印刷用PDF(A4版2ページ)
三位一体主日礼拝 説教 「イエス様にだっこされて」

日本基督教団藤沢教会 2017年6月11日

【新約聖書】マタイによる福音書  11章25~30節

「イエス様にだっこされて」(要旨)

 私たち日本キリスト教団の行事暦では、毎年6月の第二主日を「子どもの日・花の日」と定め、多くの教会が、子どもたちと共に礼拝を献げております。そして、この日、私たちに与えられている御言葉が、さきほどご一緒に聞いた、マタイによる福音書11章25節以下の御言葉でありますが、その最後に記されている御言葉が、皆さんよくご存じの「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い」というイエス様のお言葉でありました。そこで、小さい子どもたちは、軛が何かを知らないと思いますので、この軛について簡単に説明しますと、軛とは、荷車や馬車を馬や牛などの動物に牽かせるため、動物を互いにつなぎ合わせる木製の道具のことです。イエス様は、そのイエス様の軛につながっているようにと勧めるのですが、このことはつまり、小さなお友達の回りに座っている教会の大人の人たちが、このイエス様の軛に繋がっている人ということです。みんなが、「早く終わらないかな〜」と思っていても、大人の人たちがそうは思っていないのは、イエス様の軛を負い、しっかりと歩んでいるからです。ただ、この軛という言葉は、普通ですと、余りいい意味で使われる言葉ではありません。

 軛に繋がっている動物たちを想像して欲しいのですが、横に並んだ動物同士が木にくくりつけられているということはつまり、行きたいところにも行けないということです。楽しいことを自由にすることもできないということですから、考えてみれば、外で遊びたいと思っている今のみんなと同じなのかも知れません。でも、大人の人たちは、違います。何が違うのでしょうか。大人だから、子供だから、ということがその理由ではないようです。イエス様が「これらのことを知恵のある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」と仰るように、みんなと同じ幼子のような人が、イエス様の軛を楽しそうに負っているということです。それは、幼い子供のように、そう、赤ちゃんのように、イエス様がどういう方かをよく知っているからです。

 「知っている」ということは、ただの顔見知り程度のことではありません。赤ちゃんがお母さんにだっこしてもらうと泣き止むことがあるのは、みんなも知っていると思いますが、「知っている」というのは、イエス様がどういう方で、どんなことをどのようにいつもしてくださっているか、このことを、それこそよ〜く、知っているということです。だから、イエス様の声を聞くと、お母さんにだっこされた赤ちゃんのように安心するのです。でも、どうして、イエス様の軛を負うことがそんなにうれしいことなのでしょうか。それは、イエス様の軛を負い、イエス様と一緒にいる時間が一番安心できる時であり、一番安心できる場所であるということです。神様とイエス様を前にして礼拝する大人の人たちは、日曜日の礼拝をそう思っているということです。 

 でも、すべての大人がそう思っているわけではありません。折角イエス様とお会いしながら、それが分からない人たちがいました。それが、知恵ある者、賢い者と言われている、ユダヤ教の偉い人たちでした。イエス様がどういう方で、何をどのようにされるのかが分からないために、イエス様が仰ることを素直に受け入れることができなかったからです。だから、イエス様が、イエス様ご自身について仰っていることも、それは誰か、そこで手にするものは何か、どうやってそれを手に入れることができるのかと、イエス様に意地悪い質問をいつまでも投げつけたのです。それは、自分たちが一生懸命やっていることが、世の中で一番正しいことだと思っていたからです。

 ところで、自分が言っていることが、世の中で一番正しいんだから、同じように絶対にやらないとダメだと、うるさく言われたら、みんなならどうでしょうか。僕だったら、嫌です。だから疲れてしまう。イエス様が「疲れた者、重荷を負う者」と言われている人たちとは、ですから、ユダヤの決まり事を口うるさく守れ守れと言われることに疲れ果ててしまった人たちのことです。また、だから、イエス様も、その人たちに、「休ませてあげよう」と仰ったわけですが、けれども、これは、だから、サボってもいいよと仰ったということではありません。休ませてあげようということは、イエス様と一緒にいようということです。でも、もしかしたら、人から偉い人だと思われている人たちが、一番疲れている人たちだったのかもしれません。だから、イエス様も、その人たちの意地悪な質問にも、意地悪に意地悪で返すのではなく、ちゃんと答えられたわけです。

