々、積み重ねることが許されたからです。

 それゆえ、ここに記されている主を礼拝する弟子たちの姿とは、間もなく百年を迎えようとしている私たちの、次の百年に向かうそのままの姿でもあると言えるのでしょう。そして、それは、私たちにとっては、雲を掴むようなものではありません。すでに私たちが、この百年味わい続けてきたものであり、戦争中であろうが、なんであろうが、主を礼拝することを辞めなかった私たちの歩みの中に、この世に生きる信じる者の姿がしっかりと現されているのは間違いのないことだからです。 

 そこで、次なる百年に備えるため、今、私たちが心すべきことは何か。それは、「主と共に私たちはある」という現実にしっかりと立つことです。しかし、このことはまた、主の昇天を経験した弟子たちがそうであるように、「主はどこに」との思いをひた隠しにすることではありません。イエス様をその目で見たり、その手で触れたりすることが叶わない以上、「今すぐにここで」との要求に対しては、誰も応えることができないからです。けれども、そのことを理由に「共にいます主」の存在を否定するのは誤りです。なぜなら、不安定とも思えるそうした状況の中で築かれてきたものが、私たちの歴史でもあるからです。ですから、いつ戻るともしれぬ主を待ち続けるということは、つい横道に逸れたくもなります。偶像礼拝とは、そういう、つい寄り道したくなってしまう人間の心根の弱さに起因するものなのかもしれませんが、だからこそまた、道を踏み外さぬよう、私たちは、固く自らを戒めていなければならないのでしょう。

 しかし、どんなに自らを叱咤激励しても、その心根の弱さに敗北し続けてきたのがイスラエルであり、教会でもありました。私たち藤沢教会もそうです。百年史に目を通せば、そこに、神様に許しを請うしかない自らの姿というものを認めることができるからです。けれども、眉をひそめたくなるような出来事が、この百年の中に置かれていたとしても、私たちには、それをそのまま記す正直さがあり、また、この正直さゆえに、今があるのです。ですから、先週私たちが味わった藤沢教会の可能性の高さというものは、この正直さゆえのことでもありました。

 そして、私たちの歴史を現すこの「正直さ」でありますが、それは、イエス様への感謝とお詫びとを、日々、私たちが言葉に表す中で養われるものでもありました。「ごめんなさい」、「ありがとう」と、そう言い続ける「素直さ」が私たちの歴史を築いてきたということです。ですから、その歩みは、素直なだけに行き過ぎることもあり、また、素直さゆえに、精一杯、一生懸命という真面目さとして表されることもありました。そして、先週、あれだけ大勢の人たちが教会に足を運んでくださったことは、親しい方々を誘う私たちが、主が共にいますことを素直に正直に喜んでいるからでもありました。

 そして、礼拝を献げる私たちが、そのようにイエス様を前にし、正直で素直でいられるのは、イエス様のことをアイドルのように、偶像のようには受け止めるのではなく、現実のことと受け止めているからです。つまり、私たちにとってイエス様とは、リアリティーをもった家族の一員であり、私たちは、そのことを実際にイエス様と共に歩む中で知らされてきたのです。ですから、どの神様が一番いいかなどと、えり好みをするような愚かな真似はしません。礼拝という、イエス様と私たちとが一つであることを確かめる場、ひとときが私たちには与えられており、この聖なる方との直接的な関わりの中に置かれている自らを、私たちは確かめることが許されているからです。

 それゆえ、礼拝を通して、私たちは、イエス様に対しても、神様に対しても、妄想を膨らませるような浅ましい真似はしません。聖なるものと触れ合っているという経験が、私たちを謙虚にし、素直にもさせるからです。イエス様を信じる私たちの正直な姿とは、そういうイエス様との触れ合いの中で養われるものであり、また、それを体験しているからこそ、私たちは、これからも、その喜びを素直に正直に人に伝え続けることができるのです。偽るのでもなく、また、誤魔化すのでもなく、さらには、妄想を膨らませるのでもなく、自らの歴史を素直に正直に受け止め、新たな百年に備えつつ、神様が私たちの下へと送り出す人々と共に、この喜びを分かち合う日々をこれからも歩んで参りたいと思います。

祈り





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