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聖霊降臨節第7主日礼拝 説教 「狭き門、広き御心」

日本基督教団藤沢教会 2017年7月16日

【旧約聖書】歴代誌下      6章12~21節
【新約聖書】マタイによる福音書 7章 1~14節

「狭き門、広き御心」(要旨)

 日々の暮らしの中で、私たちは、様々な課題と向き合うものですが、皆さまにとりまして、その中で一番大事なものは何でしょうか。その優劣の付け方は、単純ではありませんが、ただ、そういう中で現されるものが、私たちの信仰でもあるのでしょう。そして、そこで重要な働きをなすものが祈りであり、今日の御言葉それぞれが私たちに語りかけることも、私たちがなす祈りの重要性であると思います。それは、私たちの祈りの姿勢の中に、私たちの信仰のあり方が示されるからであり、そういう意味で、私たちの信仰生活においては、祈りこそがすべてであるとも言えるのでしょう。しかし、祈りは、私たちクリスチャンだけがなすことではありません。藁にも縋る者誰もが普通に行うことでもあるのです。

 そこで、よく言われることは、私たちの祈りとお願いとではまったく違うということです。祈る対象が定まらず、自分の願いをつらつら訴え続けるだけでは、ただつぶやいているに過ぎないからです。ですから、そういう意味で、私たちの祈りの間口は広くはありません。ピンポイントで神様とイエス様と繋がっていることがなければ、祈りは、つぶやきに過ぎないということにもなるからです。それゆえ、そこでは、イエス様としっかりと繋がっていることが求められるのですが、また、そのことに私たちは自信が持てずにもいるのです。だから、手応えを求め、イエス様が「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入るものは多い」と言われるそのままの道を歩んでいると、そう思ってしまうことにもなるのでしょう。では、私たちの祈りは、祈りと呼ぶことすらできないのでしょうか。

 祈ることに自信が持てない私たちは、祈る度に性急に答えを求めるものです。そして、応えてもらえない理由を自分自身の不信仰、聖書の御言葉に対する無理解の中に探し出そうとするのです。けれども、そんな私たちに向かい、御言葉が語るところは、神様もイエス様も性急に答えを求めてはいないということです。このことはつまり、祈りとは、私たちを意のままに従わせたり、また、神様の意のままに従うことではないということです。ですから、このことは、祈りを大切にする私たちの暮らしぶりにも繁栄されることとなります。つまり、神様の願いが、世界中の人々の平安と祝福である以上、私たちは、共にある人々を意のままに従わせ、その関係性を築くことはないということです。

 けれども、そこでまた、私たちは、難しい問題に直面することになります。性急に答えを求めないということはつまり、私たちが自分の頭でしっかりと物事を考え、誰のせいにすることもなく、置かれている現実を自分自身で引き受けねばならないということだからです。そして、信仰者としてのあるべき姿というものは、そういうところから現されもするのですが、しかし、そこが、一番の課題です。日々繰り返される私たちのその暮らしの中で、私たちは常に迷い、分けが分からなくなる者だからです。まただからこそ、私たちは祈るのですが、けれども、私たちがこれまで自信を持って祈ったということが何回あったでしょうか。だから、イエス様が「裁くな」と仰るその言葉に反して、裁いてしまう。あるべき姿を求め、身勝手な正しさを刃のように自分自身に、そして、人に突きつけてしまう。イエス様が「求め、探し、門を叩き」続けよと仰る言葉に祈りの中に、私たちが忠実であろうとするのは、そんな自信のなさゆえのことなのでしょう。けれども、御言葉が私たちに伝えてくれていることは、それがまさに私たちの祈りであるということです。

 神殿奉献という晴れの日に、ソロモンは、感謝と喜びをもって祈るのですが、神様との出会いを約束された神殿こそが、イスラエルの人々がその日々の暮らしを立てていく上での中心であったからです。だから、ソロモンも、「昼も夜もこの神殿に、このところに御目を注いでください。ここは、あなたが御名を置くと仰せになったところです。このところに向かって僕が献げる祈りを聞き届けてください。僕とあなたの民イスラエルがこのところに向かって祈り求める願いを聞き届けてください。」と、切なる祈りを献げたのです。けれども、そのソロモンが、その直前で何と祈っているのか。「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるのでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることはできません。私が建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」と、喜びに包まれたその時に、このような祈りを献げているのです。それは、ソロモンの自信のなさか、あるいは、謙虚さがそう祈らせたとも言えるのでしょう。ただ、いずれにせよ、喜びに溺れず、そうした姿勢を脇に置かないのが私たちの信仰であり、祈りでもあるということです。もちろん、だから手放しで喜んではならないということではありません。喜ぶときには手放しで喜んでいいのですが、それが許されるのは、どうしてなのか。その理由をしっかりとそれぞれの胸に刻みつけたいと思います。

