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聖霊降臨節第9主日礼拝 説教 「笑顔を絶やさずに」

日本基督教団藤沢教会 2017年7月30日

【旧約聖書】創世記        21章1~  8節
【新約聖書】マタイによる福音書    8章5~13節

「笑顔を絶やさずに」(要旨)

 節目節目を共にすることで、人が集う家族としての姿は形づくられ、また、私たち自身も、そうした関わりの中で育まれ、成長していくものだと思います。ただ、その中で生じるすべてが、悦ばしいわけではありません。むしろ、私たちの悲しみや苦しみの原因となる場合もあります。ただ、そうしたネガティブな要因をも共に分かち合う家族という関わりを通し、人は成長することにもなるのです。そして、それは、こうして教会に集う私たちクリスチャンも同じです。私たちと共にいてくださる方が神様であり、イエス様である以上、共にいることを避けて、私たちの信仰が養われることはないからです。また、だからこそ、聖書も、神様とイエス様を信じる私たちのことを神の家族と呼ぶのです。

 ただ、心弱い私たちがそれを続けるには、兄弟姉妹の情けに触れる必要があります。主にあって、というところで与えられる情けほど、私たちを笑顔にするものはなく、また、主にある兄弟姉妹の思いやりや心遣いを通し、私たちは神の情けに深く触れることにもなるからです。ですから、私たちが神様の情けに触れるためには、こうして共にいる時間がとても大切になってきます。そして、それは、礼拝を共にするだけで終わるものではありません。礼拝を共にし、神様を信じ歩む私たちの生活のあり方すべてが大事だということです。けれども、それだけに、それが、苦痛になる場合もあるのです。

 私たちが、人の情け、その人の気遣いや心遣いを素直に喜ぶことができるのは、その人の心根に触れるからです。けれども、それを喜んで受け取ることができないのは、気遣いが押しつけと感じる場合があるからです。「小さな親切、大きなお世話」とよく言われるのは、そういうことでもあるのでしょう。ただ、一緒にいるということは、ある意味で、そういう繰り返しの中に、私たちが生きるということでもあります。だからこそ、気は心と言われるように、押しつけとならないよう、大人のたしなみが求められもするのでしょう。しかし、それとて万能ではありません。ですから、その場合、自分のネガティブな感情を素直に表すことができれば、問題が尾を引くこともないのでしょう。また、それだけではありません。私たちが人との関わりに苦痛を感じるのは、相手の心遣いが痛いほどよく分かり、よく分かるから、その心遣い、やさしさが返って苦しく思えてしまう。そういうこともあるわけです。

 従って、人の情け、心遣いというものは、コインの裏表のように、うれしいだけのものではないということです。それゆえ、人は、人の情けに必要以上に臆病になるのでしょう。あるいは、情けというもの扱いにくさがそうさせるのでしょうか。見て見ぬ振りをするという気持ちに押し流されたりもするのでしょう。ただ、仮に、現実はそうであっても、多くの人は、それでいいとは思っていません。情けの大事さというものを知っているし、また、だから、自分もどこかで必ずと、押しつけでもなく、また、おざなりにでもなく、心からの情けを人に差し出したい、受けたいと、そう思うのでしょう。

 ただ、今申しましたことは、この世の論理で、信仰とは直接関係のないことなのかもしれません。ですから、私たち信仰者にとっては、本来は無関係の事柄だとも言えるのでしょう。だから、先ほど、神様とイエス様の慈しみ、憐れみ、優しさは、私たち「信仰者の心根」を通し、明らかにされていくと申し上げたわけです。ところが、神様とイエス様の心根を現すはずの私たちが、そのことに怖じ気づいてしまっているのはどうしてなのでしょうか。どうして、喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむことを、私たちは避けようとしてしまうのでしょうか。神の家族であるということがそもそも信仰の原点でもあるわけですから、私たちが一番に改めなければならないのは、もしかしたらその点であるのかもしれません。そして、今日のそれぞれの御言葉は、私たちにそのことを明らかにしてくれているのですが、ただ、そこで、もし、私たちが、改めることにばかり気を取られたとしたら、それは、本末転倒の結果を招くだけです。なぜなら、今日、御言葉が私たちに明らかにしてくれていることは、誰ができ、誰ができないということではないからです。

