印刷用PDF(A4版2ページ)
ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝 説教 「主の霊に覆われて」

日本基督教団藤沢教会 2017年6月4日

【旧約聖書】ヨエル書   2章23節~3章5節
【新約聖書】使徒言行録  2章1~11節

「主の霊に覆われて」(要旨)

 ペンテコステという晴れの日を、皆さまとこうして迎えられましたことを心より感謝いたします。それは、この聖霊降臨の出来事なくして、私たちが出会うこともなければ、それ以前に、イエス様との出会いを経験することもなかったからです。それゆえ、私たちキリスト教会に属する者は、クリスマス、イースター、ペンテコステと、この三つの祝祭日を特別な日として大切にするのですが、ただ、晴れの日のその祝い方を見て行くとき、ペンテコステは、クリスマス、イースターと比べ、いささか華やかさに欠けるようにも思います。それは、日本という特殊な環境下ゆえのことではありません。ついこの間届いた「ペンテコステ号」と銘打ったキリスト新聞にも、ペンテコステの喜びを伝える海外からのニュースは、一つも掲載されてはおりませんでした。それは、伝えるべきめぼしい情報がなかったからなのでしょうが、このことはすなわち、ペンテコステについては、教会が積極的には情報をあまり発信してはいないということでもあるのでしょう。けれども、それには、一つの理由があるように思います。
 「あっけにとられた」(使徒2:6)、「驚きあやしんだ」(2:7)、「新しい葡萄酒に酔っているのだ」(2:13)と、教会が編纂し、教会の礼拝において正しく読み継がれてきた聖書がこう語るように、御言葉は、聖霊降臨の出来事を手放しで喜んでいるわけではありません。それは、人間の感覚を越える出来事を人の語る言葉で表現しようとするとき、その限界ゆえに、どうしても自制的にならざるを得ないからです。ですから、この、御言葉の手放しでないところに、聖書の誠実さと正直さを、私たちは見ることができるのですが、このことはすなわち、御言葉がそのような姿勢でこの出来事を語る以上、御言葉に聞く私たちは、この誠実さと正直さの枠を越え出てはならないということです。では、それには、どうすればいいのか。語られていることをそのまま真に受ける必要があるということです。

 けれども、この、真に受けるということを堅苦しく考えて欲しくありません。真に受けるということはつまり、目に映ること、肌で感じること、日々感じるであろう一つ一つのことを、私たちが大切にするということです。ただ、そうしたことは、枝葉の部分であり、本質的なことではありません。それゆえ、不要だと言われれば、返す言葉もないのですが、しかし、だから、そういうものがなくてもいいということでもありません。なぜなら、私たち人間は、多くの場合、本質的なものよりもむしろ枝葉の部分に心引かれるものであり、また、枝葉の部分があるからこそ、それを窓口として、本質に触れるということがあるからです。ですから、私たちの信仰は、そういう意味で、狭いものではありません。無理に本質的なものと周辺的なものとを分けるのではなく、幹があって枝葉があるように、そもそも一つであるものを分けて捉えようとするところに無理があるわけで、従って、真に受けるということはつまり、この一つであるというところを、私たちがその生活の隅々において、どう感じ、受け止めているかということです。

 そこで、改めてペンテコステの出来事について説明すると、これについては次の三つのことが言えると思います。一つは、聖霊の働きが起こったということ、二つ目は、新たな方向性が示されたということ、そして、三つ目は、新たな方向性が示され、その結果生じた変化が、一過性のものではなかったということです。そして、この一連のことは、ペンテコステを経験した人々にとっては、雲を掴むようなものではありませんでした。「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(2:11)とあるように、ペンテコステは、それを語る者にも聞く者にも、それが「神の偉大な業」であるとの共通認識が初めからあり、それゆえ、出来事そのものが人々の間で共有されることにもなったのです。そして、それが教会の原点として置かれているわけですから、この「同じように一緒に」というところに、私たちも立たなければなりません。なぜなら、この原点に立ち、同じように一緒になって、神の偉大な業を語り、そして、聞いてきたのが、この世における教会の姿でもあるからです。

