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聖霊降臨節第5主日礼拝 説教 「神様の約束に生きる」

日本基督教団藤沢教会 2017年7月2日

【旧約聖書】申命記       26章  1~11節
【新約聖書】マタイによる福音書   5章21~37節

「神様の約束に生きる」(要旨)

 ここで、イエス様が仰っていることは、私たちがその人生を大らかに歩むために必要なことばかりです。また、それを普通のこととして受け止めるから、私たちは、生きるか死ぬかの緊迫した場面の中でも、大らかに与えられたその場所で最善を尽くすことができるのです。そして、そうするのは、私たちが力が強く、正しいからではありません。失敗をし、間違いを犯しても、それで道が閉ざされないことを知っているからです。だから、このイエス様の呼びかけに対しても、素直にはいそうですと返事をすることができ、また、おかしなことに対しても、これは違うぞと、はっきり線を引くことができるのです。

 ところが、不思議なことに、私たちの多くは、どうしたらそうなれるのかとあくせく考えるところがあります。だから、その直前で、イエス様が「あなた方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義に勝っていなければ、・・」と仰っていることをまともに受け止め、余計に「こうしなければ、こうしてはならない」と思うのです。それは、イエス様が仰ることが、それだけ大事だからなのですが、頑張るのはいいとして、では、頑張りきれないときにはどうなるのか。そこでよくあることは、自分を棚上げするということです。そして、慰めを受けると称して、聖書の御言葉の中から、できないことの言い訳として使える、都合のいい御言葉を探し出そうとするのです。今日の箇所にもそういう意味で、いわゆる、使える御言葉が記されているように思います。

 イエス様がここで、兄弟との和解を勧めていますが、顔も見たくない相手と仲直りすることほど難しいことはありません。でも、イエス様がそうお命じになっている以上、私たちは顔も見たくない相手とも仲良くしなければなりません。でも、できない。そういう時、イエス様の「誓うな」との御言葉は、問題を棚上げするための口実としてはとても都合のいいものとなるのでしょう。ただ、この光景をまるで他人事のように眺めている人たちにとっては、許せることではありません。しかし、教会のこれまでの歴史を通して、この「できるできない、するしない」という意味で、本当にファリサイ派や律法学者の義に勝ったことがあったのでしょうか。そこには、誤解があるように思います。

 イエス様がここで仰っていることは、「できるできない、するしない」ということだけを見つめ、私たちに何かを言っているのではありません。そもそも、「するしない、できるできない」という点では、イエス様ご自身ができなかったわけです。イエス様は、腹を立てて、小さな生業に生きる人の縁台をひっくり返しもしましたし、ファリサイ派や律法学者とも和解せぬままでありました。「誓う」ということについても、「アーメン、アーメン、私は言う」と、神様に誓った上で、今日のところでもいろいろと語ってもいるわけです。ですから、ここでのことは、それを踏まえた上でのことであり、つまりは、「できるできない、するしない」ということが、ここでのテーマではないということです。

 イエス様が仰りたいことは、私たちクリスチャンがどこに生きているのか、どういう所に生まれ、どういう所で生き、どういう所で死んでいくのかということです。私たちが過ごすところは一つであり、そこで、天の御国への凱旋を果たすべく、私たちは一緒に暮らしているのです。そして、そこは、イエス様が仰っているように、神の玉座であり、足台なのです。大王の都に、私たちは、こうして「共にある」のです。「できるできない、するしない」ということで、私たちそれぞれの価値が計られ、私たちは、こうして一緒にいるわけではありません。教会が神の家族であるといわれる所以はここにあります。

 家族でありながら、一生懸命に頑張って家族であろうとする滑稽さ、「できるできない、するしない」ということを至上命題とする律法学者、ファリサイ派の求める正しさには、そういうところがありました。けれども、イエス様は、そうではない。そうではないから、その義を上回るようにと仰ったわけで、だから、「できるできない、するしない」というところから、神様とイエス様との関係性を捉えるような愚かな真似を、私たちはしないということです。「一緒にあるところ、いるところ」から、物事のすべてを始めるということです。それゆえ、それを破壊するような愚かな真似はしてはならないのです。けれども、私たちは、ただぼーっと一緒にいるわけでもありません。一緒に暮らすということは、その中でいろいろなことがあります。新しい命が与えられ、その命が、その家族の誉れとなるような素晴らしい人間として成長する場合もあれば、そうでない場合もあります。また、世代が次へと移り変わり、家族の姿が一変することもあり、さらには、家族そのものの命が脅かされることもあれば、家族であること自体が、様々な問題の元凶となることもあります。そして、それは、教会も例外ではありません。だから、家族、共同体というものは、創世記が記された頃より面倒なものだと、そう思われてきたわけです。

