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平和聖日礼拝 説教 「中心を見つめる暮らし」

日本基督教団藤沢教会 2017年8月6日

【旧約聖書】ホセヤ書       6章1~  6節
【新約聖書】マタイによる福音書  9章9~13節

「中心を見つめる暮らし」(要旨)

 平和聖日のこの日、神様は次のように語ります。「私が喜ぶのは愛であって生け贄ではなく、神を知ることであって、焼き尽くす捧げ物ではない」と。つまり、神様に献げられる私たちの愛と、その神様を知るがゆえの誠実さが、私たちをして、礼拝に向かわせ、祈りを合わせる者とさせるということです。それゆえ、神様を愛し、神様を知る私たちの態度が崩されることはありません。神様への愛と誠実を貫くことこそが、私たちの取るべき唯一の道だからです。まただから、道を踏み外すことなく、神様に対し、愛と誠実さをもって、自らを献げることができるのです。

 それゆえ、私たちの神様への愛は、朝の霧のようにすぐに消え去るようなものではなく、また、私たちが現す誠実さは、神様の光に耐え得ないような薄っぺらなものでもありません。徴税人マタイが、イエス様の召しにすぐさま従ったように、それが、私たちの通常の姿でもあるからです。そこで、皆さんは、そのような自分自身の姿をどのようにイメージすることでしょう。今日は、先の大戦を覚え、礼拝を献げているということもありますので、戦時下、クリスチャンとして姿勢を貫き通した南原繁さんや矢内原忠雄さんをイメージされた方は、多いのではないかと思います。けれども、私は、また別の方のことを思い浮かべました。それは、「少年H」の作者でもある、妹尾河童さんのお母様です。

 戦後の市井の人々の姿は、私などが申すまでもありません。大半の国民にとって、残ったものは、自分の命だけであり、それだけにその残された命がいとおしくも感じられたわけです。空襲警報もない、灯火管制もない、息の詰まる暮らしからやっと解放され、多くの国民は、戦争が終わったことに心からほっとしたものでした。けれども、それほどまでにいとおしく感じられた自分自身の命を繋ぐことに、ほとんどの国民はまた、汲々とすることになったのです。食糧需給の60%しか賄えない現実の中で、人々は、自分が生きるだけで精一杯の状況に置かれることになったからです。ですから、そのような状況下では当然、自分が自分が、自分だけが、という思いが大勢となり、また、それが国民の大半の姿でもありました。しかし、その一方で、それとは正反対の姿を現す方もおられました。

 「少年H」の主人公のお母様も、そうしたお一人でありました。自分のことだけ、自分の家族のことだけで精一杯の状況の中で、明日のことを思い煩うことなく、隣家の子どもとも食べ物を分かち合ったのです。けれども、そうした母としての態度が、主人公をまた深く傷つけることにもなりました。自分の子どもがこんなにひもじい思いをしているのに、よその子にどうしてそこまでするのかとの思いに駆られてのことです。こうして、主人公は、母親への不信感を募らせていくことになったのですが、しかし、主人公の母親は、情に流され、それで自分自身の生き方を変えることはありませんでした。

 主人公の母親のしたことは、付け焼き刃でできることではありません。神様の言葉そのままをどんなときにも生きてきた、ご自身の人生のそのままが現されたものだと思います。従って、イエス様の「私が求めるのは、憐れみであって、生け贄ではない」とのこの御言葉に誠実に聞き従う私たちにとって、この母の姿は、そのまま私たちの姿でもあるように思います。しかも、私たちは、強制され、この言葉に従うよう求められているわけではありません。ですから、できるできないという居直った態度で、このイエス様のお言葉に聞く者は、恐らく、私たちの中には一人もいないことでしょう。ただ、私のこうした物言いは、皆さんに少なからぬ違和感を与えたということもあるのでしょう。

 ファリサイ派の人たちに対するイエス様のここでのお言葉を、多くの人々は、彼らへの当てこすりと受け止めているようですが、違和感を覚えられた方は、それと同じように私の今の物言いを、できない自分、やらない自分に対する当てこすりのように感じたのではないでしょうか。ですから、私のそのような物言いに対しては、当然、「では、お前本当に同じことができるのか。できるなら、やってみろ」との質問が返ってくることでしょう。そこで、皆さんに伺いたいのですが、ファリサイ派の人たちが、イエス様のなさったことにどんなに批判的であったとしても、憐れみを求めるイエス様が、そんな皮肉めいたことを言って、相手の揚げ足を取ろうとするでしょうしょうか。もしそうであるとしたら、イエス様が求める憐れみにどれほど聞く価値があると言えるのでしょうか。

