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聖霊降臨節第8主日礼拝 説教 「我が住みかは堅固なり」

日本基督教団藤沢教会 2017年7月23日

【旧約聖書】エレミヤ書     7章  1~  7節
【新約聖書】マタイによる福音書 7章15~29節

「我が住みかは堅固なり」(要旨)

 藤沢教会90周年記念集会に講師としてお招きした日野原重明先生を、主がお召しになったことは、皆さんもご存じのことと思います。そして、その日野原先生が最後まで仰っていたことは、「命とは、人に喜んでもらうために用いられるもの」であるということでした。従って、日野原先生が、この時、私たちに望むことは、悲しみではなく、喜びです。しかし、その一方で、それが難しいと思っているところが私たちにはある。では、日野原先生は、人が考えるように「難しい」ことだからとの理由で、この「喜びを分かち合うために命を用いていただく」ということを世の多くの人々に仰ったのでしょうか。

 日野原先生も、そのことの難しさはよくご存じでした。その上で、人と喜びを共にすることを願い、最後までその命を用いたのが日野原先生でした。だから、新聞は、そんな日野原先生をプロテスタントの信仰に徹したご生涯であったと言っておりますが、それは、そこに命に至る道が開かれていることを、先生が信仰ゆえにご存じでもあったからです。従って、そういう意味で、私たちと日野原先生との違いは何一つありません。もし、私たちが、できない、やれないと思い込んでしまっているとしたら、それは、私たちが、信仰というものを誤解しているからです。

 それゆえ、私たちが、もし、誤解したままで今日の御言葉に聞いていくなら、日野原先生が良い木であり、私たちは悪い木ということにもなるのでしょう。けれども、同じ信仰に生き、その信仰ゆえに同じ命に生きているのが、日野原先生と私たちなのです。ところが、私たちは、日野原先生と同じように「主よ、主よ」と、日々、神様に呼びかけているにもかかわらず、日野原先生と自分が同じだとは考えない。同じでありながら、違うというところから今日の御言葉に聞いていこうとしてしまう。そのため、イエス様が「不法を働く者」と言われていることと自分とを重ね合わせ、しかも、イエス様が「私から離れよ」とも語っていることから、自分とイエス様とはまったく関係ないとの思いに行き当たり、結果、絶望的な気分に浸ることにもなるのです。

 主の御心を行うということは、私たちの思うままに、何かができるということではありません。ここでイエス様が仰っていることも、また、エレミヤを通して、神様がこの日私たちに仰ることも、そこで問われていることは、するしない、できるできない以前に、神様との関わりについて、私たちがどうそれを受け止めているかということです。つまり、私たちは、何に繋がって生きているのか、繋がりながら、何を見ているのか、さらには、見ている以上、どう生きているのかということです。ですから、そこで私たちが弁えるべきことは、そういう私たちは、どういう者なのかということです。ところが、見たところまではいいのですが、そこからの一歩がなかなか出ない。そのため、自分が何者なのかに自信が持てなくなり、結果、自分と神様との関わりそのものが分からなくなってしまう。分からないから、神様に繋がっている信仰を勝手に手放したくもなるのです。

 こうして、信仰に自信が持てなくなった私たちは、気持ちの上で、どんどんどんどん負のスパイラルに陥ることにもなるのですが、ただ、そこにまた私たちの誤解が潜んでいるように思います。医者が医者として生きるように、すでにクリスチャンとされた私たちは、気持ちの上で何かが問われているわけではありません。ですから、できないからといって、必要以上に落ち込む必要もありませんし、自分を責める必要もありません。イエス様と一体となって、イエス様の命に徹するということ、私たちクリスチャンに求められることは、イエス様に繋がって、そのままを生きているかどうかということなのです。このことはすなわち、イエス様と私たちを引き裂くものは、何もないということであり、だから、主にある平安の中に置かれている私たちクリスチャンは、そんな自分自身を心から喜ぶことができるのです。

 御名によって自分は立派なことをしていると思い込む者を、イエス様が「不法を働く者」とここで呼んでいるのは、「主よ、主よ」と口にしながらも、イエス様と一体であるとの感覚を、その人が欠いているためです。イエス様にぴったりくっついているのではなく、自分の都合のいいところだけでイエス様を利用しようとする。それゆえ、そこに分裂が生じることにもなる。ルターが、そのような人の性質の悪さを「人はすべて己が業について、「私がそれをやった」と言う者だ」と厳しく指摘するのは、自分を誇る者も、自分に誇りを持つことができない者も、神様のことではなく、自分のことだけを見つめ、何かをするしないということばかりを考えているからです。

