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聖霊降臨節第4主日礼拝 説教 「隠れずに堂々と」

日本基督教団藤沢教会 2017年6月25日

【旧約聖書】イザヤ書      60章19~22節
【新約聖書】マタイによる福音書   5章13~16節

「隠れずに堂々と」(要旨)

 詩編の詩人は、捕らわれ人に向かって、こう歌います。「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった。その時には、私たちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。その時には、国々も言うであろう。主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。この希望は、やがて実現し、イスラエルは、神様の言葉が真実であることを実体験することになります。そして、その時、人々の口に上った笑い声、舌に浮かんだ喜びの言葉が、今日私たちが聞いているイザヤ書60:19ー22の御言葉でもありました。無名の預言者たちは、その時の光景を次のように語ります。「主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。」と。また、「主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる。」と、神こそがいかなる時にも私たちの希望、私たちを導く希望の灯火であると、この変わらざる事実を「とこしえ、永遠」という言葉をもって、彼らは語るのです。それゆえ、私たちもまた、ここで語られている同じ希望に向かって、自らのその歩みを進めることになるのです。ただ、そこで、御言葉は、この御言葉に聞く人々の置かれたもう一方の現実をも語ります。

 神様の約束が実現し、バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民は、喜び勇んでエルサレムへと戻ったことでしょう。けれども、五十年も留守にしていたその場所は、喜びとはほど遠い場所でもありました。「あなたの嘆きの日々は終わる」とあるように、イスラエルの人々にとって、神様の約束の成就は、新たな試練の始まりでもあったのです。それゆえ、私たちの常識に照らし合わせ、この新たな現実を見つめるならば、そこで口に上る言葉は、神様に対するネガティブな感情でもあるのでしょう。けれども、イスラエルは、この状態のままで何年も過ごし、自らの生活と神殿の再建とを果たすことになるのです。つまり、「主なる私は、時が来たれば速やかに行う」と御言葉にあるように、求められることへの理由と期限を問わず、ただ神様の御旨がなることを信じ従ったのがイスラエルであり、また、それが私たちの信仰でもあるということです。

 従って、「あなた方は、地の塩である。世の光である」とのイエス様の言葉も、私たちが十字架と復活のイエス様を信じているわけですから、御旨がなることを信じ受け止めるなら、とても分かりやすい話なのだと思います。イエス様のこの呼びかけに対して、アーメンと肯けばいいということです。このことはつまり、私たちにとって、「地の塩世の光」と呼ばれることは、特別なことではなく、普通のことでもあるということです。しかし、イエス様がこう仰るのはありがたいことではありますが、そう呼ばれることに素直に同意できないのも確かなことです。愛のない振る舞いを繰り返す我が身を振り返り、そう呼ばれることに自信が持てずにいるのが、私たちクリスチャンでもあるからです。でも、だから、それでいいということではありません。なぜなら、イエス様がそう仰ることは、自信の有無とは関係ないことだからです。そうなる、そうならないといった、できるできないの話ではなく、イエス様を信じる私たちは、すでに「地の塩、世の光である」ということだからです。それゆえ、私たちクリスチャンは、そのように看板を掲げているわけですから、その看板に偽りがあってはならないのです。

 イエス様に「地の塩、世の光」と呼ばれるということはつまり、神様とイエス様に愛されている私たちクリスチャンにとって、それが、私たちの素のままの姿でもあるということです。ところが、私たちは、そう呼ばれることに尻込みしてしまう。だから、できそうな人を探し出して、その人にこの大役を任せようとしてしまう。あっちこっちの教会でそういう光景を目の当たりにするのは、「地の塩世の光」と呼ばれることへの自信のなさがそうさせているということです。けれども、それは、今の時代に限ったことではありません。教会というところは、そもそも初めからそういうところがあり、私たちが、聖人や信仰的偉人への特別な思いを抱き続けるのは、それゆえのことでもあるのです。従って、「地の塩世の光」と呼ばれることへの麗しき譲り合いは、ある意味で、教会ならではのことだとも言えるのでしょう。そして、そうしたことが起こるのは、私たちクリスチャンが、物わかりが悪いからではありません。むしろ、御言葉を大切にし、語られているそのままを歩みたいと切に願っているからです。

