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聖霊降臨節第3主日礼拝 説教 「あなたの道を歩みなさい」

日本基督教団藤沢教会 2017年6月18日

【旧約聖書】エゼキエル書    18章25~32節
【新約聖書】マタイによる福音書   3章  1~  6節

「あなたの道を歩みなさい」(要旨)

 私たちの歴史を一枚の絵に描くとしたら、その絵はどんな絵になるのでしょうか。私たちの一人ひとりの人生が、一つとして同じものがないように、一枚として同じ絵はないことでしょう。では、その絵とは、どのようなものか。余白までびっちり描き込まれた絵もあれば、余白ばかりが目立つ絵もあることでしょう。けれども、そうした稚拙とも思える絵も、描き続けるうちに、その人しか描くことのできない味わい深いものとなるのです。私たちが信仰の眼差しをもって描く絵とは、そういうものであり、そして、それが、味わい深いものとなるのは、ただ漫然と描き続けるからではありません。たった一枚描かれるその絵が、その人の力量以上のものでもなければ、借り物でもない以上、そこに描かれたものは、裸のままの自分自身の姿であるからです。そして、聖書の御言葉がありがたいのは、「だから、それがダメだ」とは言わないところです。

 上手な絵も、下手な絵も、芸術的評価の高い絵も、聖書に現されている神様の御心を通し見つめるとき、それぞれが同じように人の心を打つ絵となるのは、そこに描かれているものが、神様の御心に包まれた私たちの人生そのものであり、その中心に浮かび上がるものが、イエス・キリストそのものに他ならないからです。そして、そこには、イエス様と自分だけが描かれているわけではありません。私たちの知っている大勢の顔がそこにあり、更に、私たちが見たこともない顔もそこには大勢描かれているのです。そして、大事なことは、その絵はまだ完成してはいないということです。つまり、余白は余白のまま残されたままであるということです。ですから、自分のえり好みだけでその絵を見つめる人々にとって、私たちが描こうとしている絵は、未完成ゆえに下手くそだと、そう感じさせることもあるのでしょう。しかし、それを理由に、世の人々が、私たちの描いてきた絵そのものへの関心を失ったわけではありません。

 「エルサレムとユダヤ全土から、・・人々がヨハネの下に来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とあるように、正しさを求め、生き方を求め、そして、その求めに答えを与えてくれるであろうところに、人は大勢集まるものです。そして、世間の人々もまた、それと同じ理由から、私たちが辿ってきた過去に関心を寄せるのです。ですから、私たちは、世の耳目を集める自らの歴史にもっと自信を持つべきなのですが、ただ、過去の栄光に反して、私たちの現在への関心は、いささか心許ないところがあるように思います。ですから、そうした反応を打算的なご都合主義と見なすこともできるのでしょう。けれども、イエス様は、そのように見た目の部分に惹かれる人々を、だから、ダメだとは仰いません。この直後で聖書の御言葉が記すように、分かったと思い込み、その上でもっとと思う人々については、明確に一線を引きつつも、素直に関心を寄せる人々のことを好意的に受け止め、悔い改めの機会を求め、神様の御許へと立ち帰ろうとしている人々だと、そう見なすのです。それは、前向きなどという言葉では誤魔化されないほど、人が生きるということは辛く苦しいことだと、聖書は、この点をよく知っているからです。ですから、そうした人間の素のままの姿を、聖書の御言葉が退けていないのは、とてもありがたいことです。

 けれども、だから、なし崩しにそのままでいいよと言っているわけではありません。「私の道が正しくないのか。正しくないのはお前たちの道ではないのか」と神様が問うように、私たちの正しさを問わずにいられないのが私たちの神様でもあるからです。では、そこで問われる神様の正しさとは、どういうものなのでしょうか。それが必ずしもはっきりしているわけではありません。ある人にとっての正しさが、ある人にとってはその逆であるように、求めたとしても、そこで、必ずしも、そこで求めるものが手に入るわけではなく、また、その求めるものを一つ手にしたとして、人がそれで満足するわけでもないからです。だから、人は、ますます不安に駆られ、人生の余白を、それぞれがそれぞれに求めるもので埋め尽くそうとするのでしょう。あるいは、諦め、余白をそのままにしてしまうことにもなるのでしょう。イスラエルの家が、神に背き、大きな罪を犯し、取り返しのつかない結果を招いてしまったのは、それ故のことでもありました。つまり、イスラエルが、悔い改めの機会に折角与りながら、自分の思いや考えで、その余白を埋め尽くそうとしたのは、主の道を歩み続けることに不安を感じ、他のもので埋め合わせようとしたということです。それは、それだけ、彼らが生きることに自信がなく、また、彼らの生きた現実が、それだけ重いものでもあったからです。だから、まさに、下手な絵を描くように、不安から、余白をいろいろなもので埋め尽くそうとしてしまった、私たちの罪とは、そういう生きることへの自信のなさゆえのことだとも言えるでしょう。