 けれども、クリスチャンであるということは、自分の腕前を誇ったり、人の腕にぶら下がるだけで何もしようともしないことではありません。クリスチャンであるということが、その信仰を喜ぶことであるように、心も体も、その存在すべてを用いて、私たちクリスチャンは、その喜びを現すことができるということなのです。それゆえ、その私たちが罪ある自分の姿を知ることは大切なことなのですが、けれども、罪を知った私たちが、深刻ぶって、ただ自分の罪を嘆き、呪うだけでは、そこから喜びが生じることはありません。イエス様を迎え入れ、一つとされてるのが私たちクリスチャンであるわけですから、その姿は、必ず喜びと感謝に満ちあふれることになるはずなのです。ところが、私たちは、それができないと思い込んでいる。だから、信仰を喜ぶと言うことが口先だけのものとなり、また、人からもそう思われてしまうことにもなるのです。そして、そういうことが起こるのは、私たちとイエス様との関係を、私たちが、イエス様はイエス様、私は私と切り離して受け止めてしまっているからです。

 山上の説教のその最後で、御言葉はイエス様のことを「権威ある者」と言っていますが、このことはすなわち、イエス様のお言葉によって、私たちの運命のすべてが決まるということです。ところが、私たちは、自分の人生を自分の力だけを頼りに切り開かなければならないと思い込んでいるところがある。だから、イエス様はイエス様、私は私、というところで物事すべてを見ようとしてしまうのです。それゆえにまた、イエス様にすべてをお任せするのではなく、自分にちょうどいいところでイエス様が動いてくださればと、そんな身勝手な思いにも駆られるのです。けれども、それについても案ずる必要はありません。イエス様は、そういう私たちと共にいてくださるからです。

 クリスチャンであるということは、喜びという形で現されるポジティブな感情に、私たちが包まれているということです。けれども、それは、自分だけがそれを味わえばいいということではありません。あの人だけが、この人だけが、というところで現されるものが、クリスチャンであることの喜びではないからです。あの人もこの人も、イエス様と一緒にいるすべての人々が、そこで喜びを分かち合えるということです。そして、それができるのは、私たちクリスチャンが、「主よ、主よ」と口にすることの悲しみ、空しさを知る一方で、「主よ、主よ」と呼びかけることのできる、その喜びを知っているからです。私たちが義なる罪人と呼ばれているように、そういう二面性を持っていることを知っているのが私たちであり、また、その私たちが、イエス様ゆえに神様の赦しに与っているのです。だから、罪人である自分自身を、また、他者をネガティブに深刻ぶって受け止めるのではなく、ポジティブに喜びをもって受け止めることができるのです。

 ただ、罪人である私たちは、それでも過ちを繰り返す者です。けれども、そうした過ちを通し、また、私たちは知るのです。イエス様がここで投げかける「不法を働く者ども、私から離れ去れ」とのイエス様の言葉は、裏を返せば、不法を働く者の近くにいてくださるのがイエス様であるということです。もしかしたら、私たちも、イエス様から「不法を働く者」と言われてしまうこともあるのかもしれません。その可能性を否定することができないのが、義なる罪人ということでもあるのでしょう。けれども、その時、イエス様と繋がりを身をもって感じている私たちは、イエス様に赦されているがゆえに、許せない自分を赦すことができるのです。それは、イエス様と共にあるこの世界は、イエス様が蘇られた場所でもあるからです。

 ですから、イエス様と同じ命に生きる私たちは、そのことを知った以上、その喜びを体全体で表すことになります。日野原先生のように、クリスチャンとして、イエス様の手足となって、人に喜んでもらうために積極的に自分の命をイエス様にお献げしたいと思うのです。なぜなら、そこに命に至る道があり、この命に至る道にすべての人々を招こうとされているのがイエス様だからです。ただし、それは、だから、人を喜ばせなければ、と、顔をこわばらせ、髪振り乱して、何かをしなければならないということではありません。私たちがどんなに失敗しても、イエス様が私たちから離れることがない以上、私たちは、常に笑顔でいられるし、また、笑顔であるから、喜びを人と分かち合うことになるのです。

 日野原先生は、105歳というご生涯を全うされる中で、老いを迎えたとしても、体が思うように動かなくなったとしても、愛する奥様を先に神様に委ねなければならなかったとしても、私たちクリスチャンは、人を笑顔にすることができるという事実を、身をもって明らかにしてくださったのです。このことはつまり、この世を生きる上での様々な難しい問題も、私たちが何かをしない理由、できない理由にはならないということです。従って、私たちが先生への感謝を口にするなら、「あなたこそ、いえいえあなたこそ」と譲り合うのではなく、日野原先生と同じように、クリスチャンとして、笑みをたたえながら毎日を過ごし、共にある人々と喜びを分かち合うことを自らの使命として、主がお召しになるその日までを、笑顔をもってこの命に至る道を歩み続けていきたいと思います。

祈り





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