 ある人が、様々な言語が飛び交うこの時の教会の姿を国際空港に譬え説明するのを聞いたことがありますが、教会が世界中へと広がった今日の姿を思いますと、その譬えは当を得ていると言えるでしょう。だから、私も「なるほど」と思わされもしたのですが、けれども、その説明は、後々の姿を語る上では有効であっても、起こった時点での説明としては、いささか不十分であるようにも思います。なぜなら、教会は、本質的に人が行き交い、通りすぎるだけのものではないからです。恵みを分かち合い、共にあり続けるのが教会であり、もしただすれ違うだけのものだとしたら、主の教会が世界中に広がりを見せることもなかったはずです。「同じように一緒に」ということが、先ずあって形づくられてきたのが教会であり、また、それを可能にさせたものが、一つであるという神様との距離の近さでありました。つまり、神様と触れ合っているというこの感覚こそが、その後の教会を形づくる上での具体的な大きな力となったということです。

 ですから、私たちが御言葉を真に受けるためには、神様との近さを実感する必要があるのですが、聖霊が注がれ、そこで実現したことが、この神様との近さでもあったということです。そして、この近さは、人を選ぶことはありません。ペンテコステの出来事が人々の上に臨むに際し、神様が一人ひとりのその資質を問うたわけではないように、その動機が純粋か不純か、人格が高潔であるか否かなどといったこととは関係なく、神様は、聖霊を注ぎ信じる群れを起こされたのです。従って、主の霊が注がれた教会とは、純粋さに溺れ、不純な動機ゆえに流され、その高潔さゆえに人々を見下すような、そんな卑しい姿を現すことはありません。この世にあって、主の教会として立ち続ける力を与えられたものなのです。それは、神様が、不名誉な立場に身をやつすイスラエルの人々に向かい、「私の民は、とこしえに恥を受けることはない。イスラエルの内に私がいることをお前たちは知るようになる。私はお前たちの神なる主、他に神はいない。私の民はとこしえに恥を受けることはない」(ヨエル2:26-27)と約束したように、神様によって名誉回復され、一つとされた主の教会は、それゆえ、御言葉がペンテコステの出来事を伝えるそのままを生き、神様に対し正直に誠実に歩み続けることになったのです。それゆえ、パウロは、そんな私たち主の教会に生きる者の姿を次のように語ります。

 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。・・・・私たちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。・・」(ガラテヤ5:22以下)と、パウロはこう語るのですが、それは、ペンテコステにおいて私たちに臨んだこの大きな変化が一過性のものではないからです。イエス様を頭とする教会に生きる私たちと神様とは、互いに触れあっており、この関係性は、途絶えることがなくいつまでも続いていくものなのです。従って、聖霊を受けた地上における教会は、そこで、神様とイエス様との一体感が約束されている以上、パウロが語るそのままの姿を現し、ですから、大まじめに真に受けて生きるということはつまり、この一体感のままに生きるということであり、また、「霊の結ぶ実が愛である」とパウロが語るように、神様の愛に生きるということでもあります。

 しかし、この愛に生きるということですが、それは、私というものに拘り、愛に溺れ、愛に流され、愛にしがみつくことではありません。愛のない己の限界を知るところから始まるものであり、それを知るために、この世においては恥を積み重ねていくということでもあるのです。従って、パウロが言うところの教会に生きる者の正直さと誠実さとは、恥多きこの世を歩むがゆえに与えられるものであり、にもかかわらず、神様とイエス様と一つとされている私たちが、主の教会から離れず、そこにしっかりと根を張って留まり続けるからこそ、神様との一体感を感じる私たちは、聖霊という大きな力を受けて、大きく変えられていくことになるのです。世の人々が、私たちの愛ある暮らしを知るのは、そのような私たちの神様の近くにある暮らしに触れるからであり、従って、この世における教会の姿とは、神様を近くに思い、近くにいます神様が聖霊を送り、そこで起こされる共同体という幹と日々の暮らしを通し現される枝葉の部分によって具体化されるものでもあるということです。

 では、同じように主の教会に生きる私たち一人ひとりにとって、今の藤沢教会はどのように映っているのでしょうか。その思いは必ずしも一致しているわけではないないのでしょう。けれども、霊の結ぶ実である愛に私たち一人ひとりが生きるとき、そこに必ず交わりが生じ、恵みの分かち合いが生じます。そして、私たちがそこで起こされる教会という交わりに留まり続けることで、私たちは、教会というこの交わりを通し、神様との近さを周辺の人々とも必ず分かち合うことになるのです。そして、私たち藤沢教会は、間違いなく、これからも神様の直ぐ近くで歩み続けることが許されている主の教会であるのです。ペンテコステの聖霊降臨の出来事が、聖霊を受け、日々、歩み続ける私たちに向かって、このように語りかけてくれているように思います。ですから、この幸い、この恵みを日々感じつつ、感謝の内に新たな時を過ごして参りたいと思います。

祈り





 晴 22℃ at 10:30