 でも、残念なことに、それでも、イエス様の仰っていることが、意地悪な偉い人たちには伝わることはありませんでした。お利口な人たちなので、言葉の意味だけは伝わりました。けれども、その心に届くことはありませんでした。イエス様がどういう方かが、本当によく分かっていたら、教会の大人の人たちのように、うれしそうにイエス様とおしゃべりすることができたはずです。でも、それができなかった。それは、本当の意味で、イエス様がどういう方なのかが分かっていなかったからです。
 けれども、イエス様は、それでも、怒りません。「天地の主である父よ、あなたを褒め称えます」とイエス様が仰っているのは、神様ありがとうございます、ということです。つまり、イエス様は、人に分かってもらえず、厳しいことをいろいろと言われたわけですが、それでも、神様に感謝している。つまり、自分に意地悪をする人たちのことを、あいつら嫌いだ、顔も見たくないと、イエス様は真っ先にそういうことを考えなかったということです。ですから、今、みんなの周りにいる大人の人たちは、イエス様と同じように、嫌なことや辛いことがあっても、でも神様ありがとうございますと、そう思っているということです。ですから、イエス様の軛を負うということは、イエス様と同じように、いつもいつもにこにこして、神様に感謝していられるということなのです。
 最後に、じゃあ、どうすれば、みんなは、教会の大人の人たちのようになれるのでしょうか。どうすれば、もっともっとイエス様のことが分かるようになるのでしょうか。そこで、もう一つみんなに尋ねたいのですが、みんなが一番うれしい時はどういうときでしょうか。一番うれしい場所はどこでしょうか。教会の大人の人にとってそれは、教会であり、礼拝するときなのですが、礼拝、教会というと少し難しい感じがしますので、簡単に言うとそれは、イエス様のお膝の上にいるときが一番うれしい時で、イエス様のお膝の上が一番うれしい場所だということです。それは、イエス様のお膝の上で聞くお話は、とってもいいことばかりだからです。そして、その中で、私たちが一番よく聞くお話は、愛するということなのですが、でも、この愛するということは、イエス様だけが仰っていることではありません。さっき言ったユダヤ教の偉い人たちも、同じように普段からたくさんの人たちに言っていることでもありました。でも、その言い方は、聞く人にとっては、良かったと思えるものではありませんでした。愛しなさい、愛し合いなさい、と、まるで決まり事のように強く言われ、それで、心から喜んで人を愛することができるでしょうか。

 さっき、イエス様が、それでも神様に感謝しますと仰ったと僕が言ったのを覚えていますか。こうしなさい、ああしなさい、と命令されてイエス様は、神様に感謝したわけではありません。意地悪されても、イエス様は、変わりなく、人を愛するということができたのです。これって、とてもすごいことだと、僕は、自分ができないからそう思うのですが、でも、イエス様にとっては、すごいですね、と人から言われることの方が不思議なことでした。なぜなら、神様のお膝の上で神様からいろいろなお話しを聞いたイエス様にとって、愛する、ということは、守るべき決まり事などではなく、普通のことだったからです。人から命令されて、しなければならないことではなく、少し前までお父さんの母さんにご飯を食べさせてもらっていたみんなが、今ではこぼさずに自分でご飯を食べることができるように、イエス様と一緒にいる人にとっては、愛するということは、普通のことなので、だから、イエス様のお膝の上で、イエス様からいろいろなお話しを聞いている私たち、そう、ちょうど、今の私たちは、だから、愛するということを自然に身につけることになるのです。

 これから、みんなは、イエス様のことをあんまりよく分からないおじいちゃん、おばあちゃんのところにお花を持って訪問し、そこで、歌を歌ったり、お話をしたりするのですが、そのみんなは、今日、教会の大人の人たちと一緒にイエス様のお膝の上でイエス様のお話を聞いているのです。そして、そのイエス様の喜ばれることは、みんなを笑顔にすることなのですが、それだけでなく、笑顔を浮かべるみんなと一緒にいる人たちも、同じように笑顔になることです。ですから、おじいちゃんおばあちゃんに、どうしたら喜んでもらえるのか。今、イエス様のお膝の上にいるみんなは、そのことをよく知っているわけですから、そのことを考えながら、この後、訪問の準備してくださいね。今日のことで言えば、おじいちゃんおばあちゃんがもらって嬉しいと思う花束を、聞いてよかったと思える歌声を、おじいちゃんおばあちゃんに届けてください。そのためにも、イエス様のお膝の上に乗っているんだと、教会を出発する前にもう一回思い出してくださいね。

祈り





 曇 23℃ at 10:30