 御言葉が、ここで、ソロモンにそのように祈らせているのは、イスラエルの民が、神殿が絶対的なものでないことを経験的に知っていたからです。けれども、人の手によってなされることに絶対と言えるものがないからこそ、私たちはそこで祈るのです。だから、ソロモンはこう祈ります。「我が神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、僕が御前に献げる叫びと祈りを聞き届けてください。」と。そして、この祈りは聞き届けられ、神様は、イスラエルを見放さず導いて行くことになるのですが、それは、イスラエルが、神様と出会うことを止めなかったからです。ソロモンが、「ここに、この所に、ここの所に向かって」と、切なる祈りを献げているように、すべての者の祈りが集められる神殿、聖なる場こそが、神様との出会いを約束する場所なのです。

 私たちが祈りの中にその中心に置くことは、祈りが聞かれる聞かれないということです。けれども、それが祈りの本質ではありません。祈りの中に、私たちが神様と出会っているかどうか、この事実と経験なくして、祈りは祈りとなることはありません。そして、その出会いの場が、神殿という形で約束されており、そこで、私たちは、神様と出会い、その御心に触れることが許されているのです。だから、この聖なる方に導かれ、支えられ、その命、日々の暮らしは守られていく。このことはつまり、祈りも、祈りによって支えられている私たちの暮らしも、御言葉によれば、神と出会う場と出会った経験があって始めて成り立つものであるということです。また、だから、イエス様もそのことをここできちんと仰るわけです。

 「あなた方の誰が、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるであろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなた方の天の父は、求めるものに良い物を与えてくださるに違いない」とこう仰るように、父なる神様と子なるイエス様と共に生きているのが私たちなのです。そして、聖なる方の御心によって育まれ、その命を初めより終わりまで導かれているのが、神の家に住まう私たちでもあるのです。だから、私たちクリスチャンの祈りほど確かなものはありません。神様とイエス様と共に歩む私たちたちの祈りは、その声として確実に神様とイエス様に届けられている、それは、私たちが神様の住まうところに身を置いているからです。

 ただし、それは、イエス様が「それを見出すものは少ない」と仰るように、すべての人々にとって自明のことではありません。それゆえ、もしかしたら、そんなクリスチャンの祈りの生活を、人は、行き当たりばったりの成り行き任せと揶揄することもあるのでしょうし、もしかしたら、私たちも、そんな考えを持つことがあるのでしょう。ただ、悲しいことに、私たちは、私たちの祈りの生活を揶揄する人々に対し、祈った時点で、その正当性を立証することはできません。けれども、そうした中で続けられるものが私たちの祈りであり、そして、祈り続ける中で、私たちは知るのです。神様が共にいてくださる方であり、祈ることにすら自信が持てずにいる私たちを支え導いてくださっていることを、私たちは恵みの中に知るのです。祈った結果がどうであれ、そのすべてを御心だと、私たちは信じ、受け止めるのはそれゆえのことであり、まただから、そのように喜びに溺れず、悲しみに沈まない私たちの姿を通して、神様の正しさがこの世に現されることにもなるのです。

 次なる百年へと向かう新しい歩みが、間もなく始まろうとしています。それがどのようなものとなるか、祈る私たちにも今は分かりません。けれども、私たちが祈りの中に示されたその御心に精一杯神様にお答えするなら、それが藤沢教会の次なる百年の礎となるのは間違いありません。なぜなら、祈りが集められたところに置かれるものが、神様の御心であり、この百年、こうして神様と出会い続けてきたのが藤沢教会でもありました。私たちが祈りの中に決議した会堂改修も、礼拝と祈りの場を神様と出会うにふさわしく整えてきたその歴史が、私たちのその背中を押したのは間違いないのでしょう。

 ただ、いつの時代においても、神様と出会う場を出会うにふさわしく整えることは、容易いことではありません。しかし、神様の御心に聞く私たちクリスチャンの暮らしが支えられているのは、神様との出会いの場が、神様と出会うにふさわしく整えられているからでもあります。ですから、だからこそ、そこで私たちは、祈りを集めなければなりません。長く残り続けるものは、その時々の人々が、精一杯祈り、一番いいものを神様にお献げしたから長く残り続けることになるからです。今はまだ、何が御心であるのか。私たちに何が求められているのか。その輪郭すらはっきりとはしていませんが、けれども、だからこそ祈りを集めて参りましょう。祈りが集められたところに御心が置かれる、こうして神様と出会う場に、その神様の御心が現される。そのことを信じて、祈りの中に御旨がなるのを待ち望みたいと思います。


祈り





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