 子のない夫婦に子が与えられ、しかも、それが、齢100歳を数える夫婦であったとしたら、これは驚くしかありません。そして、それは、当事者であるその夫婦も同じでした。ですから、およそ一年前、神様からそのことを伝えられたアブラハムとサラは、神様の言葉を悪い冗談だと思い、何を馬鹿なと、冷笑を浮かべるほどでした。ところが、その言葉どおりのことが我が身に起こったのです。ですから、その驚きと喜びはいかばかりのものであったか。そういう意味で、このアブラハムとサラの夫婦は、神様の慈しみ、情け深さを自ら体験し、直接知ったということです。そして、それは、この部下思いの百人隊長も同じでした。イエス様と出会い、イエス様を通して、神様が情け深い方であることを、部下が癒やされることで直接知ることになったのです。従って、それぞれに共通しているところは、神様の情け深さを、その当事者だけが独占しなかったということです。自分の家族、生死を共にする戦友と分かち合っているのです。ですから、御言葉もまた、喜びに包まれたサラに「神は私に笑いをお与えになった。聞く者は皆、私と笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」と、「共に」ということを強調し、語らせてもいるのです。

 このように、神様の情けを実体験した者は、自らが喜ぶだけでなく、人をも笑顔にし、また、神様の情け深さは、またそういうところで働くものでもあるということです。このことはすなわち、神様が望むことは、すべての人々の笑顔であり、また、それを望まずにはいられないのは、私たちと神様とが格別に近い関係の中に置かれているからです。つまり、この神様との近さが、自ずと人をして笑顔にもするし、その喜びを分かち合うものとさせるということです。ですから、神様を信じ、イエス様を信じるということは、極言すれば、神様と我々とがすぐ近くにいるがゆえに、我々を笑顔にさせるということです。

 ですから、常に主にあって笑顔で過ごす私たち信仰者の顔は、特に、それを具体的に長きにわたり経験された方の顔は、この神様の恵みが、まるで年輪のように、皺となって刻まれていることでしょう。それも、眉間に縦に刻まれるのではなく、横に刻まれているということです。なぜなら、恵みを日々受け、過ごすということは、ぎこちない作り笑いを浮かべるものではないからです。そして、イエス様が、百卒長に向かって、「私はこれほどの信仰を見たことはない」と仰っていることも、つまりはそういうことなのだろうと思います。それは、やらされるでもない、また、やろうとするでもない、神様とイエス様が近くにいることをただただ喜んでいるがゆえの笑顔が、イエス様をして、そのように語らせたからだと思うからです。従って、私たちは、百卒長がここで語っている権威ということを誤解してはなりません。そこで言われている権威とは、イエス様の権威にひれ伏し、条件が合えば、お褒めの言葉をいただき、褒美として、欲しいものを手にすることができるということではないからです。

 イエス様が、私たちが遠く及ばない権威を身に帯びているのは間違いありません。けれども、イエス様の権威を語る上での強調点は、遠く及ばないところではなく、その遠く及ばない方が、自ら進んで近づいてくださった点にあります。つまり、百卒長は、この近さを素直に喜び、それも、ただ喜ぶだけではなく、この世の道理を含め、きちんと物事を弁えた上で、なお、神の子が近くにいることを素直に喜んでいる。百卒長の権威についての発言は、この世の道理、物事をよくよく理解した上でなされたイエス様の積極性に向けられたもので、ですから、そのイエス様との近さを素直に感謝し、喜ぶのが、私たちクリスチャンであるということです。従って、そこで浮かぶ私たちの笑顔は、イエス様が「言っておくが」と敢えて断りを入れた上で、「いつか、東や西から大勢の人が来て天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」と仰るように、そのまま天の御国まで続くものでもあり、それゆえ、アブラハムとサラ夫婦がこの時感じている喜びについても、同じことが言えるということです。つまり、私たちの将来は、神様とイエス様が近くにいてくださるがゆえに開かれており、だから、神様を疑い、呪い、その情けすらありがた迷惑だと感じることのある私たちでありながらも、神様とイエス様を近くに思うがゆえに、私たちは、笑顔を浮かべつつ、神様に導かれながら、将来へとその歩みを共にすることができるのです。

 ですから、その私たちに求められていることは、イエス様にすべてをお任せし、笑顔をもって、新たな一歩を踏み出すということです。けれども、それは、闇雲に前に突き進むということではありません。自分自身の限界をよく知った上でのことであり、それゆえにまた、一度の失敗が私たちを怖じ気づかせもするのでしょう。けれども、百卒長がまだ実現する前からイエス様にすべてをお任せすべく、その一歩を踏み出したように、私たちもまた、イエス様にお任せし、喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ歩みを大胆に踏み出すなら、私たちの将来は、そこで必ず開かれていくことにもなるのです。今日は、夕方から、みくに幼稚園保護者会主催の納涼祭があり、私たちと共にある幼稚園の保護者の皆さまからお招きを受けています。新たな一歩を踏み出すことに躊躇いを覚えている方は、是非、そういうところから、自らの信仰を捉え直されてみてはいかがでしょうか。子どもたちの将来、その家族の家族としての歩みが、祝福の中に、私たちと同じように開かれているということを、皆さんの笑顔を通し、お伝えしてみてはいかがかと思うのです。情けは人のためならず、神様の情け深さを、今週も、我が身をもって現す私たちでありたいと思います。

祈り



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