 ですから、この面倒なものが一つの収まりをもって「共にある、共にいる」ためには、明確な基準が必要です。しかし、「共にあること、いること」から始める家族は、それを守りさえすればいいというものではありません。好きでも嫌いでも、できてもできなくても、してもしなくても、いい時も悪い時も、常に「共にあること、共にいるところ」に留まり続けるのが、聖書が語る人と人との関わりであり、家族なのです。だから、イエス様もそれを望んではいないのです。そして、その上で、諸々の基準を私たちが守るのは、神様が一家の大黒柱あり、イエス様がその長兄として、神様のお言葉にしっかりと生きたからです。それゆえ、私たちもそこに居る以上、従うべきルール、守るべき生活のあり方を受け入れる必要があるのです。

 ただ、この従うべきルール、守るべき生活のあり方ですが、それは、必ずしも常に同じである必要はありません。「共にある、共にいる」ということがベースとしてである以上、人が変われば、その姿も変わるものだからです。けれども、その中で変わらないものがある、それが「共にある、共にいる」ということです。だから、それを維持するために、先の者が後の者にいろいろと教えるわけですが、けれども、教えたとおりに物事がすべてうまく運ぶわけではありません。だから、家族、共同体というものはとても面倒なのですが、ですから、イエス様が仰っていることは、裏を返せば、そういう面倒なことがないのではなくて、あるのだということです。

 家族も、それに付随する人間関係も面倒なものです。だから、その面倒を、人は省きたいと思うのですが、では、人間が誕生して以来、この世に面倒臭くない家族があった試しがあるのでしょうか。家族とは、面倒で厄介なものであり、25節以下に「さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、・・はっきり言っておく。・・」とあり、その「あなた」とはつまり、イエス様ご自身であるように、面倒なものを自ら引き受けられたのがイエス様でありました。しかも、面倒を引き受けながら、イエス様は、何一つ文句を言わなかったのです。最後の最後まで、一家の大黒柱である神様の言葉に従い、人々と共あろうとされた。そして、そうされたのは、それを「するしない、できるできない」ということを求めてのことではありません。「するしない、できるできない」ということは、「共にある、共にいる」イエス様を見てさえいれば、その成長の度合いに応じて、自ずとするようになるし、できるようになるものです。それ以前に、そう導いてくださっているのが、神様であり、イエス様なのです。ですから、私たちが、「私はこの家の立派な子供になります。できのいい子供になれるように頑張ります」などと、できもしない、やりもしないことを臆面もなく誓う必要はないのです。

 しかし、だからまた、私たちは、失敗や間違いを繰り返すことにもなるわけです。けれども、それで、私たちの将来が閉ざされることはありません。申命記の26章5節以下にある御言葉は、最古の信仰告白と言われているものですが、それがイスラエル、イエス様の辿った歴史であるように、私たちもまた、その同じ歴史を生きているからです。そこには、家族としての受けた神様から受けた数々の祝福が現されいるのですが、けれども、それだけが現されているわけではありません。行間には、家族間の諍い、憎悪、困窮、絶望、ささやかな楽しみ、誇り、喜びと悲しみ、苦しみ、恥ずかしさなど、「共にあり、共にいる」私たちがその生涯を通じて現すであろう様々な姿が現されているわけで、けれども、その一つ一つが神様の祝福というものの中に置かれ、イエス様によって練り上げられているのです。

 「共にあり、共にいる」というところから、私たちが始めるなら、イエス様が仰る諸々のことは、いつの間にかしているし、できるようになっているものです。そして、それが普通のことだから、私たちは、当たり前のこととして、人にも伝えることができるのです。小さく弱い子供が、多くの人の手を借りて一人前の大人へと成長するように、「共にある、共にいる」中で、家族としての営みは保たれ、続けられて行くのです。

 それゆえ、この視点に立つ時、私たちには、もう一つの答えが与えられます。申命記の26:11に「あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を・・共に喜び祝いなさい」とあるように、神様とイエス様との交わりに生きるすべての人々と、できるできない、強い弱い、大きい小さいということに関わりなく、私たちは恵みを分かち合う神の家族とされているということです。そして、この神の家族すべてを天の御国へと祝福の中に導いてくださっているのが、神様であり、イエス様なのです。この神様の約束を私たちは信じ、今、神の家族として歩んでいるわけですから、それを信じ、常に「共にある、共にいる」ところから、家族としての歩みを見つめ、これからもイエス様のお言葉に従って行きたいと思います。

祈り





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