 では、そう願いつつも、「地の塩世の光」であることから、私たちはどうして逃れようとしてしまうのでしょうか。その理由は単純です。私たちが、地に張り付くようにこの世に暮らしているからです。そして、そこは、イエス様が十字架につけられた場所であり、いろいろな思惑が渦巻くがゆえに、私たちの自由を奪うところでもあります。ですから、そういう中で、イエス様のお言葉だけを受け止め、生きることは、さらなる不自由さを招くことになり、それゆえ、譲り合いは、まさに、教会が地にあり、世に生きていることのそのままを現すものでもあるということです。従って、そうした譲り合いは、これからもなくなることはないのでしょう。けれども、イエス様が十字架につけられた地、そして、世は、イエス様が復活されたところでもあり、そこで、私たちは、復活の主の言葉として、イエス様の言葉に聞いてもいるのです。自信がないゆえの譲り合いは、これからも続くことでしょうが、けれども、これまで、地から塩気が失われることもなければ、また、世において、光がその輝きを失うことはありませんでした。つまり、それが、今私たちがこうして生きている地であり、世であるということです。

 「地の塩世の光」と言われるとき、私たちは、自らの小ささ、弱さ、愚かさ、そして、卑しさをも、憐憫なく、思い知らされ、そのため、私たちのありのままの姿を伝えるイエス様の言葉を、私たちは厳しいものと感じてしまうことにもなるのです。まただから、私たちは、その厳しさに耐えかね、力のある者にその役割を担わせようと思うのです。けれども、イエス様が私たちに求めることは、人格の高さといった、そんな曖昧なものではありません。イエス様と神様に愛されている,裸のままの私たちであることだけを、イエス様は私たちに求めておられるのです。

 地は、創世記以来、腐敗しやすいものと、聖書は理解しています。従って、この定めから逃れられる者はおりません。それは、罪に陥った直後のありのままの人間の姿を見ても明らかなことです。彼らは、裸のままの自分に耐えきれず、恥ずかしく思う必要などないにもかかわらず、神様の前で恥ずかしさを覚えてしまったのです。それは、罪を犯したことへの後悔からだけではありません。抗うことのできない、この世の生々しさが、彼らをして、無意識のうちにそうさせるに至ったということです。ですから、私たちも同じように、神様の前で、裸のまま、素のままであることに抵抗を覚えてしまう。また、そうであるからこそ、その裏返しで、神様を超えたいと、不遜なことまでも考えてしまうのです。イスラエルの民が、その罪ゆえに自らの小ささと弱さとを、バビロン捕囚という形で甘んじて引き受けなければならなかったのは、それ故のことでもあったのです。

 しかし、神様は、そのイスラエルを顧み、そして、そのイスラエルを通し、イエス・キリストを救い主として、この世にお遣わしになりました。ただ、イエス様をこうしてお迎えしながらも、地も、世も、そして、そこに生きる私たちも、その神様の御心にきちんとお答えできずにいるのです。けれども、その小さく、弱い私たちが、イエス様ゆえに、こうして礼拝することによって、神様に近づくことが許されているのです。つまり、「あなた方は地の塩である。世の光である」と言われていることは、私たちと関わりのない、遠いところで語られているものではないということです。そこに集うすべての者に同じ距離感をもって語りかけられてもいるのが、この「地の塩世の光」との言葉なのです。

 私たち一人一人は、イエス様にとっては、すべて同じように小さく弱い者なのです。そして、その小さく弱い者が、「地の塩世の光」として、世の諸課題を担わなければならないために、だから、担わされる私たちはあれこれと考えてしまうのでしょう。また、そうであるから、「あなた方の立派な振る舞いを見て」とあるこの言葉を「大きく強くなること」だと理解してしまうのでしょう。けれども、「地の塩世の光」と言われていることは、そういうことではありません。私たちが小さく、弱いままで、神様の御名が崇められるようになるということであり、ですから、もし私たちが正しさを目指すとすれば、それは、神様の御名が誉め讃えられてこそのものであるということです。従って、私たちは、小さく弱いままでいいわけですから、「地の塩世の光」として、よしんば世の耳目を集めるようなことがあっても、「地の塩世の光」というこの言葉がその胸にしっかりと収まってさえいたら、世のいずれの評価にも振り回される必要はありません。ただし、それは、だから、私たちが、非常識な振る舞いをしていいということではありません。いわば、神様、イエス様の名代として、地に生き、世へと遣わされるのが、「地の塩世の光」である私たちなわけですから、神様とイエス様の御名を汚す、歴史の評価に耐え得ない真似は、呉々もしてはならないのです。

 最後に、では、「地の塩世の光」として生きる私たちとはどういう存在なのか。冒頭でお伝えした詩編の御言葉は、次のような言葉でもって締めくくられています。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種を袋に背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる」と。「地の塩世の光」として礼拝より送り出され、喜びの言葉を口々に携え、「地の塩世の光」として再び神様の御前へと立ち帰る私たちでありたいと思います。 

祈り





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