 憐れみを求めるイエス様は、そんなけちで安っぽい方ではありません。ところが、皆さんは、憐れみを求めるイエス様のことを、一方では、当てこすりをなさる方だと考えてしまう。それは、「罪人とどうして一緒に食卓を囲むのか」とのファリサイ派の問いかけに対するイエス様の返答が、まるで質問をはぐらかしているとしか思えないからです。けれども、イエス様は、そのように人を小馬鹿にするような方ではありません。むしろ、逆です。彼らの質問を正面から受け止め、その求めに、まさに憐れみをもって応えておられるのがイエス様なのです。

 私たちがイエス様を信じるということは、私たちが、世界を創られた神様の「大きな物語」に生きているということです。そして、イエス様が求める「憐れみ」の一言が、そのことのそのままを現しているとも言えるでしょう。なぜなら、主の憐れみをもって、私たちが生きるということは、それぞれがその与えられた命を神様に感謝するにふさわしく生きるということであり、つまり、私たちの命が、神様の「大きな物語」の中にしっかりと置かれているからこそ、イエス様の憐れみにより、私たちの命の尊厳は保証され、その人がその人らしく生きることができるからです。それゆえ、この「大きな物語」が、私たち一人一人の「小さな物語」を否定することはありません。なぜなら、この「大きな物語」は、イエス様を信じる私たち一人一人の「小さな物語」が重なり合い、積み重なって明らかにされることでもあるからです。ところが、私たちは、神様の「大きな物語」の中にある自分自身の「小さな物語」を見出すことができずにいる。ある特別な人だけに許されたことだと考えてしまう。その理由は単純です。それは、私たちが神様の「大きな物語」を誤解しているからです。誤解しているからこそ、ファリサイ派に向かい、イエス様が仰ったことを皮肉めいた言葉として、受け止めてしまうのです。

 今日、御言葉が私たちに最初に伝えてくれていることは、何でしょうか。それは、罪人である徴税人マタイが罪人のまま召し出され、そのまま素直に従ったという事実です。そして、マタイに限らず、多くの罪人が、イエス様と食卓を囲むことが許されたと御言葉は語るのです。このことはつまり、その点をファリサイ派が断じているように、イエス様と共にある人々の罪は、残されたままであり、イエス様が「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と仰ったように、それが、イエス様と共にある人々の現実でもあるということです。ところが、罪あるままにイエス様と共にあることに、私たちは安心することができずにいるのです。それは、ファリサイ派と同じように、罪を罪としてそのまますべて取り除かなければならないと、そう考えているからなのではないでしょうか。まただから、「大きな物語」の中に自分自身の「小さな物語」を見い出せないのではないでしょうか。けれども、だからこそ、「医者を必要とする者は、丈夫な人ではなく、病人である」とのイエス様のこのお言葉を思い出したいと思うのです。

 罪人がイエス様と共に食卓を囲んでいるということは、食卓へと招かれた者すべてがすでに神様の「大きな物語」に生きているということです。そして、イエス様の憐れみ溢れるそのお言葉に聞くすべての者をこの同じ所に招かれているのが、私たちの神様でもあるのです。けれども、それにも関わらず、自分の「小さな物語」のことしか考えられず、そのためにまた、人の罪、この世の罪しか目に映らず、憐れみと赦しと慈しみに生きることができないのは、その人が、「大きな物語」を見失い、誤解しているからです。また、だからこそ、イエス様もそのような者に向かって「行って学びなさい」と仰るのです。それは、行った先で、自分自身の「小さな物語」に絶望することで、人は、主の憐れみと慈しみ、そして、赦しとを経験することになるからです。

 従って、イエス様は、ファリサイ派に対し、皮肉を語ったわけではありません。もちろん、自分自身の「小さな物語」に自信が持てずにいる多くの人々を当てこすろうとしたわけでもありません。イエス様が、私たちと、そして、私たちを通してこの世と共にあるということは、神様の御心として、この世に生きるすべて命が神様の「大きな物語」の中に置かれ、祝福の中に歩むことが許されているということです。それゆえ、「少年H」の母親の姿は、イエス様を信じるそんな私たち一人一人の姿でもあり、たとえ一時、私たちが人と人との関係性に破れを見出すようなことがあったとしても、むしろ、その破れを通し、神様は、憐れみをもって、その祝福を世に明らかにしてくださるのです。

 平和聖日を迎えたこの日、過去の反省に立つのはもちろんのことではありますが、反省の余り、もし、私たちが、神様の祝福を見失い、見誤るようなことがあったとしたら、この世は、希望のない世界となります。しかし、素朴な信仰に生きた一人の婦人の、その信仰者としての姿が明らかにするように、神様の「大きな物語」の中に自分自身の「小さな物語」を見出す者は、神様の憐れみとイエス様の慈しみとをその身をもって現し、世界が神様の祝福と希望の内にあることを伝えることができるのです。それゆえ、平和聖日のこの日、だからこそ、私たちは、イエス様のここでの言葉をその胸にしっかりと刻みたいと思うのです。「行って学びなさい」と仰るその言葉に聞き従い、「大きな物語」の中に自分自身の「小さな物語」を重ね合わせたいと思います。

祈り





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