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聖霊降臨節第6主日礼拝 説教 「掌(てのひら)の傷」

日本基督教団藤沢教会 2017年7月9日

【旧約聖書】イザヤ書      49章14~21節
【新約聖書】マタイによる福音書   6章22~34節

「掌(てのひら)の傷」(要旨)

 ある方にとっての拘りが、別の方にとっては、まったく逆のものとなることがありますが、そうしたことは、礼拝を献げる私たちの中でも起こりうることです。そして、そういう私たちが明るく、楽しく、前向きに過ごすため、その大きな力となるものが、聖書の御言葉であり、信仰でもありますが、ただ、そのためには、それぞれの思いが置かれているところを互いにしっかりと見つめ、そこから物事を始める必要があります。ですから、そういう意味で、私たちが、こうして信仰をもって聖書の御言葉に聞いて行くには、それぞれの拘りとその違和感とをまずはしっかりと胸に抱えねばなりません。

 そこで、主の御前にあって、私たちが、今、確認したことは、それぞれの思いは必ずしも同じではないということです。このことはつまり、教会は、一致ということを語りながらも、現実は必ずしもそうではないということです。また、だから、そのような事態を克服せねばならないのですが、それは、主の御前におけるふさわしさ、正しさというものを、ある種の拘りをもって問い続けてきたのが、キリストを頭とする教会だからです。特に、プロテスタント教会に属する私たちは、ルターが、聖書のみ、信仰のみ、と語ったように、御言葉と信仰への拘りを捨ててしまっては、それこそ、私たちが、私たちであり続けることもできません。ですから、私たちが、信仰的、聖書的拘りをもって、あらゆる事柄に臨むのは当然のことです。

 けれども、では、そうした拘りと拘りとがぶつかり合い、そこで、一致できない状況が生じたとして、もっと言えば、拘りをもって福音を語りながら、そこに愛のない状況が生じ、共同体全体を支配するようなことがあったとしたら、そうした姿は、主の教会としてのふさわしさ、正しさを表していると言えるのでしょうか。もちろん、そうではない。だから、ますます正さねばとの思いに駆られ、自らの拘りの正しさを主張し、相手を打ち負かすまで、そうした戦いが続けることにもなるのでしょう。ただ、そこには温度差もあります。だから、正しさと正しさのぶつかり合いはまた、共同体全体の思い煩いの種ともなり、そのため、多くの人々は、疲れ果て、途方に暮れ、絶望に近い気持ちまでも抱くことにもなるわけです。「主は私を見捨てられた。私の主は私を忘れられた」(イザヤ49:14)とあるのは、そのような時の私たちの気持ちのそのままを語ってくれているようにも思います。けれども、この御言葉はまた、そうした特殊な状況だけを語るのではありません。神様に多くを期待する私たちが、受け入れがたい事態に直面したとき、つまり、苦しみを苦しみとして、悲しみを悲しみとして、自らが引き受けなければならないような状況に置かれたとき、私たちが真っ先に思うことは、「神様に見捨てられたと」いう思いだからです。しかも、信仰によって、そうした思いが薄められるどころか、ほとんどの場合、逆に、濃くなっていくものです。

 そのようなとき、「私はあなたを忘れることは決してない」との神様の言葉や、「明日のことまで思い悩むな。」とのイエス様のお言葉を聞き、私たちは、それで本当に慰められ、励まされるのでしょうか。答えは逆です。なぜなら、そのようなとき、私たちは、本気で悲しんでいるし、本気で苦しんでいるからです。ですから、そのような私たちにとって、御言葉は、恐らく、おざなりで、通り一遍のものと聞こえることでしょう。しかし、それは、御言葉に期待する者にとっては残酷なことであり、返って、惨めさを募らせることにもなるのでしょう。親子の縁の薄い子どもに向かって、事情も分からずに、「ご両親が悲しむよ」と、そう言って聞かせるのと同じで、手の届かないところにある理屈ほど、期待する者にとって辛いことはないからです。ただ、ある者には慰めを、またある者には牙をむくのが御言葉ではありません。

 こうして信仰を与えられていようとも、私たちは、そもそも思い煩いから完全に解放されたわけではありません。むしろ、その反対に、信仰ゆえに思い煩うことが多いのです。だから、イエス様も、思い煩うなと仰っているわけで、それゆえ、イエス様の「信仰薄い者たちよ」との呼びかけに対して、私たちクリスチャンは、そのまま肯くしかありません。ただ、そう言われることは、とても辛いことでもあります。だから、何とかしようと、私たちは思うのですが、けれども、結果、ますます思い悩むことにもなる。ですから、そう考えると、何のための信仰かとも言えるのですが、けれども、そこには、誤解があるように思います。だから、御言葉というものが自分に牙をむく残酷なものだと、人は、単純な決めつけをしてしまうのです。