 また、だからこそ、聖書は、罪を犯すことを固く戒め、忠実にその戒めに聞き従うことを私たちに求めるのですが、けれども、それは、ただ単に罪を犯す犯さないということではありません。神様が求める忠実さとは、私たちの生き方そのものであり、その生き方を通じて、神様の御心の正しさを、私たちは知るということです。けれども、エゼキエル書の今日の箇所を見るだけでは、その正しさは、不安に駆られる者にとっては、言った言わないの類いのようにも聞こえます。神という大きな存在の、その声の大きさ、強さが、一方的に正しさを主張しているように聞こえるからです。しかし、聖書は、強制的に神様の正しさを私たちに訴え、聞き従わせようとしてるわけではありません。その声の大きさ、その力の強さゆえに、私たちの心には、そう聞こえてしまうこともあるのでしょう。けれども、それは、神様が私たちを脅し、力づくで忠誠を求めているからではありません。もちろん、甘言を弄し、自分の言いなりにさせることでもありません。その余白を自分の思いで埋め尽くそうとするイスラエルに向かって語られる、そこで漏れ聞こえる神様の声に耳を傾ける時、私たちは、そこで何を聞くのでしょうか。神様は、こう仰います。「どうして、お前たちは死んでよいだろうか。私は誰の死も喜ばない。」と、そして、他のところでは、神様はこうも仰います。「私は生きている・・。私は悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」と、子を思う親のように、神様の悲痛な叫びを、私たちはそのとき聞くのです。

 プロテスタント信仰のこの五百年の歩みを振り返りつつ、今を見るとき、私たちは、どのように余白に筆を置けばいいのかと思うことがあります。それは、それほどまでに教会の辿ってきた過去が、異彩を放っているからです。それゆえ、私たちは、輝かしい過去にふさわしくその余白を埋めようとするのですが、一方で、過去の栄光と現在とを比較し、余白を埋めることにためらいを覚えてしまうのです。私たちが時折、自らの正しさを主張し、理想的な生き方としての信仰を語ることがあるのは、自信からではなく、そんな不安に駆られてのことなのだと思います。けれども、その私たちに対し、聖書の御言葉は何と語っているのか。「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ」と語りかけるのです。このことはつまり、自信を失った私たちには、その時の自分自身がどうであれ、常に戻るべき場所が与えられているということです。だから、神様も、家ということをここで強調するのですが、それは、不安を払拭することばかりに囚われている私たちにとって、神様が立ち帰れと仰る「ここ」が最も悦ばしいところでもあるからです。

 正しさもふさわしい生き方も、主張することでその正しさ、ふさわしさが明らかにされるわけではありません。歩み続ける中で、それも、神様と共にいる中で明らかにされるものが、聖書の御言葉が語る正しさであり、その生き方なのです。そして、その歩みは、非の打ち所のないものだから、だから正しい、ということではありません。神様の正しさが明らかにされたのは、イスラエルの罪ゆえのことであり、イエス様の十字架と復活の出来事ゆえのことでもありました。そして、私たちは、この神様の正しさに満ちあふれた場所に生きることが許されているのです。

 ですから、私たちは、満足の行かない今の現状を嘆く必要はありません。また、意気込み、無理なイメージを抱く必要もありません。むしろ、素直に現実を受け入れること、失敗を失敗として受け入れ、間違いを間違いとして受け入れること、いつの時代においても、私たちに求められることはこのことであり、また、それが許されている神の御許へと立ち帰るからこそ、そこで、自らの限界とその至らなさへの気づきが与えられることにもなるのです。従って、神様の正しさ、それに対する私たちの忠実さが、まさに人の心を打つ形で、世に明らかにされるのは、神様の御許で憩う、そんな私たちの安心する姿を通してのことなのです。

 失敗しても、間違いを犯しても、私たちの歩む道は、私たちの好き勝手が許される道ではなく、主の道なのです。この主の道を歩む私たちであるからこそ、失敗や過ちによって、その将来が閉ざされることなく、開かれていくのです。私たちの先達は、通り過ぎた過去の栄光にいつまでもしがみつくのではなく、神様の御心へと絶えず心を向け、将来に備えられている希望へと向かい、その歴史を築いてきたのです。だから、そういう先達の姿に触れ、主の道を私たちの道と信じる私たちは、その歩みを同じように歩み、神様の正しさの中を、先達と同じように忠実にその道を歩み続けることができるのです。今までも、今も、そして、これからも、変わりなく主の道を一生懸命に歩み、神様が喜ばれる者として、その歴史の一端を担う私たちでありたいと思います。

祈り





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