 イエス様は、野の花、空の鳥と私たちとを比べ、私たちの方が価値があると仰います。ですから、そのことをただ喜んでいればいいのが、私たちなのですが、ところが、それが難しい。あれもこれもと思うのが私たち人間で、だから、イエス様もまた、神か富か、どちらか一つにするようにと詰め寄るのです。ただ、それにしてもどうして野の花、空の鳥にできることが、私たちにはできないのでしょうか。思い煩うことの理由が、この、野の花、空の鳥のようには行かないというところにあるように思います。それは、私たちには、神様の造られたこの世界のありのままをありのままに見ることができないからです。

 私たちの多くは、手を伸ばせば、直ぐに神様の良き御心に触れることができる、だから、御心をその手に収めねばならないと、そう思い込んでいるところがあります。だから、手が届かないことに思い悩み、苦しみ、絶望するのです。また、それだけに、手を伸ばし、欲しいものを手にすることばかりを願ってしまうのでしょう。ところが、野の花も、空の鳥も、そうではない。手が届く届かないを問わず、神様が造られこの世界で、その与えられた命をただ全うすることだけを目的として生きている。このことはつまり、野の花の美しさ、空の鳥の自由さとは、神様に一切を委ねきっているところに理由があるということです。では、それができない私たちは、常に思い煩うだけの毎日を過ごさねばならないのでしょうか。明るく、楽しく、前向きにと言われていることは、かけ声倒れということなのでしょうか。答えは、その反対です。私たちの神様は、私たちに何かしてくれるから神様なのではなく、期待するものに手が届こうが届くまいが、私たちにとって、神様は、どこまでいっても神様なのです。

 イエス様が仰る神の国と神の義については、信仰薄い私たちが、普通に考えても望みようもないものです。ところが、私たちはそれを求めることができる。それは、生ける神様が私たち一人一人のことをよくご存じだからです。それも、ただ知っているというだけではありません。イザヤ書の49:16で「見よ、私はあなたを私の手のひらに刻みつける」(イザヤ49:16)とあるように、掌の真ん中に、その名前が刻みつけられているのです。時に、イエス様の十字架と復活を伝える福音は、私たちにとって残酷なものと響くことがあり、そのために、自らを惨めだと思ってしまうことがある。それゆえ、その拘りがまた、自分自身を追い詰めることにもなる。ですから、そんな私たちが、明るく、楽しく、前向きに生きることなど望むべくもないのでしょうが、けれども、私たちの手の中に何もないと思えるその時、こうして神様を礼拝し、私たちは知るのです。神様の御手にある自分の名を見出し、時に残酷だと思い込む神様の御心を通して、私たちは、こうして生きているということの意味を知るのです。

 自分の力で拘りを捨て去ることのできる者はおりません。そのため、私たちは、あらゆるところに手を伸ばし、あらゆるものを自分の力で欲しいだけ手に入れ、自分自身を飾り立てようとする。それこそ、信仰という装いをもってしてまで、自分自身を飾り立てようとすることがあるのです。だから、それが叶わないとき、その気持ちを絶望という形で言い表し、神様は残酷だと、自分は何と惨めなのかと、そう決めつけてしまうのです。けれども、その私たちに語られているものが福音である以上、御言葉を残酷だと感じるその思いを誤魔化し、無理にいいものだと思い込もむ必要もありません。それをするから、信仰はつまらないものとなるし、信じてもしょうがないということにもなるのです。

 御言葉は、拘りを捨て去ることのできない私たちに、手の届かないところがあることを教え、そして、手の中に何もない惨めさを噛みしめる私たちに向かって、福音を福音として語るのです。そして、福音を信じる私たちは、自分の名前が、十字架という形をもって、神様の御手にしっかりと刻みつけられていることを知るのです。だから、礼拝する私たちは、その信仰がどんなに薄く、浅く、物足りないものであっても、命というものはすべて、それが、神様の御手の中に消し去ることのできない形で刻みつけられていることを知り、野の花、空の鳥のように、神の義と神の国を求め、歩み続けることができるのです。

 私たちの生涯は、ドラマのように美しく、見るべきものばかりに囲まれているわけではありません。それぞれの手には、様々な拘りが握りしめられ、ですから、そういう私たちがこうして集められている以上、思い悩みの種が尽きることありません。ただ、残酷だと思い込む神様の仕打ちも、惨めだと思う情けない自分の姿も、拘りを捨て去ることができずにいる私たちにとって、神様の御心を知るための恵みでもあるのです。だから、気づきが与えられた私たちは、そこで、変えられていくのです。また、だから、その先に、私たちは、必ず神の国を見ることになるのです。

 私たちは、これからも、それぞれの拘りゆえに思い煩いの扉を次々と開け続けることになるのでしょう。しかし、臆する必要はありません。私たちのその名はすでに神様の掌(手のひら)に刻みつけられており、そのことをこうして神様を礼拝する度に、私たちは知らされているわけです。ですから、この事実にしっかりと立ち、明るく、楽しく、前向きに、これからも共に過ごして参りたいと思います。

祈り





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